すべての人の救われ
根強い不信感

信仰さえあれば、救われるのですよ、と言われても、何故か素直に信じられない心がありますね。それは、人間の現実の姿を考えてしまうからです。こんな業の深い人間が救われるはずがないと、つい思ってしまうからです。それほど、人間には自他に対する不信感が根強くあります。

消えてゆく姿

現実の人間の状況は、(人類の)過去の業が現れてきているのであり、業の消えてゆく姿なのです。病気、災難、生活苦、人間関係の悩み、罪の意識といった苦悩は、過去世からの業の消えてゆく姿であり、人間の本当の姿ではありません。永遠に実在する人間の姿は神の子であり菩薩なのです。ただ、現実は神の子の姿が全面的に現れないで、暗雲のように煩悩が蔽い、だめなように見えているだけなのです。ですから、現実的な状況は、消えてゆく姿であり、それをもって人間を判断してはいけないのです。

人間の本体は、神の子であり菩薩です

「人間というものは、あくまで神の子です。絶体絶命神の子です。
神の子でなければ、この世は滅びるんです。神の子だから神様とすがれ
るんですよ。」


人間の本体は、神の子であり菩薩です。これは、五井先生が繰り返し述べておられています。
どんな病気、生活難、人間関係、罪の意識などで悩んでいても、
それは、いずれは消えてゆくもので(空)、人間の本質ではありません。

神の子と救い

人間の本質は神の子です。ですから、本来は救われているのです。しかし、人間は業(カルマ)や煩悩に蔽われて、救われていることを忘れてしまいました。そこで、主イエスや親鸞上人、五井先生がいらして、神仏の御名により、すべての人が救われるいることを説いたのです。

「阿弥陀様というのは宇宙に遍満する大神様です。その中に法蔵菩薩
が一体となって、そのまま阿弥陀様になったわけです。みんなを救わなければ自分は仏にならないと言った菩薩様が、仏という名前で現れているわけですから、みんなは救われるのに決まっているんです。ということは、初めから、人間は罪の子ではなくて、神の子だ、みんな救われているんだ、という証明なんです。これは浄土門系の教えです。」
「心貧しき者は幸いなり」p19

「人間は神の分霊であり、神の子であるけれど、分霊としての自分一個人、肉体人間一人の存在として生きている限りは、この世において、神の子の姿を、はっきり現すことはできない。少しぐらいの善意は、この世界の激しい業想念の波の中ではすぐに蔽われてしまう。人間は業生でないといっても、真実の生き方を知らないでは、業の子と同じように、悪行為をしないでは、生きてゆかれないようなことになってしまう、と考えるのであります。

そこで、人間は凡夫なのだから、阿弥陀仏の御名を唱え、阿弥陀仏のみ心の中から改めて真実の人間の生き方を頂き直すという唱名念仏の教えが生まれたのです。また、肉体人間では何事もなしえない、イエスの御名をとおして神につながるのだ、というキリスト教の教えがあるのであります。」(五井先生の教義参照)

「彼(主イエス)を受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人々は、血筋によらず、人の欲にもよらず、ただ神のよって生まれたのである。」(ヨハネ1−12.13)

み仏の慈悲と救い

親鸞上人は、み仏の救いについて、次のように言われています。「歎異抄第三条」より

「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、(煩悩から離れることのない私たちは、どのような行をしても救われることがないのをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」(阿弥陀仏にすがるしか救いようのないような業の深い人間こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。

み仏は(神様)は、一部の人間だけを救おうとしているのではありません。すべての人を救おうとされています。むしろ、業が深くてみ仏(神様)にすがって来ている者をこそ、救うことがみ仏の悲願であると親鸞上人は述べておられます。み仏の悲願は、吾々一人ひとりの凡夫のためにあるのです。煩悩具足の凡夫のままで救って下さるみ仏(神様)に感謝致しましょう。今どんな状況にあろうとも、み仏の無量の慈悲により救われているのです。

神の大愛と救い

五井先生も、神の愛と救いについて次のように言われています。

様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」

「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」


神様は愛そのものですから、すがりさえすれば救って頂けるのです。嫌な性格や我が儘は、神様が直して下さいます。神様を信じてさえいれば救われているのです。

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰になりません。」

煩悩があるままで、救ってもらえるのが本当の信仰なのです。でなければ、大部分の人は救われないことになってしまいます。神様は、差別なくすべての人を救おうとされています。救いに条件などはありません。親が我が子を救うように、無償の愛でもって救って下さるのです。


すべての人の救われ

だから、信仰さえあればいいのです。現実の状況にかかわらず、信仰により、すべての人は救われています。信仰さえあればよいことに感謝して神様を賛美ましょう。神様は人間の親です。神の子の人間を見捨てるはずがないのです。いずれ、すべての人は救われます。信仰さえあれば、すべての人は救われています。

私たちが、今どんな逆境の中にあろうとも、悩みの最中にあろうとも、信仰さえあれば、必ず救われています。人間の苦悩は、神様がすべて責任をもって消して下さいます。

「守護霊の導きに従って悪いことが現れた時、動揺してはいけません。これで
業が消えてゆく、必ずよくなると、その信仰をあくまで堅持することです。これが天とつながる道なのです。
失敗しようが、人に悪口をいわれようが、ただただ守護霊を信じ切ることです。信ずるより他にはないのです。」
「生命光り輝け」五井昌久講話集1 p48

信仰さえあれば、必ず人生は光明化します。これが五井先生の堅いお約束です。謙虚な気持で、神様の愛と救いを信じましょう。


「いかなる困難な事態がその人の前に起ころうと、守護霊(神様)の守りを信じうる人は、必ず、その事態は
光明に転じます」


たとえ不信感があっても

たとえ、本当に救われるんだろうか?という不信感があっても、それも消えてゆく姿(煩悩)です。そのような煩悩があるままで救ってもらえるのです。自分で不信感(煩悩)を消そうとしてはいけません。そう思えば思うほど意識して不信感は強くなってきます。煩悩はそのままにしておいて、神様を呼び続けましょう。

「呼べば必ず救われる」私に荷物を預けなさいP.37)

神様を呼べば必ず救われる、と五井先生は仰っておられます。業想念に蔽われて、たとえ心に不信感がわいてきても、神様を呼んで祈っていれば十分に神様とつながっています。人間の本体である神の子が、神様を呼んでいるからです。業想念はハナから神様を信じようとはしません。心が不信感で一杯になっても、神様を呼んでさえいればいいのです。それで十分に救われています。「神様はすがってくる者を決して見放したりはしません」。最後まで神様(五井先生)を信じ続けましょう。「その人に天国の冠が輝きます」

神様のみ恵み

神様を信じれば、神様と人間の間に交流が芽生えます。それはだんだん大きくなって、実を結び、人間を変えてゆくのです。神様のみ恵みにより、次第に、人間は光明化していきます。業が消され、人間の本体である神の子の姿が現れてきます。人生が大きく変わり、幸福になっていきます。死後も、神様の浄めによりすべての業を祓われて、神の国へ往くことが出来るのです。神様抜きにして、自分の心を変えることは、極めて困難です。まして、煩悩を消し去るには神様の力がないと不可能です。

「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」「永遠のいのち」p132

神様にいつも感謝しましょう

ただ神様を信じていればいいのです。神様の力ですべてが変えられていきます。それは、幸福行きの列車に乗っているようなものです。神様は人間の魂の親であり保護者でもあります。神様がすべての責任をもって、天にまで導いて下さります。心を安んじていればいいのです。そして、救い主である神様にいつも感謝しましょう。素直に神様に感謝できる人は天国の人です。

神様有難うございます

世界人類が平和でありますように



煩悩は あると言へども すでにもふ 神の慈悲にて 救はれしかな

煩悩の 雲厚くとも あるがまま 救ひ賜る 神の御心



B.G.M.の解説

モーツアルト 聖歌「いと喜ばしき宴」

ソプラノ エリー・アメリンク





                                                   ホームページ