愛すること

                                            愛すること

人間の尊厳性

真実の唯神思想家は、自ずから人間の生命は、神の御心において平等であることを知っているのであり、真実に人間の尊厳性を知っているのであります。p15

自己のみが優れている自己のみが神の子である、自分のみが救われればよい、こういうことは、神の御心に反する心で、決して真の信仰心ではありません。p16

どうして人間は神の子なのか

もっと確実に自分の幸福をつかむには、そうした願望さえも消えてゆく姿として神の御心の中へ祈りとともに入れていくのです。あなたに必要なものはすべて神の御心中に備わっているのです。ですから、あなたの望みごとより、更に更に深い高い、尊い望みごとを叶えて下さることになるのです。p36

神と神々について

何のために宗教信仰をするかと申しますと、これは神様に自己の本心を開発して頂き、正しい道を歩んでいけるようにというためのもので、軌道を外れている車を、軌道に乗せてもらうための宗教信仰なのであります。p52

そういう贋神に取り憑かれぬように、いつも自己専属の守り神である守護霊様、守護神様の加護を頼んでおくことが大事なのです。頼むというより、頼まれずとも守っていて下さるのですから、常に守っていて下さることを感謝し続けていればよいのです。p58

この世は自己の想いの置き場所によって、どんなにでも幸せになりうるのです。常に常に世界平和の祈りによって、自己の想念を神の大光明世界に置いておくことを、日々瞬々行じていて下さい。その人の運命は必ず良くなっていくのです。p59

守護神様、守護霊様がその人その人の専属で守って下さっており、その人の感謝の足りぬところ、考えの足りぬところを、代わって神々に感謝して下さり、考えて下さって、不幸や災難を少なくて天命を完うさせようとして下さっているのであります。p49

神の愛について

個人個人の生命は、肉体離脱後は更にいきいきと大宇宙の各階層において、生き続け活躍し続けているという事実を、進歩した人々はよく知っているのであります。p61

自分を愛し人を愛す

愛ということ

慈愛の行為とは、この世のプラスだけではなく、あの世においてもプラスであり、永遠の生命を自己のものとなしてゆく唯一の道なのであります。p106

永遠につながる一瞬

ここに一つの救いがあります。それは私どもが完全円満であり、全知全能である神の愛し子であるということです。神の子である我々を親である神が救わぬはずがありません。というより、既に神の御心には地球人類の救いが用意されているということであります。p112

世界平和の祈りは、私たちの生活の一瞬一瞬が神霊の世界に通ずる永遠の今となり、私たちの生活を神の御心そのものの生活となしうる生き方となるのです。p118

純粋に神への感謝を続けていれば、自己の全身全霊で、神を認識することが出来るのです。私は神の認識を容易にするために、守護の心霊の存在を明らかにし、そのたゆみなき守護の神霊への感謝を強調しているのです。p120

別に神が罰を当てているのではないのです。自己が真実の自己を現そうとして、その邪魔を消滅させようとしているのが、天罰のように見えるのです。p121

縦の働きとは神の慈愛による働きであり、横の働きとは、その神の慈愛を受けて神の御心をこの地球界に現す働きを言うのであります。この縦の働きを成就させるには、永遠の今を生かす祈り心による行動より他はないのです。p125

人間の本質

誰にも出来ないような真理では、とてもついて行けない。神の法則と肉体人間の間をに立って、人間の欠点をカバーしてくれる存在者を私は求めたのです。そして守護の神霊の存在を、私ははっきりとつきとめたのです。p141


どんな人にでも一人一人の人間に、守護の神霊は守り続けていて下さる。肉体人間の欠点を熟知していて、その欠点をカバーしながら、次第に真理に近づけて行って下さる守護の神霊の存在が、ごれほど人間を力づけてくれるものか、私ははっきり知ったのでした。p141

生命と心について

心が、自分の頭の中にあると思ったり、心臓の辺にあると思ったりしないで、自分の心は神の御心と一つのところにあるのだ、そして自分が心だと思っている心は、実は善も悪も伴に含んで玉石混交のこの世の産物である業想念なのだ、だから釈尊がいわれるように、空になるつもりで、その業想念を、現れては消え去ってゆくものとして、世界平和の祈りの中に投げ入れて、祈りを起点にして、改めて行動を起こすということにしよう、と思うとよいのです。p160

祈りの生活

想いというのは三界をぐるぐる回っているだけで、神の御心に入っていきませんが、祈りというのは、光り輝いた神の御心の中で浄化して頂き、神の光を自己の中に流し入れることです。p166

幽界の浄めは、神霊の光明を流し入れて浄めるほか方法がありません。それをするのが祈りであります。世界平和の祈りは、この地球世界を平和にしようとして専門的に働いておられる救世の大光明の働きを、最も容易にするために、神界の指示によって出来上がった祈り言なのです。ですから、世界平和の祈りをするところに、救世の神々の光明が流れ入って幽界を浄め肉体界を浄めて下さるのです。p170

この地球世界が、真実の世界平和を達成するためには、どうしても守護の神霊との一体化によってなされねば、三界の業生の波に人類はのまれ尽くされてしまうのです。ですから私は、寝ても覚めても、歩いていても、働いていても、いつ如何なる時にでも、世界平和の祈りが心の中で響いているような、深い祈りになりうる祈りが必要であると説いているのです。p175

祈り心というものは、常に継続してもちつづけていることが必要なのであります。ある一定の時だけ祈って、後は祈り心のない唯物論的生き方をしていて、祈りの効果云々といったところで、その人は真実の祈りを実行していないのですから、祈りを云々する資格はないのです。p176

真の幸福をつかむ統一行

この方法はなにも難しいことは何一つありません。善悪混交の想念を自力で善のみの想いに変えろなどとと言う、出来そうにもないことを言うのではありません。善悪混交の想念のままで、そのすべてを消えてゆく姿という意識をもって、世界平和の祈りの中に、その想念すべてを投入してしまう祈りの日々をつづけてゆけばよいのです。その行をつづけていくうちに、いつのまにか世界平和の救世の大光明の中で、善悪混交の悪や誤りの想念行為が善であり、光明である、神の御心に叶う想念行為だけが残るようになっていくのです。p194

人間が常に、これが自分の性格だと思い、こういう風にしか自分はゆかれぬというような自己限定をしていますが、それは自己のほんの一部を現しているにすぎないので、真の統一をすれば、自己というものが遙かに大きく広くなりまして、人物にも幅も深みも出てきます。人間はこれが自分だと思っている自分は、過去生からの業想念の波でしかないのです。p195

自己の想念を一度神の御心に投入しきった人間であっても、常に反省し統一してないと、肉体世界に生きている限りは、つい肉体界の波動にひきこまれまして、肉体人間と同じような生活を当然としてしまいます。常日頃のたゆみない祈りの生活、統一の生活が、その人の神性を豊かに保ちつづける秘訣となるのであります。・・・常に祈り心で統一されていますと、この世的な生活に同調しているように見えながら、心はこの世の汚れに染まらない光明の響きを出し続けていられるのであります。p195

悟りということについて

真我というのは、本来が神の御心そのものの現れなのですから、神を離れた肉体人間としての想念意識はないのでして、光そのものであり、神の末、神の子なのです。現在では全く我も吾も混同しておりまして、いずれも神仏の御心
を離れた想念行為にに終始しているわけです。p202


人間が微妙な波動の神の世界から、荒い波動の三次元の物質波動の世界に生まれてきたことによって、人間の本来の能力の何分の一をもだし得ぬ不自由な心身になっていますので、神の御心は、そのハンデキャップを埋め補う意味で、守護の神霊を各人につけられ、守護の神霊との一体化によって、地球の進化つづけてゆき、ついには神の御心そのものを地球世界にも実現する、ということになっているのであります。p205

神は一方では、人類救済のための守護の神霊として働かれているわけで、小は一人一人の上に立ち、大きくは国家、人類の守護神として、常に人類の足らざるを補い、人類の滅亡を防ぎ、進化に向かって歩みを進ませているのです。p206

とらわれを放つ

実は、自己の肉体に付属する精神的な満足のために、神仏を求めている人が多いのでありまして、自己の想念意識を空しくして、神仏の御心を自己のものにしていこうという人は意外に少ないのです。p220

囚われまい囚われまいとすることは、やはり囚われになりますから、囚われてもよい、すぐ消えてゆく姿として、お祈りの中で、守護の神霊を初め、救世の大光明の光明波動で消して頂けばよいのだ、と素直に世界平和の祈りを行じていけばよいのであります。p226

この祈り方は、浄土門の南無阿弥陀仏という念仏行と同じように、神様の方からすくい上げて下さる、神様の御心に唱名と同時に一つになって帰一して、そこで改めて自分の運命を頂き直すのです・・・。p233

少なくても宗教をやっておられる方、宗教団体に入っておられる方は、自己の欲望をのとらわれを放つと同時に、宗教とらわれも放って、真理を自己に現す生活に入って頂きたいと願うものであります。p233

永遠の生命の自覚

世界人類の平和を祈る心は、そのまま永遠の生命につながっている心です。何故ならば世界人類の平和は、神の御心そのもの、愛そのものでありまして、永遠の生命のひびきがそのまま現れている心だからです。

世界人類が平和でありますように、このやさしい言葉は、地球人類のためばかりでなく、宇宙のあらゆる星々に住む人類にも適合する言葉なのです。大宇宙の調和の響きそのものの言葉であり、永遠の生命(神の命)と一つの言葉なのです。p250

永遠の生命の自覚は、この祈り言をすることによって自ずと開けて来るのであります。どうぞ虚心坦懐にこの真理を考えてみて下さい。この祈りを根底にしてすべての活動をしてください。祈りのない生活には永遠の生命のつながりはないのです。p251



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