阿弥陀信仰の神髄(歎異抄第一章)

歎異抄第一章には、阿弥陀信仰の信仰の神髄が要領よく記されている。この第一章を暗記するくらいによく理解すれば、阿弥陀信仰の神髄を自然に身につけられると思い、この薄明集に載せておくことにした。

阿弥陀信仰は、念仏を称えて天国浄土に往生することだと言われてるが、この第一条をよく読むと、阿弥陀信仰で得られる利益(幸福)は阿弥陀様の本願(救済)を信じて念仏を称えようと思うときに、阿弥陀様から賜る「収め取って捨てられることのない幸福」と記されている。「収め取って捨てられることのない幸福」とは、自分が絶対的に救済されているという安心感とその感謝というと分かりやすいと思う。有難とうございますという湧き出る感謝の心と筆者は思っている。

第一章に念仏を称えて救われた人は、「悪をもおそるべからず」と言われてるが、これは悪を勧めているのではなく、自分が過去生から背負ってきた深い悪業をもおそれてはならないという意味だと筆者は考えている。親鸞上人のような善意で、自分を犠牲にしてまで人々を救おうとした人が、悪を勧めているというのは、普通の常識では考えられないからだ。

人間が救われるのは、ただ弥陀の本願を信じる信心さえあればよい。その信心で救われるのであり、功徳を積むことで救われるのではない。もし念仏を功徳を積むことと考えて称えている人がいたら、その人は念仏を何度称えても心は救われない。阿弥陀様の本願を信じる信心で救われるのであり、決して念仏の回数を多くして功徳で救われるのではない。したがって、念仏を称えるときには、すでに信心で救われているのであり、念仏はその救いへの感謝の祈りである。心から有難うございますという湧き出るような想いが念仏の本質である。

それでは、歎異抄の第一章を原文で記すことにする。原文は鎌倉時代の比較的分かりやすい古文なので、現代語訳は省くことにしました。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂(ト)ぐるなり」と信じて

「念仏申さん」と思ひたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨(フシャ)の利益(リヤク)にあずけしめたまうなり。

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。

そのゆえは、罪悪深重(ジンジュウ)・煩悩熾盛(シジョウ)の衆生を助けんがための願にてまします。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々(ウンヌンと親鸞上人は仰せになりました)