白光への道

                                                  

白光への道

真の悔い改めをした人にとっては、その時から神仏と一つの道に入り、魂は救われているのですから、過去の消え去ってゆく想念の肉体を惜しんだり、痛んだり、悲しんだりすることはないのです。明るくいさぎよく、罪の消滅をしてゆける心境になっているのです。p30

私は何一つ悪いことをしないのに、何故こんなに不幸な目にばかりあったり、不利な立場にばっかりなるのだろうと不平をこぼしがちな人があります。これは善人ぼこりといって、なかなか神様の真の姿を、自己の環境に現し得ない人なのです。p30

祈りは、自己の想念の力をすっかり神様にお返しして、お任せして、空になってしまった心境であり、、念力は、自己の想念の力を他に働きかけて、自己の思い通りに相手を動かそうとする心であり、業因縁の執着する心、把われのこころであります。p60

「無くてはならぬものは必ず与えられる」これが真理なのです。無くてはならぬものは与えられるのですから、何も殊更念力を使ってものを引き寄せることはないのです。すべて神様にお任せする心境になって、大きな祈り、根本的な祈りの、世界人類の平和、日本の平和の祈りをなし、自己や家族の天命の完うされることを祈った方が余程秀れた行為だと思います。p61

直霊と分霊とがしっかりつながって動揺しないでいる不動の心になるには、やはり常日頃から、自分と神とは一体であるとか、常に守護の神霊が自分を護っていて下さるということを想っていることが大切なのです。神仏を離れては決して不動心にはなりません。不動心とは只単なる度胸をいうのではないのです。p80

業、サタンは実在ではなく、誤てる想念の波動の現れに過ぎないのですが、その跳梁に対して、ただひたすら神を念じて心を動かさずにいれば、必ず消え去ってゆくものなのです。p81

私どもは、只ひたすら神を信じ、神を想い、自己と神との一体を念じつつけてゆきましょう。神愛を信じる不動心こそ我らを根底から救うのです。p85

三界は唯心の所現(思う通りに現れる世界)という事実を超えたところに、真実の宗教世界があるのだということを、私は皆さんに知らせたいのです。p106

人間神の子という事実も、罪悪深重の凡夫、罪深き人間等の言葉も、それぞれが個々別々に説かれて、統一性をもたない限り、真実な救われの言葉とならず、人を驕りたかぶらせ、或いは陰鬱にならしめる言葉となってしまうのでありいます。p106

私の教えは全否定即全肯定ともいえるので、肉体人間を罪悪深重の凡夫なりと親鸞同様に全否定して、そのままの想念を、世界平和の祈りの中で全肯定にすりかえてしまうのです。ですから、すべての禍、すべての不幸、すべての悪想念行為が、世界平和の祈りをする瞬間にすりかえられてしまうのです。このところが、人類が救われるか救われないかのキーポイントなのであります。p136

この世の罪穢れをすべて自己の身に負って生き抜こうという大決意があってこそ、宗教指導者といえるので、自己の心の安易さを求めているようではどうにもなりません。この肉の身とそれに付随する想念は、すべて消えて行く姿なのです。その真理がはっきり分かった時、その人の心は不退転のものになっているのです。p138

如何なる悪や不幸も不調和も、因縁因果という言葉も罪の子という意識も、すべて一度つかんだら、そのつかんだ想念ごと、消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の想いとと伴に、世界平和の祈りの中に入れてしまうのです。そうすると、いやがおうでも神の子本来の姿が、その人の生活環境の中に現れて来るのです。易しい全託、空の境地の実現なのです。p150

人間の運命環境は自分の過去生からの想念行為から決まって来るのですが、人間は神の子なのだ、光の子なのだという観念の下に、そこから全生活をやりなおさないと、因縁因果の波の世界、心の法則の波の世界を抜け出すことは出来ないのです。p151



homepage