煩悩即菩提

浄土門の人間観

「阿弥陀様というのは宇宙に遍満する大神様です。その中に法蔵菩薩が一体となって、そのまま阿弥陀様になったわけです。みんなを救わなければ自分は仏にならないと言った菩薩様が、仏という名前で現れているわけですから、みんなは救われるのに決まっているんです。ということは、初めから、人間は罪の子ではなくて、神の子だ、みんな救われているんだ、という証明なんです。これは浄土門系の教えです。」「心貧しき者は幸いなり」p19

宝蔵菩薩は、すべての人を救わなければ仏にならないという誓願をして、遙か昔に願を成就して阿弥陀如来になりました。ということは、遙か昔にすべての人は救われているはずです。これはどういうことかというと、神仏は慈悲そのものであり、人間は神の子、菩薩であり、本来は救われているということです。

煩悩具足の凡夫

ところが、人間は、神仏の御心を離れてしまい、自己中心的な悪業を積み上げて、人間が本来神の子、菩薩であることをすっかり忘れてしまいました。ついには業想念のなすががままになり、地球は争いと不幸の渦巻く場となってしまいました。そして、人間は煩悩具足の凡夫となりはててしまったのです。

そこで、神仏は、人間界に主イエス、親鸞、五井先生などを送り、人間は本来神の子であり菩薩のゆえに、神仏の御名によりすべての人が救われることを説いたのです。親鸞上人は、そのような人間を和讃で次のように詠んでおられます。

親鸞上人の和讃

罪業もとよりかたちなし

妄想転倒のなせるなり                                          


心性もとより清けれど

この世はまことの人ぞなき

み仏の慈悲

親鸞上人は、「歎異抄」第三条で、つぎの様に仰っています。

「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて(煩悩から離れることのない私たちは、どのような行をしても悟ることがないのをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、
(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」
(阿弥陀仏にすがるしか救いようのない業の深い人間こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。

み仏は、とても悟ることの出来ない煩悩具足の凡夫を憐れまれて、どのように業の深い者をも救おうという悲願を立てて下さいました。み仏の悲願を妨げるような悪はありません。何かにすがらなければ救われる道がないような業の深い者こそ、み仏の悲願にかなう者であると親鸞上人は仰っています。み仏の悲願は、吾々一人ひとりの為にあります。親が我が子を慈しむように、み仏は、無償の慈悲で、すがる者を救って下さります。み仏の慈悲にもれる人は誰一人ありません。私たちは、み仏の御名によりすべて救われるのです。

み仏の救い

私たちの人生には様々の苦労があります。不遇や逆境にある時、不幸や災難に遭った時に、私たちは己の業の深さを痛感します。いつ如何なる時でも常に、み仏は、「救ってあげよう」と言って下さっています。ですから「有難うございます」とみ仏の言葉を受け入れるだけでいいのです。み仏の慈悲により、罪は赦され、救われるのです。み仏は、私たちを我が子のように憐れんで、救って下さるのです。

病気になったり、経済的に破綻したり、人間関係で行き詰まっても、親身になって助けてくれる人が何人いるでしょうか。たとえ相談にのってくれても、献身的に助けてくれる人が何人いるでしょうか。このような時、我が身の孤独をつくづくと感じてしまいます。世の中とはかくしたものなのです。人も、自分のことが背一杯で、とても私たちを助けてくれる余裕はないのです。しかし、大きな不幸や失敗があっても、み仏だけは、見捨てないで、深い慈悲で憐れんで下さり、私たちをすくいとって下さいます。

み仏の救いとは

み仏の救いを信じて受け入れた時、私たちは大きな救いの船に乗せられ、天国浄土まで運ばれていきます。み仏が責任をもって、天国浄土まで導いてくださいます。

み仏は、私たちの業をあらゆる手段を講じて消して下さいます。み仏の御名を称える(念仏)時、み仏の光で業は消されてゆき、私たちの運命も改善されていきます。み仏の救いを信じる人は、どんな困難な状況にあっても、必ず事態は光明に転じます。また、み仏を信じて、感謝していれば、必要なものは願わずとも与えられます。つまり、この世で必ず幸福になることが出来るのです。

阿弥陀如来を神道やキリスト教で言うならば、大神様であり、父なる神でもあります。阿弥陀如来を信じる人は、、阿弥陀如来と一つになり、み仏の命である「永遠の生命」へつながっています。「永遠の生命」があるからこそ、み仏の国である天国浄土に往けるのです。この世の栄華はすべて消えてゆきます。しかし、み仏の命は、天国浄土で永遠に輝き続けるのです。

「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかた(父なる神)を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」ヨハネ5.24

念仏と救い

阿弥陀如来は、煩悩具足の凡夫(すべての人)を救おうと、本願を立てて下さいました。その本願の大慈悲に応じるように、念仏を称えましょう。み仏の本願において、私たちは救われているのです。日常生活の中で、業の深さを感じたら、すかさず、念仏を称えましょう。み仏の本願は、絶対無条件の大慈悲です。その本願に漏れる人は誰もいません。み仏の慈悲に救われたことに感謝して念仏を称えましょう。み仏の御名においてすべての人は救われているのです。

煩悩即菩提

嫌なことがあり、どんなに己の業の深さを感じても、み仏の本願により、私たちは救われています。み仏の無量の慈悲を想い感謝致しましょう。どんな煩悩があっても、煩悩具足の凡夫を救って下さるのが、み仏の本願です。煩悩は、み仏の慈悲により、救いへの感謝に振り替わっていきます。煩悩が深ければ深いほど、救われた喜びも大きいのです。禍は転じて幸となるのです。

煩悩→慈悲→念仏→救済→感謝

この様な経過により、煩悩は菩提(救い)へと転じていきます。

念仏は、救われを想うと同時に感謝の念へと進んでいきます。

神の子と菩薩

人間は本来神の子であり菩薩です。しかし、(人類の)過去世からの業想念が溜まり、外見では煩悩具足の凡夫になってしまいました。災難や不幸は、過去世からの業想念が消えてゆく時に起こる現象です。消えゆく姿が現れたら、すかさず念仏を称え、阿弥陀如来(救済の神)を想い続けましょう。み仏の慈悲と光明を想い続けていれば、業想念は次第に消えてゆきます。それと同時に神の子であり菩薩である姿が次第に現れて来ます。私たちは、消えてゆく姿で念仏を称えることにより、神の子や菩薩に変えられていきます。

「輪廻し煙のように消える業想念をつかむことなく、ただ光明のみを掴む、神様(阿弥陀如来)の光のみを
見つめ続けることです。これが光明思想であり、自分を救い、世界人類を救うことになるのです。」
「生命光り輝け」五井昌久講話集1p18

永遠の生命

阿弥陀如来(宇宙神)は、無量寿如来とも言われます。阿弥陀如来を信じることは、心の中にみ仏を受け入れることと同じです。つまり、阿弥陀如来を信じている人は、心に無量寿(永遠の生命)を得ています。永遠の生命は、この世からあの世に続く神的な生命です。み仏を信じる人には、永遠の生命があることを堅く信じましょう。この世のあらゆる栄華は消えてゆきます。永遠の生命を得ている人は、神の国で永遠に輝き続けることが出来るのです。永遠の生命を得た人こそ人生の真の勝利者なのです。どんな境遇にあっても、永遠の生命があることをかみ締めましょう。そして、み仏に感謝しましょう。


「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」
「魂が大きく開く時」p77


「キリスト(真理)を信ずれば永遠の生命が得られる、ということは本当です。・・・真理はなにか、簡単にいうと、人間は神の分生命である。しかし、想念の世界において生まれ変わり死に変わりするけれども、本心は光り輝き自由自在なものなのだ、というこです。それを信ずれば、信じただけで、永遠の生命を覚得したことになるのです。「質問ありませんか?」p100


どこまでも信じ抜こう

守護霊(み仏)の導きに従って悪いことが現れた時、動揺してはいけません。これで業が消えてゆく、これで必ずよくなると、その信仰をあくまで堅持することです。これが天とつながる道なのです。失敗しようが、人に悪口をいわれようが、ただただ守護霊(み仏)を信じ切ることです。信ずるより他にはないのです。

「魂の救われといものは、必ず最後まで神様(み仏)を思うものの上に輝く。
神様(み仏)を想うということは神様(み仏)と一つになるということなんです。
守護霊様守護神様(仏様)ありがとうございます、と言うことは、
守護霊守護神宇宙神(み仏)と一つになることです。」

み仏を信じていても、不都合なことは、起こります。み仏は、あらゆる手段を講じて業想念を消して下さっていますが、その一部は、試練のような形で人間にも起こります。

それは「人間に出来うる限りの努力と経験をさせて」(神と人間p52)霊魂の経験を高める為に行います。ですから、人間に起きる不都合なことは、大きな目で見れば必ず人間にとって役立つことであるわけです。つまり、不都合なことは、人間が大きく成長するためにの試練とも言えるわけです。すべての人間を救おうとされているみ仏が、人間に罰を与えることは絶対にありません。これは、五井先生が繰り返し言われています。

「私は神(み仏)の愛を、私の肉体を通して、優しく分かりやすく、人間世界に伝えようとしている者であります。神(み仏)は愛なのです。神(み仏)は慈愛なのです。人間を救おう救おうとなさっていて、決して罰しようとは思っていらっしゃらないのです。」

ですから、どんな試練があっても、善意に受け止め、どこまでもみ仏を信じて参りましょう。不都合なことが小さくても、大きくても、すべてが己を強くしてくれる試練として受け止め、前向きにみ仏を信じきって行くことが救いなのです。パウロが
「信仰により、人間は義とされる」「義人は信仰によって生きる」と言ったのも同じ意味です。親鸞が「み仏から賜る信心」と言って本願他力を説いたのも同じ意味です。

「どんな災難や病気や障りがこようと、自分の魂を守護霊さんが強くしようと訓練されているのだ、と
思い定めることです」


「病気、不幸、すべて悪い事態が起こっても、すべてはよい方向に進んでいるのだ、と絶対に想えるように
ならなければなりません」

「最後の最後まで信仰を堅持する者は必ず救われるのです」

あるがままで

苦しい時、落ち込んだ時、みじめな時、あるがままの自分から逃げず、あるがままで、み仏に飛び込みましょう。どんなにみじめであっても、どんなに業が深くても、煩悩具足のこの生身のままで、憐れんで救い取って下さる方がおられるのです。それがみ仏なのです。人間の誰が救ってくれるでしょうか。み仏だけは、常に「すくってあげよう」と言って下さっています。「こんな情けない自分でも救って下さる方がいるんだ。有難いなぁ」と思って、受け入れるだけでいいのです。み仏の救いを妨げるような悪はありません。どんなに情けない自分であってもみ仏の慈悲により救われているのです。自分が救われていると思うと、ほっとすると同時に自分が赦されたような気になります。そして、み仏が有難くて、つい「念仏」や「有難うございます」という言葉が出て来ます。それが本当の祈りだと思います。このように想って念仏を称えていると阿弥陀如来の光で業が浄められて行きます。

ですから、嫌なことがあれば、どんなときでも、み仏の慈悲を想い念仏を称えましょう。そうすれば自然に気持が楽になり、救われて行きます。それは、取りも直さず業が消えて行っているわけです。次第に業が消え、囚われや、執着がなくなり、運命が好転していきます。このような信仰生活をしている内に、人生がだんだん光明化していき、幸福になっていきます。どこまでも、み仏(五井先生)を信じ抜きましょう。どんなにつらいことがあっても、信じ抜きましょう。それが幸福への確かなの道のりなのです。

世界平和の祈り

南無阿弥陀仏 み仏の慈悲により救われていることに感謝して、念仏を称えましょう

世界人類が平和でありますように すべての人が救われるように「世界平和の祈り」を称えましょう


煩悩の 雲立ちこめる 身なれども 誰が己を 救ひ給はん

徳もなく 才も乏しき 身なれども み仏のほか 誰ぞ救はん



B.G.M

モーツアルト「エクスルターテ・ユビラーテ」第3曲


        
グランドゥカの聖母   ラファエロ



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