永遠の0

皆さんも読まれた人がおられると思いますが、感想を書いておきます。
ゼロ戦の飛行士はみんな命を捨ててもかまわないという決意で乗っております。大変勇気のある方々で尊敬に値すると思っています。

しかし、宮部飛行士は必ず生きて帰り、妻子に会いたいとかんがえていました。したがって、運転は慎重で人命を尊重するような乗り方でした。そのような慎重な乗り方が、宮部飛行士の運転技術を高めていました。

太平洋戦争が始まり、ゼロ戦は小回りがきくため圧倒的に強く、ゼロ戦にかなう敵機はありませんでした。僅か半年で東南アジアの国々を全て占領してしまいました。長い間白人に植民地になっていた東南アジアの国々は白人の厳しい支配から解放されました。日本軍は東南アジアの人々に教育を授け、白人がやってきても勝てるように独立義勇軍を作っていきます。

絶対勝つはずであったミッドウェー海戦で、日本海軍は倍の戦力があったにも関わらず、アメリカの艦隊と負けてしまいます。敗戦の理由は、日本の空母にレーダーがなく、高い高度から攻めてきたアメリカの爆撃機にやられ、日本の虎の子の空母三隻がほとんど撃沈されてしまいます。

その背景には日本の暗号がほとんど解読されており、日本海軍の位置をアメリカ軍の方が先に見つけて、先手を打たれたということがありました。空母の中には何百機というゼロ戦がありましたが、みんな焼けてしまいました。これから日本海軍はアメリカ海軍に敗北していきます。

アメリカも戦闘機を改良していきます。ゼロ戦は以前のように圧倒的に勝てなくなり帰還するゼロ戦の数は少なくなって行きます。特に司令部の無理な命令により多くのゼロ戦のベテラン飛行士が未帰還になっていきました。

日本の海軍では海軍士官学校を出たエリートしか司令部に入ることは出来ませんでした。現場で百戦錬磨したベテランの飛行士こそ、一番有利な戦い方を知っていましたが、彼らは司令部に入ることは出来ず、戦争を余り知らないようなエリート将校しか指令を出すことが出来ませんでした。現場を余りよく知らない司令部の命令は、飛行士の命を軽んじる命令が多く、優秀なゼロ戦の飛行士はどんどん死んでいきました。

それと同時に日本は大敗するようになり、終戦の一年前になると、ベテランのゼロ戦の飛行士はほとんどいなくなっていました。ゼロ戦も改良されましたが、ガソリン不足と鉄不足の前にはなすすべはありませんでした。

そして、学徒動員が行われ学生も飛行士になりましたが、一年間でゼロ戦の飛行士になるには無理で、飛び方を覚える程度しか出来ませんでした。そのため、特攻という考えが生まれました。飛び方さえ知っていれば特攻は出来るからです。敗戦が濃くなっていくと、ゼロ戦はみんな特攻機になっていきました。最初は効果はありましたが、アメリカ軍は特攻機来ると早く探知して総攻撃するようになり、特攻も余り効果がなくなっていました。

宮部少佐は生き残っていました。学生の特攻を教える教官に採用されていました。一年で特攻を教え、宮部少佐が途中まで敵艦まで特攻機を連れて行く任務を行っていました。昭和20年に入り、終戦のほんの手前に、宮部少佐もついに特攻機に乗り、敵に悟られないように海面すれすれを飛び、敵戦艦の前に来ると飛び上がり、見事敵戦艦を討ちました。特攻を教えた教官が生き残ることを恥て最後に特攻機に乗ったのです。




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