初めに救いありき
初めから救われている
「阿弥陀様というのは宇宙に遍満する大神様です。その中に宝蔵菩薩
が一体となって、そのまま阿弥陀様になったわけです。みんなを救わなければ自分は仏にならないと言った菩薩様が、仏という名前で現れているわけですから、みんなは救われるのに決まっているんです。ということは、初めから、人間は罪の子ではなくて、神の子だ、みんな救われているんだ、という証明なんです。これは浄土門系の教えです。」「心貧しき者は幸いなり」p19
「とにかく真実のことは、神様は大愛であって、あらゆるものが、すべて救われているんだ。
救われているけれど、みんな自覚していないから、救われの自覚をハッキリはっきり現す時が
くるんだということ。」『心貧しき者は幸いなり』P.155
「つまり、阿弥陀仏に(神仏)に初めから救われているのだから、南無阿弥陀仏と唱えていれば
いつか阿弥陀仏と一つになってしまうのだ、ということなのであります。」『生きている念仏』P.18
しかし、もう一歩踏み込んでいくと、人間という者は、今更救われるも救われないもない、初めから
救われているものであり、自由な者であるということになるのであります。それは、人間本来、神の子
であり、仏である。神の子や仏が不完全であるわけはない、という原理によるのです。ですから、法然
上人のように、そうした真理を知っていた人にとっては、自分という肉体人間も、ただ単なる一信徒も、
等しく時間的に消え去ってゆく業想念の現れで、肉体に人間としての両者の間には、何ら差異もないと
思われたのであったでしょう。 『宗教問答正編』P.113
「すべての人が救われる。誰も彼もがみな救われる。ただ、救われ方の年代の相違はあるかも
知れないけれど、救われる。ということは、初めから救われているということです。」『心の貧しき者は
幸いなり』P.153
人間の自由意志
人間は、神と同じように自由意志を持っている。神は人間をロボットにするのを望み給はなかった。つまり試練を受けなければならなかった。人間は肉体を身につけてしまうと、神との交流が薄れていき、神の御心に沿わない言動をとるようになり、業想念を増やしてしまった。ついに、業想念のなすがままになり、自分が神の子であることも忘れ去った。業想念は、人間に敵対、不幸、災難をもたらし、地球は、戦争と苦悩の場になり、人々は、改めて神に救いを求めなければいけなくなってしまった。
人類の救済
主イエス、阿弥陀如来、五井先生・・・などの救世主が現れて、人間は本来神の子であり、仏であることを教え、人類の業を背負い、人々を救わなければならなくなった。人間は、神の子、仏であり、初めから救われているのである。しかし、業が強盛なため神の子であることを見失ってしまった。だから、救世主を信じて、自分が本来神の子であり仏であることに気づけば、即救われるわけである。
「人間というものは罪無き者なのですよ。いいですか、人間は霊として罪ある者じゃない、
罪は何もないんです。あるものは肉体の迷いなんです。物質的な迷いだけで、それは
迷いであって人間じゃない。人間と迷いとは別なんです。人間は神の子であって、迷いは
別物です。」
「人間というものは、あくまで神の子です。絶体絶命神の子です。神の子でなければ、この世は
滅びるんです。神の子だから神様とすがれるんですよ。」
「ところが本当は神様は親なんだから、自分の子供はいつでも可愛い、早く私のもとへ帰っておいで、
もう罪なんてものは無いんだよ、帰ってくればいいんだよ、そういってるんです」
業(煩悩)を持ちながら救われる
業(煩悩)は、救世の神、主イエス、阿弥陀如来、五井先生が背負って消して下さるので、いかに煩悩が深くても、自分が神の子、仏であることが分かれば、煩悩を持ちながら救われている。
「私が救ってあげますよ。と言う時には、皆さんの業をひっかぶったことなのです。それは何かというと、皆さんの守護霊・守護神が引き受けた、と言うことと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。」『私に荷物を預けなさい』
「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。」
浄土門、いわゆる他力門は、如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれば、すべて浄土に救い取られるのである、といわれているので、どんな無学な者でも入りうる道であり、日常生活そのままで、救われの道に入りうるわけであります
初めに救いありき
いかなる病気で悩んでいても、経済的な苦境にさらされていても、例え如何なる罪の意識に苦しんでいようとも、神仏の無量の慈悲で、今の自分のままで、貴方は救われています。貴方の業は神仏が受け止めて消して下さいます。貴方は、神仏を信じて、本来神の子であり仏であることに気づけば、救われているのです。
「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」
神仏から賜(たまわ)る信心
こんな自分が救われているのかと想うことがあるかもしれませんが、人間は神の子であり、守護霊、守護神により初めから救われているのです。救われを自力で悟ろうと思っても、業想念が邪魔をしてなかなか悟れません。他力に徹して心を謙虚にし、神仏から信心を賜ればよいのです。頂いたら、有難うございます、世界人類が平和でありますように、と感謝の祈りを捧げましょう。後は何も考えることはありません。救ってあげるよ、という神仏の愛に、有難うございます、と感謝して頂けばよいのです。ただ、それだけでよいのです。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16
「神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」
「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」
「五井先生といえば神様につながる。つながれば必ず悪いところへはいかない。五井先生というのは、南無阿弥陀仏と同じですね。だから、それだけでもって救われるわけです。」
「だから私にあって、私の教えがいいという自覚が出来た時は、もう救われているのです」
二つの絶対
五井先生のみ言葉に絶対という言葉が二つあります。
今どんな状況にあろうと、絶対救われています。何故なら、神仏は限りない愛だからです。
今どんなことが起ころうと、絶対よい方向へ進んでいます。何故なら、神仏は絶対善だからです。
この二つの絶対をいつも思い起こし、心で反芻していましょう。この二つの絶対があるかぎり、貴方は、行き詰まることはないでしょう。
「病気、不幸、すべて悪い事態が起こっても、すべてはよい方向に進んでいるのだ、と絶対に想えるように
ならなければなりません」
この世とあの世の救い
五井先生を信じれば、この世においても必ず幸福になれます。そして、彼の世でも天国・浄土に往生することが出来ます。これは、五井先生の堅いお約束です。
「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」
祈りは感謝行
救われていることに何時も感謝していましょう。そして、救って頂いた守護霊様、守護神様、五井先生に感謝しましょう。
守護霊様
守護神様
五井先生
有難うございます
感謝行から菩薩行
自分が救われると共にすべての人の救われを祈りましょう。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
絶対力
感謝行は神の御心にあわせることです。そして菩薩行は、神の御心になることです。
感謝行と菩薩行の励行は、貴方の中に神の御心が現れて来ます。
どんなに人類の業を被っていても、世界平和の祈りをしている貴方は、神の子であり菩薩であり天使です。なぜなら、感謝行と菩薩行は、神仏の御心を現すからです。神仏の御心を現すことを、絶対力といいます。これが、信仰生活の究極目標なのです。
「今貧乏である、今病気である、今不幸である。そうすると、今の自分が間違って
今の自分が不幸なような気がするんです。そうじゃないんだ。今の自分とは違うんです。
過去世の波が本心の前を通り過ぎてゆくだけなんです。今の自分とは違う。世界平和の祈りを
聞いて、お祈りをしているあなた方は、神の子であり、菩薩であり、天使であり、救世主なんだ。
今不幸だ、今病気だ、今なんだかんだと言っているものは、消えてゆく姿なんですよ。
過去のもの、すんじゃったものが、現象に現れて消えてゆくんだから、掴みさえしなければ
そのまま消えていく。では自分は何を掴んでいればいいか。神様だけを掴んでいればいい。
『ああ自分は神の子なんだな、自分は天使なんだな、自分はこの世に世界平和の祈りのために
来ているんだな。』というように本当に思って平和の祈りの中へ入ってくれればいいんですよ。」
他力による救いを説く聖者
神仏の絶対的な愛により、他力による救いを説く聖者を、イエス、パウロ、親鸞、一遍、五井先生の場合で見ていきましょう。
救世主 五井先生の 御名にかけ 何時何処までも 信じ往くべし
前生の 悪縁尽きて 燃ゆるとも み名を唱えて 往生すべし
煩悩の あるがままにて 救はれり み仏の慈悲 ほめ頌へんや
かくのごと 信仰うすき 者さへも 救ひ給はん 慈悲のみ仏
み仏の 無量の慈悲の なかりせば 吾如何にして 救ひをえんや
凡愚なる 煩悩具足の 吾なれど 救ひ賜る 弥陀ぞ嬉しき
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B.G.M.
バッハのカンタータ第51番「何処の地にても神を歓呼せよ」
図5 バラのあずまやの聖母 ロッホナー