五井先生の本質

五井先生の哲学的所見

五井先生についてキリスト教や仏教の教義をふまえて、哲学的な所見をまとめて見ましょう。五井先生の本質を分かり易くまとめて見ましょう。ヨハネ伝では、主イエス・キリストは「われは道なり、真理なり、命なり」と仰られています。これは、主イエス・キリストの本質を見事に述べておられます。一方、阿弥陀三部経では、阿弥陀仏は、無量寿、無量光、無量の慈悲ととらえれています。主イエスや阿弥陀仏のとらえかたは、五井先生を客観的にとらえるのに重要な根拠になります。

神我一体

五井先生は、ご自分を神に捧げ尽くされ、守護の神霊から想念停止の修行を課せられ、ついに直霊に合体し、神我一体の覚者になられました。五井先生は、宇宙の大生命と一体になられ、宇宙の真理のすべてを、直覚的に把握できる聖者になられました。この自然界だけではなく、幽界、霊界、神界のすべてを知る聖者になられました。神の全知全能の知恵を得られたといってもよいと思います。

釈尊も、苦行を捨て、深い瞑想にはいり、人間の本体である宇宙の大生命と一体になりました。

主イエスも、神の導きを受け、ヨハネの洗礼の後、天から聖霊が鳩のように下り、神我一体になりました

釈尊の悟り、主イエスの悟り、五井先生の悟りは基本的には同一のもので、宇宙の大生命の化身となり、宇宙の真理のすべてを知る能力を得られたといってよいと思います。

真理の人

釈尊、主イエスと同じく、宇宙の普遍的な真理を五井先生は悟られました。ですから、五井先生の言葉、書籍、などに書かれいることは、すべて真実であるということが分かります。五井先生の自ら書かれた書籍は、神の言葉として尊重しなくていけません。聖書や仏典は、主イエスや釈尊が書いた本ではありません。しかし、五井先生の書かれた本は、神の真理が書かれていると考えてよいと思います。聖書や仏典を読む以上に、五井先生の本は、神の真理が直接書かれている書と考えていいのです。

ですから、五井先生の講話や書籍は、永遠の真理の書として尊重しなければいけません。

救世主 五井先生の み言葉は 天につながる 真理なりけり



永遠の生命

神我一体になられた五井先生は、五井先生自身も永遠の生命(神の命)そのものです。しかがって、五井先生を信じた人は、永遠の生命をもち、神の世界の人になるといえます。つまり、主イエスと同じく、五井先生は救世主です。

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」

救世主 五井先生の み心は 天につながる 命なりけり



広き門の道

念仏


五井先生は、み教えを、浄土門的法華経とか浄土門的神道だと言われました。浄土門は、法然、親鸞が開き、すべての人が救われる道を説きました。

浄土門とは念仏を唱えることにより、

煩悩をもちながら救われていること

「浄土門、いわゆる他力門は、如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と
唱えていさえすれば、すべて浄土に救い取られるのである、といわれているので、
どんな無学な者でも入りうる道であり、日常生活そのままで、救われの道に入り
うるわけであります」


煩悩は阿弥陀仏が、往生する時にすべて浄めて浄土に導いて下さること。

ですから、どんな人でも、信仰を受け入れる人は必ず救われます。

世界平和の祈り

五井先生は、念仏の代わりに、天から与えられた「世界平和の祈り」を提唱されました。

煩悩をもちながら救われていること


「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」


守護霊・守護神・五井先生が、すべての業を受けて消して下さり、天国(神界)の導かれること

私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです
何百何千何万十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、
皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。ということは、
救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。


感謝行、菩薩行

五井先生に救われたことを感謝して。

守護霊様・守護神様・五井先生、ありがとうございます

自分とすべての人が救われますようにと菩薩の祈りを捧げます。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように

浄土門的法華経・神道

感謝行、菩薩行を「りきみ」なく実践することによって、神仏の姿を現していく。

感謝して 平和の祈り 唱ふれば 自然法爾に 神の御心

救世主 五井先生の み言葉は 天につながる 広き道なり



贖罪者

主イエスと阿弥陀仏と同じく、五井先生は、人類の業を背負い消して下さる。

私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです
何百何千何万十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、
皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。ということは、
救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。


慈悲

五井先生のすべての人を救いたいという慈悲のこころが、つぎのような言葉に表れています。

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。」

救世主 五井先生の み心は すべての人を 救ふ慈悲なり

救世主 五井先生を 思ふれば その優しさに 袖をぬらしつ




B.G.M.

エマヌエル・バッハ「チェンバロ協奏曲ニ短調」

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