神の摂理

神計りに神計り

人類の進歩は、使命をもつ神々が常時背後にいて、影ながら助け指導しているのです。肉体人間としては考えられないような綿密な計算のもとに、神々の活動はなされているのであります。
「生きている念仏」p185

日頃吾々が行っていること、または身に起こる出来事の大部分は、守護の神霊の綿密な計算のもとにより起こっています。むろん人間には自由意志がありますから、人間が選択する部分はありますが、運命全体を見れば、大部分は守護の神霊の綿密な計画のもとになされている
わけです。神仏を信じている人は、遙かに神と人間とのつながりが強いですから、善なる神々の神計りのもとに常に最善に人生は進んでいるわけです。

それでは、不幸災難はどうなんだ、ということになりますが、これも消えてゆく姿として最善に動いているというのが真相です。このことに対して五井先生は次のように仰っています。

その人に都合がいいように過去世の因縁がきえてゆく姿になっている。うまく守護霊さんが消してくださるんだから、何が出て来ても、自分として一番よい状態として出て来ているんだ、軽く出して下さるんだ、というふうに感謝して、守護霊守護神さんと一体となって生きるということが大事です。「内なる自分を開く」p103

過去世からの業想念というものを人間は必ずもっているわけですが、それさえも常に最善に守護の神霊の働きにより浄められているわけです。ですから都合のよいことも最善に、都合の悪いことも最善に、運命の大部分は動いているというのが正しい見方であると思います。ただ、強引に人間が行ってしまう業というものもありますから、全くすべてが最善とは言い切れませんが。

運命の受容

人生には栄枯盛衰というものがあります。若いころは好調だったのが、歳がいって不調になってくる、これはよくあることです。しかし、神仏を信じている人であれば、好調な時も最善であるし、不調になって嫌なことが多くなってもやはり最善に進んで行っているのです。今が不調だからといって落ち込んでいるわけではないのです。それどころか、我が儘であった過去の清算をして借金をかたづけているのですから、若いころ以上に魂は磨かれていると考えるべきだと考えるべきです。ですから、外見は栄枯盛衰であっても、過去よりも今の方が遙かに浄められていて進んでいるというのが正しい見方である思います。

ですから、神仏を本当に信じている人であれば、運命がどのような経路をたどっても、常に最善に進んでおり、たとえ今が落ちぶれているように見えても、やはり消えてゆく姿として、魂の浄めの段階で最善に進んでいるのですから、人生の中でやはり今が最高最善であると考えるべきです。

つまり、その時々の運命は、それがよくとも悪くとも、常に自分にとってなくてはならないものであったわけで、無駄な人生はほとんどなかったと考えるべきだと思います。そのように思えば、自分の運命のすべてをなくてはならないものであったと受け入れることが出来るはずです。人生のすべてを「これでよかったんだ」と受け入れることができれば、不満や後悔も消えてゆき、幸福に今の日々を過ごすことが出来ます。いや、これが神仏を信じている人の真理だと思います。神計りに計られた一生であったということです。

心が本当に「ああこれでいいんだな、すべては御心のままなんだな」というところまで入っていかなければ、いつまでも艱難に追いかけられます。・・・神様が内の中で全部やって下さっているんだ、ということが本当に実感になるまで修行がつづくわけです。「魂が大きく開く時」p10

この世は神の世界

この世は神の世界であって、業想念の世界でも、自我欲望の世界でもありません。すべて神の御心のごとく成っている世界なのであります。神の大経綸は着々と行われているのであります。
「武産合気」p16

吾々神仏を信じている者にとっては、神は絶対善ですから、この世もあの世も常に最善に動いていると考えなければいけないと思います。かつての太平洋戦争の敗北が、日本の真の平和主義国家の礎になったことを思えば、あの敗戦も日本の業の消えてゆく姿であったと五井先生は述べられています。そのような国家レベルの発想は、自分のような凡夫にはよく分かりませんが、少なくても自分の人生ぐらいは、常に神の御心のごとく成っているんだと思えるようになりたいものです。今までの運命を素直に受け入れて、今が最善であると思えるように成りたいものです。

よき時も 悪しき時にも 神々は いと浄らかに 計らひ給ふ

神々の 高きみ旨を 思ふ時 御心のごと なさしめ給へ




BGM

カンタータ第147番「心と口と行ひと命もて」

      キリストの降誕  フィリップ・シャンパーニュ





homepage