祈りと救い

祈りの真義

祈りとは、神仏と人間の一体化をもたらすもので、宗教的な行為の中で、最も大切なものの一つです。したがって、個人的な願い事をするのが祈りではありません。むしろ、神仏にお任せするのが本当の祈りです。あるいは、神仏の御心に叶いますようにと祈るのが基本的な祈り在り方です。

感謝と菩薩の祈り

感謝の祈りは、神仏の御心を全面に受け入れることです。菩薩の祈りは、神仏の心になって祈ることです。双方とも、神仏と人間の一体化が図られます。

祈りは言霊

祈りは、言霊であり神仏の存在を現すと伴に、事象を創造する力があります。

世界平和の祈り

感謝の祈り

守護霊様
守護神様
五井先生
有難うございます

救済の神である守護霊・守護神・五井先生に、救って頂いた感謝の祈りをします。感謝の祈りは、感謝の想いが湧いてくるような
祈りが望ましいと思います。そのためには、信仰により救われていなければいけないと思います。心から湧き上がる感謝の祈りは、業がどんどん消されていきます。神仏と人間の一体感が非常に密だからです。

菩薩の祈り

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように

自分が救われると伴に世界のすべての人が救われますようにと、菩薩の祈りします。人間は本来は、菩薩であり、仏ですから、心を澄ませば自然に出てくる祈りだと思います。菩薩の立場で祈り、神仏と人間の一体化した祈りです。祈りが深まれば、神仏の御心が現れてきます。

世界人類が平和でありますように


この言葉は、神(宇宙神)の言霊そのものです。したがって、神の存在が顕現しています。宇宙神の本質を一言で現した素晴らしい祈りで、祈る人も神と一体化していきます。

普通、人間は、利己的な小自我で生きています。この小我が消えた時、宇宙の本体である大生命に融合し、神我一体の悟りを得ることが出来ます。平和の祈りは、小我を消し、宇宙の大生命に一体化させる働きがあります。平和の祈りを唱えていれば、次第に小我は消えてゆき、神我一体の境地に深めてくれます。神我一体の境地への易行道にほかなりません。親鸞・法然の念仏をさらに現代化して易しくした、他力的な易行道です。

他力的な易行道

世界平和の祈りは、他力的な祈りであり、祈る数を云々するような自力的な呪文とは違います。救世の大光明の方から、人類のすべてを救うために手を差し伸べて下さっているわけです。ですから、救世の大光明に救い上げてもらえばいいわけです。神の言霊に合わせて無心に祈れば、神の側から自然に一つにして下さるわけです。効果を上げようと力みますと、その焦った想いが、返って神我一体の邪魔をしてしまいます。謙虚に無心にすくい上げて頂けばいいのです。他力に徹しお任せしますと、むしろ神我一体の境地が深まります。

祈りの法則で救われることを説いた一遍聖人

五井先生の「非常識・常識・超常識」の真の念仏と世界平和の祈りの章に、一遍聖人の言葉が解説されています。

「心品のさばくりあるべからず、この心はよき時も悪しき時も迷いなる故に、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が成仏するなり」

人の心は、迷いやすく、状況のよい時と悪い時では判断が違って来たりして、救われの根拠にはならない。内なる南無阿弥陀仏こそ仏性であり、南無阿弥陀仏の名号が成仏するのだ。(一遍の場合を参照)

人間の心とは、迷いやすく、動揺しやすい。ある時は信じられても、状況が違うと不信感を抱いてしまうものである。だから、迷いやすい心を頼りにしてはいけない。不変なのは、内なる仏性であり
、内なる仏の声である「南無阿弥陀仏」の名号である。例え心が信・不信に揺れ動いても、南無阿弥陀仏の名号を唱える者は、阿弥陀仏の本願により往生すくことができる。

親鸞は信仰の法則で救われることを説いたが、一遍は祈りの法則で救われることを説いた。どちらも正しいと五井先生は考えておられるようだ。これは、人人で受け取り方が違うと思う。祈りで救われる方が自然である人は、言霊の祈りに救いの根拠を置けばいいと思う。つまり、世界平和の祈りを救いの根拠にすればいいのである。五井先生のみ言葉を見ると、祈りに救いの根拠を置いているみ言葉が多い。

世界平和の祈りと救済

世界平和の祈りをしている時には、確かに救世の大光明がその人の体を通して、
この地上界に燦然と輝いているのでありまして、この大光明は、その人自身を救い
その人の周囲の業想念をも大きく浄めているのであります。

あなたが世界平和の祈りをしよう、と思い立ったことで、もうすでに救われているのであり
救世の光明につながっているのであります。それは、あなたが肉体人間としての自己の力に
諦めをいだいた証としての祈りの世界への突入だからであります。もう貴方の信仰が浅いとか
薄いとかは問題外になっているのです。祈ろうと貴方が思った時には、すでに神の世界からの
光明が流れ入って来ているので、貴方はその時から業想念の世界の人ではないのです。

あなた方が世界平和の祈りに同感して、私たちの同士として祈りの行をつづけておられることそのものが
もう既にあなた方の救われを決定づけているものであり、あなた方の過去世における精進の
賜であることを証明しているのでありますから、世界平和の祈りを素直になさっている方々は
大安心してよいのです。

世界平和の祈り言というのは、地球人類を救済しようとして働いている
救世の大光明につながる祈り言であます。一度つながりますと、救世の大光明の響きは
その人にそのまま伝わって来ていますので、その人が時折祈り言を忘れたとしても
その人の心の中では、やはり鳴り響いているのであります。

一度世界平和の祈りを唱えた人は、もはや光のエレベーターに乗っているのですから、
神様のみ心から離れようがないのです。ですから、そういう点は安心して、日常生活の面を
生き生きと生活してゆけばよいのです。

ただひたすら世界平和の祈りをしていることによって、自己も救われ、自己の周囲の生きている人
あの世の人の区別なく救われてゆくのであります。

世界平和の祈りによる生活から出てきた事柄は、すべてこれを善しと見ていくことが
大事なのです。世界平和の祈りのような大乗的な祈りの中から、悪い結果は絶対に

ないからであります。

阿弥陀如来の在り方は、世界平和の祈りのもつ救世の大光明と同じであって、
ただ一念の祈り言でその人は必ず救われるのです。人類救おうとしての出現が救世の
大光明であり、その救われの方法が世界平和の祈り言であるからです。

世界平和の祈りを一言でも唱える気持になったということは、その人の運命は変わったことです。
どの様に変わったかというと、闇の世界から光の世界に入ったわけです。

今貧乏である、今病気である、今不幸である。そうすると、今の自分が間違って
今の自分が不幸なような気がするんです。そうじゃないんだ。今の自分とは違うんです。
過去世の波が本心の前を通り過ぎてゆくだけなんです。今の自分とは違う。世界平和の祈りを
聞いて、お祈りをしているあなた方は、神の子であり、菩薩であり、天使であり、救世主なんだ。
今不幸だ、今病気だ、今なんだかんだと言っているものは、消えてゆく姿なんですよ。
過去のもの、すんじゃったものが、現象に現れて消えてゆくんだから、掴みさえしなければ
そのまま消えていく。では自分は何を掴んでいればいいか。神様だけを掴んでいればいい。
「ああ自分は神の子なんだな、自分は天使なんだな、自分はこの世に世界平和の祈りのために
来ているんだな。」というように本当に思って平和の祈りの中へ入ってくれればいいんですよ

世界人類の平和を祈るという想い、世界平和の祈りが自分の生活だと思いこんだ人は、
改めて「世界人類が・・・」とやらなくたって、この中で(自分の中で)世界平和をやっているのです。
声に聞こえなくても、想いに現れなくても世界平和をやっているのです。寝ても覚めても
世界平和の祈りが中で鳴り響いていると、石段から落っこちても怪我しない。何をしても
怪我しないようなことになるのですよ。自動車が来ても止まっちゃったりするようなことになる。
それは何故かというと、世界平和の祈りというのは、救世の大光明なのです。

その人になくてはならないものは与えられるし、その人に一番いいようにゆくわけなのです。
自分の天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように、と言う想いを
強くもつのですよ。そうするとその人の運命が自然自然のうちに、天命をまっとうしていくような
運命になっていく。天命まっとうを邪魔するような運命じゃしょうがないものね。

病気は世界平和の祈りの中にもっていっちゃいなさい。迷いも世界平和の祈りの中に
もっていっちゃいなさい。それで足りなかったら、五井先生と言えばいい。私が引き受けます。
貧乏でも病気でもみんな引き受けます、と言っているんだから、こんな楽なことはないですね。

どんな汚れた体でも汚れた心でも、神様!といえば神様がきれいに洗ってくれるような
そういう神様が必要なのです。
そういう神様が今現れている。それは何かというと、
救世の大光明として、世界平和の祈りとして現れている。その祈り言をすれば
お前がどんなに悪いことをしていても、どんな悪い想いがあっても、みんな綺麗にしてあげるから
この祈り一念でいきなさいよ、と言ってるんです。



崇高な 平和の祈り 唱ふ人 天に命を 捧げ奉りき

前生の 悪縁尽きて 燃ゆるとも み名を唱えて 往生すべし

言霊の 平和の祈り 称ふ人 天につながり 天に救はる

崇高な 世界平和の 道のため 我が命をば 捧げゆきたし

崇高な 平和の祈りの み言葉は 内なる神の 仰せなるなり

本体の 平和の祈り 永遠なれば 唱ふる人は 神の子とならん

救世の 大光明に 救はれし あとは真の 祈りぞあらん



B.G.M.

J.S.バッハのロ短調ミサ「グローリア」

  図6  無原罪の御宿り  ムリリョ

 



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