祈りのある生活

                                                         祈りのある生活


理想と現実

嫌な地位や環境にあるならば、ひたむきに守護霊さん、守護神さんに感謝を込めて自己の天命の達成を祈るのです。 p19

たゆみない世界平和の祈りの中から、必ずあなたの天命の完うさせる立場が現れてくるのです。p30

必要悪と平和の祈り

必要悪というのは、そのような立場や状態を通らなければ、より大きな善が
現れて来ないやむにやまれぬ悪行為ということで、天意が奥に働いて、消えてゆく姿として消していると言えるのです。p37


大宇宙を運行している神々の心には悪はありません。ですから神々の心がはっきり現れれば、この地上界にも悪はなくなります。p37

生命について

さわりなく生きる

神は人間に試練を与えるか

宇宙や地球世界のために選ばれた人々は、神が試練を与えて働く力を
増大させることがしばしばあるのです。
一般生活をしている人々が試練と思えるような出来事は、その人の守護の神霊が、その人のカルマを浄めるためにすることで、特に試練ということではないのです。p75

守護の神霊の力によって、自然の法則から外れている自分をかばってもらっているという気持は、どれほど人間の気持ちを明るくするか分かりません。p77

何かつらいこと苦しいことがあったら、神の法則を外れた想念行為が消されて行き、自己の生き方を宇宙の法則に乗せていくための、守護の神霊の慈愛の行為であると思い、守護の神霊への感謝で生活していけばよいのです。p81

世界平和の祈りと同じように浄土門の人が南無阿弥陀仏と称えるように、クリスチャンがイエス様、マリア様とすがるように祈り続けておりますと、常に神との一体化でおられることになり、自分が地球界に生まれてきた意義が果たせるのであります。p81

皆さん一人でも多くの人々が平和の祈りを行っていきますように、どんな好きな演説をしているよりも、平和の祈りの日々の方が、神様の御心にかなうものであり、地球人類の救いに大きなものになるのです。p85

信仰の道と不幸災難

人間何人といえども自分たちの過去世からの因縁因果をはっきり知っている人はいません。その人にとって十ほどの悪因縁が、宗教信仰の道へ進んでいるおかげ、で六程守護神様に背負って頂いているにしても、まだ四程の不幸災難が残ります。p91

人の心境の深浅によって業の現れ方が違ってくるのでしょうが、どのような業の現れ方でありましょうとも、守護の神霊方のお考えでなされているのですから、すべてを神々様にお任せする気持で、日々瞬々の想念行為を正しく慈しみのあるものにしてゆけばよいのです。というより、祈り心を中心にして生活してゆけばよいのです。p91

これも過去世の因縁の消えてゆく姿であり、もっとはっきりと、すべては神様の御心現れで、より大きなおかげであるのだ、と想うことが出来るのであります。実に大した心の状態だと思います。p92

真の宗教を歩んでいる人は、守護の神霊を一つになって、神の分生命の天命を成し遂げることが出来るようになり、その間に起こる消えてゆく姿も、しっかりと守護の神霊が受け止めて下さり、肉体人間の運命として現れる前に、消し去って下さるようになります。p96

人間の苦しみは必ず消え去るものですが、しっかりと守護の神霊につかまって、平和の祈りをつづけていれば、必ず人間の真の道が見出され、神の実体がはっきり判ってくるのです。「祈りのある生活」p97

明日のことで思い煩うな

すべては長い年月の上で、神々が神計りに計り給うて、その日その日の運命を現しておられることなので、すべてをよしと思って、神々への感謝の生活をしていくことが、肉体人間のなすことなのです。しかし、なかなかそういう想いになれませんので、そのに祈り心というものが必要になり、神への感謝の祈り(世界平和の祈り)つづけることが大事になってくるのです。p104

いかに真理を実践すべきか

神の子と無明

先達が後輩を導く道

消えてゆく姿で世界平和の祈りを称えていれば、それまで潜在意識に溜まっていた過去世からの業因縁は、ある期間を経れば、やがては全部消え去ってしまうのであります。p147

現実に処する宗教の生き方

この世の善悪は相対的であり、善はよいこと、悪は悪いことと決めつけることはできません。善いことをしたことが多くの人に混乱に招いたりすることは、よくあることです。よくよく考えて行動しないと、世の中がますます生きにくくなります。
p152

人はみな神の光のひとすじ

人間が肉体身である、という想いから人間は神の霊光そのものなのだ、と想いを改めて人生観を変えますと、今まで思いもかけなかったような、超越した能力が現れて来るのです。p166

あれこれ想いわずらっての後に行為に移す、というのが肉体人間の今日までのあり方ですが、実は神の子人間というものは、本心本体からのひびき、つまり神の御心のひびきが、そのまま瞬間々々の行為となって現れて来るもので、想念と行為とが離れているものではないのです。p169

人間の生活の中では、無理なく自然で出来るということが大事でありまして、無理強いしたことは決して成功しないのです。p171

神は常に人類の救いに起っている

今悪のように現れ不調和のように現れていても、それが固定した悪や不調和ではなく、深い善や大調和にやがて展開していく道順に現れている姿なのです。p186





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