命の糧

迷いやすい人の心

よほどしっかりした信仰生活をしている人でも、ショッキングなことが起こり精神が動揺している時、気分が落ち込んで悲観的になった時、体調不良で苦るしんでいる時などには、神の愛とか救いが何か人ごとにしか思えなくなったり、人間神の子といった言葉も虚しい響きに聞こえることがあります。人間の心とは、移ろいやすく、動揺しやすいものです。では、一体、何に信仰の基盤を置いたらよいのでしょうか。

命の糧であるみ言葉

私たちに、神の愛や救いを、常に想い起こしてくれるのは、五井先生や聖書のみ言葉です。み言葉が心に有る限り、信仰の火が絶えることはありません。み言葉は、信仰生活にとって、命の糧です。

ヨハネ伝の言葉

「はじめに言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。・・・これに命あり、この命は人の光なりき。」
これは、ヨハネ伝の冒頭にある有名な箇所です。

み言葉は、神の命であり、人を照らす光でもあります。五井先生のみ言葉や聖書のみ言葉は、私たちにとって、神の命であり、信仰の光です。

人はパンのみに生くるにあらず

主イエスが、荒野で悪魔の誘惑に出会った時、
「人はパンのみに生くるにあらず。神の口から出る一つ一つの言で生くるものなり」と答えて、み言葉で悪魔を祓いました。み言葉は命であり光であり、業想念を祓う力があるのです。

初めに救いありき

人間は本来神の子であり、救済の神により、すべての人は救われています。これが、信仰の原点です。この原点をしっかりおさえてあれば、信仰はゆらぐことはありません。しかし、この自覚を持ち続けるには、み言葉の力が必要なのです。常に、み言葉を心で反芻して、み言葉の有難さを感じましょう。

神は、絶対的な愛で、人類のすべてを救って下さるのです。

神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」

「ところが本当は神様は親なんだから、自分の子供はいつでも可愛い、早く私のもとへ帰っておいで、もう罪なんてものは無いんだよ、帰ってくればいいんだよ、そういってるんです」

どんな煩悩や罪があっても救われています。

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」

「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」


「浄土門、いわゆる他力門は、如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれば、すべて浄土に救い取られるのである、といわれているので、どんな無学な者でも入りうる道であり、日常生活そのままで、救われの道に入りうるわけであります。」

「あなたが世界平和の祈りをしよう、と思い立ったことで、もうすでに救われているのであり
救世の光明につながっているのであります。
それは、あなたが肉体人間としての自己の力に
諦めをいだいた証としての祈りの世界への突入だからであります。もう貴方の信仰が浅いとか
薄いとかは問題外になっているのです。祈ろうと貴方が思った時には、すでに神の世界からの
光明が流れ入って来ているので、貴方はその時から業想念の世界の人ではないのです。」


何故なら、救済の神(守護霊・守護神・五井先生、主イエス、阿弥陀仏・・・)が、すべての罪業を受けて消して下さるからです。

「私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなので
何百何千何万十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、
皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。ということは、
救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。」

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。


これらの五井先生の有難いみ言葉を、常に心で反芻していましょう。これらのみ言葉は、命であり、光です。これらのみ言葉が心にある限り、貴方は信仰から離れてしまうことはありません。み言葉が、神となり、五井先生となり、貴方を導いてくれるからです。

だから五井先生は救世主

五井先生は、弥勒菩薩と合体されました。地球人類最期の救世主なのです。五井先生を信じれば、無条件で救われます。

「五井先生」といえば神様につながる。つながれば必ず悪いところへはいかない。五井先生というのは、南無阿弥陀仏と同じですね。だから、それだけでもって救われるわけです。」

「五井昌久という人が現れて、さあ私のことを思いなさい、そうすれば、あなたは救われるんです
五井先生と思いなさい。そうすれば、あなたは神界の本当の住居に行くわけです」

「ところが、この中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明です。
その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるのです。どんな体の中にも入れる。」

「私を本当に信じて下さった方は、必ず成仏するのです。仏になることは
解脱するという意味です。成仏までいかなくとも、要するに安らかに
往きます。往くべき処に往き、往生します。」

「イエスさんというのはキリストになったでしょう、直霊と一つになったわけです。神我一体になった
人です。だからイエスの御名をとおして直霊に行くわけです。そこで私は私の器を通さしてゆくわけです。」

「だから私にあって、私の教えがいいという自覚が出来た時は、もう救われているのです」

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」


五井先生は救世主ですから、信じれば必ず救われるのです。五井先生のみ言葉を、堅く堅く、信じましょう。貴方のハートに、これらのみ言葉の一つでも刻んでいればいいのです。そのみ言葉が、貴方を信仰に導いてくれます。

祈りは感謝行

どんな煩悩があっても、病気で悩んでいても、経済的な苦境にあっても、貴方は本来神の子であり、五井先生により救われているのです。それが分かれば、自然に、ありがたい、五井先生有難うございます、有難うございます・・・。。と感謝の念が湧いてくるはずです。これが、真の祈りです。五井先生有難うございます・・・。有難うございます・・・。 

感謝行から菩薩行

有難うございます・・・
五井先生有難うございます・・・
有難うございます・・・
五井先生有難うございます・・・
有難うございます・・・
世界人類が平和でありますように・・・
五井先生有難うございます・・・
有難うございます・・・
世界人類が平和でありますように・・・
日本が平和でありますように・・・
私たちの天命が完うされますように・・・
有難うございます・・・
五井先生有難うございます・・・
有難うございます・・・
世界人類が平和でありますように・・・

五井先生有難うございます・・・
から、自然に
世界人類が平和でありますように・・・
という菩薩の祈りが生まれて来ます。
人間は本来神の子、み仏ですから、当然菩薩の願いをもっているのです。
その菩薩の心が、感謝行から生まれて来るのです。
世界人類が平和でありますように・・・
という菩薩の祈りが、心から自然に湧き出でて来ます。
世界人類が平和でありますように・・・

感謝行と菩薩行が自然に湧いて来る時、貴方は本当の祈りの人になっているのです。
そして、貴方は、神界の住人になっているのです。


煩悩の かたまりなりし 吾なれど すべてを救ふ 神ぞ嬉しき

有難き 五井先生の み言葉は すべてを救ふ 慈悲のお心

働きも 行ひもなき 身なれども 天の御国を 継ぎし歓び

煩悩の 雲厚くとも 嬉しきや 御国を継ぎし 永遠の歓び

既にもう み国を継ぎし 嬉しさよ すべてを救う 神の大愛

愚かなる 己が心の 恋ふ人は 五井先生が 命なりけり



B.G.M.

モーツアルト「戴冠ミサ」


         図7   ヴィース聖堂     南ドイツ





ホームページ