神と人間

                                                            神と人間

五井先生の宇宙観を記した哲学書
「神と人間」は、五井先生の唯一の哲学的な著書である。筆者は、要点をまとめて
紹介することに努めた。ぜひ、本書を購読され、全文をお読みすることを勧めたい。

ネオプラトニズムと一致する世界観
五井先生と説かれる宇宙創造説は、ネオプラトニズムの宇宙創造説とほぼ同じであり、西洋哲学を学んでいるものにとっては、真理は一つなのだと思わざるをえない印象を受ける。五井先生の高い霊覚で把握された世界観は、間違いのない真理であることを、ネオプラトニズムが裏付けていると信じるものである。

序文

神と人間の真理を説く
私は、人間が自己の本体を知り、神とつながりを得たならば、人類はかかる不安混迷の域を脱し、真の安心立命の境地に達することができ、やがては世界平和を樹立しうることを信じ、神、霊、人間、業、因縁などについて、最もわかりやすく説き明かさんと思い立って、この書を認めた次第である。

一、はしがき

文明が発達しても苦悩はなくならない
さて、こうした文明文化の世に至ったのに、現代世界の人々は、依然として、完全平和から遠く、闘争あり、恐怖あり、悲哀あり、老病貧苦あり、別離ある、不安定の生活状態にいきずいているんである。これは、一体どうしたことなのであろうか。

人間が幸福になるには
人類の業因は、今まさに大きく自壊し、真理の光が燦然と輝き出ようとしているのである。私は、神と人間の関係、霊、魂魄、生前 死後などにつき、出来うる限り詳しく述べ、人間生活の在り方、幸福生活への真の導きを書きつづることにする。

二、神と人間の関係

救われに入る人間観
私はここで、ひとまず、私の信ずる、救われに入る人間観を、簡単に述べて、しだいに本題に入ってゆきたい。

生命の存在を認める
人間は肉体のみにあらず、肉体の内に、生命となって活動している何かがある、と認識して、そうした方向に生きている人。それは天国への階段を一歩踏み出した人である

霊が主、肉体が従
人間は霊が主であり、肉体が従である、という思いに至った人。これは同じ階段を二歩三歩上った人々である。

人間は神の僕
人間は神によって創られたものであって、あくまで神の僕である、と、ことごとに神の裁きを怖れつつ、しかし、行いを謹んで神にすがっている人々。この人々は、真の人間観からいまだ遠いが、他人を傷つけぬ場合は、天国の階段を昇りうる。

人間は神の被造物
人間は神によって創られた被造者であるが、神は愛であるから、愛の行いを積極的にしていれば、決して不幸はこないのである、と確信している人。この人も天国の階段を昇っている。

愛他行
神のことも、霊のことも、特別に考えぬが、ただ、ひたすら、素直な明るい気持で、愛他行をしている人。この人も天国に昇り得る。

善くなることを信じて愛他行
肉体界以外のことは知らないが、素直な明るい気持で、愛他行ができ、しかも、神仏の存在を信じ、あわせて、この地上世界が必ず善くなることを信じて生活している人。この人は天国の住者である。

人間の霊は神であることを悟っている人
人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって人間そのものではない。人間とは神の生命の法則を、自由に操って、この現象の世界に、形の上の創造を成し遂げてゆく者であると、と識って、それを実行している人。この人は覚者であって、自由自在心である。すなわち個の肉体を持ちながら、自らが、霊そのものであることを自覚し、その霊は神そのものの生命であることを識り、神我一体観、自他一体観を行動として表現してゆく人、例えば仏陀、キリストの如き人々である。

人間と神は一つ
真の人間を識ることは、神を識ることと一つである。

人間は死後も生き続ける
はたして人間は肉体の滅亡をもって、最期の終止符になるのだろうか。私は即座に否と答える。

人間は神から分かれた者
人間は肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられる力を、縦横に、自由無碍に発揮し、形ある世界に完全なる神の姿を描き出そうとしているものである。

人間は形に神を現す
神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を、形ある世界に活動せしめんとする神の子なんである。

動揺せぬ生き方
このような神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界の如何なる変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。

三、実在界・霊界・幽界・肉体界

人間は業生ではない
 ある一部の宗教家は、人間業生説、因縁説を説き、人間は常に因縁因果の世界から向けきれぬとしているが、私は、ここではっきりと、人間は本来業生ではないと言い切りたい。

人間は神そのものである
私は人間の霊性を深く追求して、人間と神との一体を観じ得た。人間は神の子であり、神そのものでさえあるということである。悟り得た人間の発生について説いてみたいと思う。

人間は神から来た光である
人間は本来、神から来た光である。光はすなわち心である。神は、すべてのすべてであり、無限の智慧、無限の愛、無限の生命であるけれども、神そのものが、神そのままの姿で動いたとしたら、形の世界には何ものも現れてはこない。無限がそのまま動いたとしても、無限はいつまでも無限であって、有限にはならない。一がいくら動いても一なのである。無限が幾つかの有限になり、一が自己分裂して二になり、四にならなければ、形の世界は創造されない。

神の創造
この光そのものである神がある時、突然その統一していた光を、各種、各様相に異なった光として放射した。この時から神の創造活動が始められたのである。神は、まず天地に分け、そしてその一部の光は、海霊、山霊、木霊と呼ばれ、自然界を創造し活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊と呼ばれて人間界を創造した。

一即多神
ここにおいて神は、一であり、多であることになり、一即多神となるのである。

直霊は人間の実相
人間の直霊、すなわち神の一部の光こそ、私が前章より書き続けている人間そのものなのであって、この時には業因は生じていないのである。

                                                          一即多神

霊界幽界肉体界
この直霊が動き出でて、霊界を創り、各分霊となり、各分霊が直霊よりわけられたる光により創造力を駆使して幽界を創り、肉体界を創造して、ある時は幽体という衣だけ着て幽界に生活し、ある時は幽体をつけた上に、肉体という衣をつけて肉体界の創造活動を営んだ。霊体が中身とすれば、幽体はシャツであり、肉体は上着である。

分霊の鈍化
この三つの体はいずれも光の波動で出来ているのであるが、肉体は光の波が非常に粗く、流れる速度も遅く、その波は重い。分霊は、精妙な光であり、本来自由自在に動きうる波動をもっているのであるが、肉体界に出入りする内に、いつとはなく、肉体の鈍い動きに同化されてきて、しだいにその精妙さが失われてきた。

分霊肉体に閉じこめられる
始め、肉体界を創り、そこに神の創造を形づけようとして活動を続けていた各分霊は、さながら繭をつくって、その中に閉じこめられた蛹の如き状態に陥り、しだいにその光波が濁っていったのである。それはちょうど、流れの速い川は澄み、流れの遅い川は濁っている、のと同じ原理である。

分霊は直霊を疎んじる
やがて、各分霊は自分たちの親である直霊に向ける念を疎んじだし、それまでに幽体と肉体に蓄積されていた光の波だけに重点を置いて、楽な創造を営もうとし始めたのである。ここにおいて人間は、肉体界の生活を主とした自己限定をするようになっていったのである。

業因の発生
分霊の創造の始めにおいておこされた想いは神より来たる本来因果であったが、肉体界に自己限定を始めた頃より生じた想いが業因となって、人類の悲劇が始められたのである。

                                                                                                                  神と人間 

分霊の横取り
即ち自己限定した各分霊は、お互いの不自由性を解放しようとして、縦である直霊に向かわず、横につながる兄弟姉妹である分霊魂からその自由を得ようとして始めた。即ち縦取りをしないで横取りをし始めたのである。そして、幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の歴史を繰り広げていったのである。しかし、時折、自ら閉じこめ、今は閉じこめられた肉体の隙間から、神の顔をその光明をちらりと観ては、蓄積された想念の中から、かつての自分の光を見いだし、直霊に向かって救いを求める祈りの絶叫を挙げるのである。これが信仰心の始まりであった。それまでの状態を図解して説明しよう。

幽界と業因縁
第二図の如く、各分霊は霊界に所属しながら、その心(念)をもって各幽体を創造しここに幽界が出来た。この幽体は各々のが記録される場所となる。即ち業因縁の蓄積所である。ここに蓄積された記録や記憶が肉体の頭脳にキャッチされ、考えとなり行動となっていく。この蓄積された記憶を潜在意識といい、頭脳にキャッチされたものを顕在意識という。怒ろうとせぬのに怒ってしまい、不幸になろうとせぬのに、不幸になってしまう等々、すべて潜在意識(幽体、幽界)からの意識の流れによるのである。この波が常に回転し、不幸の念の蓄積は不幸を呼び、喜びの念の蓄積は喜びを呼ぶと言う風に、輪のように回転してゆくので、これが業の因縁因果と呼ばれている。このことは後の章において述べることにして、また分霊の説明にうつる。

霊は光肉体は原子
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物の司る神霊が動物を創造した、その創造過程が、霊、幽、物質としだいにその光波を物質化した。いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波)といていったのと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を山霊、海霊、木霊、動物を司る霊らと協力して、なさしめたといえるのである。従って人間(霊)が光波ででき、肉体が原子から出来ていることと、自然界の法則とは範疇の異なった、等しい原理によると言えよう。

人間は被造物ではなく、神の分霊
ただ、大いに異なることは、山海草木も創造されたるのもであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は、創造者である分霊そのものが、肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。これは重大なることであって、釈尊かの言葉に「人身得難し」とあるのは真である。動物は神に隷属されたるもの、人間は神そのものの分霊であること、本来自由自在ななるものであることを、よくよく考えて感謝しなければならない。

分霊の肉体化
さて霊・魂・魄といて三界に活動している分霊はしだいに肉体人そのものになってきて、肉体外の六感(直感)直覚(神智)のおとろえを見せ、すべてを五官感覚にのみ頼ることが習慣づけられ、五感に触れぬものは無いものと思うようになり、人間とは肉体であり、心(精神)とは、肉体の機関が生み出した働きであるとして、分霊の活動は分霊そのものとしては感じられぬようになっていった。

四、守護神、守護霊について 

                                                                                                                                    守護霊・守護神



分霊は業因縁に束縛される
分霊が肉体の因縁の中に閉じこめられた現在、各分霊の中でこの因縁を超えることは不可能に近い。分霊の肉体我は自己を守るために争うようになる。

守護神、守護霊の誕生
神は分霊を救うために、直霊から守護神を放射した。守護神の光によって、古い分霊は救われ守護霊になる。守護霊は正守護霊と副守護霊に分かれる。

正副守護霊
正守護霊は、肉体人間に専属して、運命を指導する。副守護霊は、人間の才能や仕事を指導する。

死とは
死とは、分霊が幽体をつけたまま別の階層に移転することである。


幽界での生活
肉体を離れた分霊は、ある期間幽界において生活する。肉体界と同じような生活を営むが、思うことがすぐ現れる。したがって自分をごまかすことはできない。幽体にある業因縁を浄めて、肉体界に再生する。

直霊と合一
かくして、何度か再生して、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。

霊魂、魂魄
幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を魂魄という。

霊とは神であり、神性である
霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。したがって、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に下っては、魂魄であると言えるのである。

輪廻転生
人間は本性としては、霊(神)であるので完全円満であり、生き通しであるが、分霊の念波から生じた業生は、業因縁となり、幽界、肉体界を輪廻転生して、生まれ変わり死に変わりするのである。

人間本来仏性
仏教でいわれる、人間本来仏性なり、とは、どんな業因縁の迷路にいる人間でも、その中身はすべて仏のいのちである。私流に言えば分霊の光であり、直霊の光であり、宇宙神そのものの光(いのち)である、というのである。

現象の善悪は神が現れるまでの過程
人間の本来性には善も悪もない。人間は無限の光(神)の創造性を行動に移し、神の姿を客観的に現そうとしている者であって、悪といい善というも、全面的に神が現象界に現れるまでに織りなす光と影の交差であり、悪(影)と現れている姿、行動も、より大いなる善(光)を現そうとする一瞬であり、善と現れている姿、行動すらも、より偉大なるすべてを含めた善(光)を現そうとする過程の一瞬である。

業因縁にとらわれるのも地上天国までの過程
分霊は、一度は、肉体の業因縁の中でもてあそばれ、自己の本性を見失ったように見えるが、これは、直霊が分霊に命じて、宇宙神の創造を現象界に写し出そうとしている過程にすぎないのである。

直霊から守護神が分かれる
かかる過程にあって苦悩している分霊を救い、肉体界を浄め、宇宙神の意志そのものの世界とすることが、直霊の最初からの計画であった。そこで、各直霊は自己の光を分けて、分霊達の守護神となし

守護霊の誕生
守護神は古い分霊を業因縁の波から救いあげた。この分霊達は、守護霊となり、守護神に従って、肉体界に働く後輩の分霊達、いわゆる子孫の(人間の)守護に当たることになった

守護霊・守護神の貢献
人類に貢献する聖者、偉人が数多あったことは、分霊である人間が、守護神、守護霊の働きを悟り、これらと協力して、活躍したことを物語るのである。この力は、精神文化、物質文明の発展に寄与することが大きく、守護神、守護霊、分霊の交流が、さらに著しくなってくれば、この世界が、真の発展に進むことになるのである。

因縁因果を超える法

単なる説教では、業因縁を超えることは出来ない
業因縁は過去世の過去世から流れ続いていいる波の連続である。この50年、60年の肉体のみにあるのではない。各人の肉体的な環境(病気や幸、不幸)がその間の2年や3年に起こした念の現れとして、出来上がったものではない。誰が見ても立派な心の人が不幸になっており、どこから悪いように見える人が、人も羨む幸福を得ている例は枚挙にいとまがない。だから簡単に人を責めたり、裁いたりすることは出来ない。

想念の法則が人を脅すことがある
明るい心であれば、幸せになり、暗い心では不幸になるという念の法則を知ったばかりに、病気の人がかえって悪くなり、不幸に直面している人が、よけいに悲観的になったりすることがあるので、念の法則はよほど慎重に人に言わなければいけない。

人間の因縁は各人各様である
人間はそれぞれ、各種各様の因縁の心をもっていて、Aの善なる生き方を、Bが必ずしも真似られるものではない。一字一線においてさえ、百人百様、千人千様である。ただ、非常に似通った心の人とはなはだ異なる心を持つ人がある。

顕在意識と潜在意識
顕在意識(普通いう心)に思ったことは、すべてそのまま潜在意識(幽体)に記録され、その記録された想いが、再び顕在意識に浮かび上がり、言動になる。こうした循環がその人の運命になって現れる。

人間の複雑な心
宇宙神の心から始まって直霊(人間界における神)の心、分霊の心、肉体界の心、直霊と位を同じくする守護神の心、個人個人に付き添っている守護霊の心と七つの心がある。この守護霊に素直である人が、神に素直であることになり、その人の進歩を非常に促進させる。

守護霊
祖先の悟った霊で、子孫の将来に起こる出来事をよく知っていて、その子孫の運命を幸福へ幸福へ導こうとしている。

個人の運命
幽体に想念が記録され、幽界に運命の原型が出来上がり、肉体界の想念が縁となって、現実の運命が現れる。

業生の法則
その人の想念のままの環境が現実に現れる

心の法則だけを説くと逆効果になる
不安心が強い人が、この法則を知って、よけいに不安を恐れるようになった。
悪いことを、本人の心のせいにすると愛も情けもない人生になってしまう。

神の愛
神は守護神、守護霊を人間に遣わし、人間の悪因縁を消し去ろうとしている。

人間の救済
守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の回転や、心の法則を知っても、人間は永久に救われない。


夢の真意
自分の悪想念が、悪い運命になる前に、守護霊が夢に表して消して下さる。

守護霊の働き
守護霊は、霊界、幽界、肉体界を通して働いて、幽界に出来上がりつつある運命を、肉体界に現せないように、あらゆる手段をもって、運命として現れないように修正していく。もっとも、肉体界の救いとしては、人間に出来うる限りの努力を、経験をさせて、いざというときに助ける。

守護霊が守りやすい人間
守護霊にとって、一番働きやすい肉体人間の状態は、常に守護霊の方に心を向けていてくれることである。守護霊の存在の如何に重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど、守りやすい肉体はないのである。

守護神への救援
人間があまりにも業因縁が深く、無明で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合は、守護霊の力が通じないので、守護神に援助を願う。

守護神の働き
大いなる神の光を人間に送り、分霊の力をまして、業想念を壁を破ろうとする。

守護霊への全託
人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委ねればよい。
守護霊さんありがとうございます
守護神さんありがとうございます
神様ありがとうございます
と常に感謝していればよい。
この心が神への全託であり、守護霊の活躍を充分にさせる一番良い方法なのである。


この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整った者となり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。何故ならば、守護霊、守護神と真っ直ぐにつながり、そのつながりによって、業生の因縁因果の渦巻きからいつの間にか離脱でき、分霊本来の光が直霊につながり、肉体をもったままで人間神の子の実観を、真に体得出来るのである。

素直に守護霊、守護霊に感謝して、その人の生活の業に励んだ方が、楽に自然に、神につながり、悟れると信じている。

如何なる困難な事態がその人の前に起ころうとも、守護霊の守りを信じうる人は、必ず、その事態は光明に転じるのである。

過去をふり返らない
消えてゆく姿である苦しみが済めば、必ず一段善い環境になると信じて、それと同時に、守護霊さんが守っていて下さるのだから、必ず善い方に善い方に向かっているに違いないことを信じることである。過去をふり返ると自分を痛めやすく、気持が暗くなってします。

自分を救う大切なこと
神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているんだ。しかも守護霊さんに守られながら生きているんだ。過去はない。過去は消えてゆく。どんな苦しみも必ず消えてゆくんだ、と過去の心の誤りなぞ穿り返さずに、ただただ、光明の方に心を向けていることが、自分を救い、人を救う、一番大切なことなのである。

カルマを超える最大の道
自分を愛し、人を愛し
自分を赦し、人を赦す
これがカルマを超える最大の道
みんな、いたわり合い、励まし合い
足りない智慧や力は、守護霊さんにお任せしよう
守護霊さんがきっとうまくやってくれるに違いない



六、正しい宗教と誤れる宗教

宗教とは
宗教とは、神仏(絶対者)と人間との関係を説き教え、明らかにする道である。

神とは
人間理念の根本であり、智慧(創造力)、愛、生命の根源である。従って、完全にして円満、調和せる象徴である。

肉体人間
完全円満なる力を内にもちながら、業因縁の渦巻きの中で、その渦を脱しよう、逃れようとしているのが、肉体人間である。

覚者
業因縁の渦を脱して、内なる神性を完全に輝かせた人。仏陀やキリストとよばれる人。

安心立命への導き
覚者は、神と人間との関係を説き、人間の神性を明かし、行じて、人々を安心立命の境地に導いた。

宗派の発生
覚者の弟子が、それぞれ独自の形で伝え、宗派が発生した。このようにして、宗派により教えは広まるが、それに比例して宗教心が深まったとはいえない。

宗教の三類型
宗教の学理的な究明者と、教団の形式的な踏襲者と、神仏と人間との関係を直接体験として知ろうとする行の人。

生きとし生きるもの
神仏は生きとし生ける者であり、人間も生きとし生ける者である。生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆく者が神であり、人間である。学理にこだわり、形式にとらわれた世界にはいくら求めても神はいない。

宗教とは行
宗教は哲学でも、教会や組織でもない。人間が神仏にそのままつながっている生命であることを、自覚させる行であり、教えである。

神は愛なり
愛とは神そのものであり、神と人間をつなぎ、人間と人間を調和させ、人間とあらゆる生物を琴和させる最大の働きをもつ心である。

愛と安心立命
宗教に入って、愛の心と安心立命がなければ、その宗教は正しいものではない。


死とは幽界(霊界も含めて)への転出である。肉体の死とは幽界への誕生である。

幽体
幽体とは霊と肉体を結ぶ役目をもっており、霊の念と肉体人間の脳髄の想いとを録音しておく役目をもつ。

死後の状態
人間は幽体をつけたまま幽界で生活する。その生活は幽体に蓄積されている想念の通りに実現されていく。幽界は、大別して天界、人界、地界というように3段階に分けられる。天界は、神に近い人々が住む。人界は、肉体界での普通人が住む。地界は、愛に背く人で、業因縁を消滅するために住む。幽界では、業因縁の渦は急速に回転する。肉体界にいる間に業因縁を消し去っていた方が遙かに楽である。幽界では、精神統一と守護霊の指導を受けることが救いになる。

真の信仰
愛と真を深め、人類調和のために、勇気を湧き上げさせるようなものでなければいけない。

自分にふさわしい宗教
いかに高い教えを説く宗教でも、心が不安であれば、その宗教に入る必要はない。

内部神性
守護神、守護霊を含めた内部神性の導きに心を傾けることが大事である。


7.私の祈念法

個人相談
業の深い人と面談すると、相手の業が自分の肉体に感応するが、すぐ消えてほとんど疲れない。

肉体頭脳は空
必要な智慧は、本体から出てくる。本体は光であり、神である。

業をつかんではいけない
業が現れても、消えてゆくという念と、これでよくなるという善念だけだせば、運命は新しい善因を記録する。そうした方法を根気よく続けていれば、その人の潜在意識は、しだいに善念に変化してゆき、顕在意識の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。


相手の因縁消滅
相手の業因縁を、私自身の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をする。すでに光体になっている私の中に、相手の因縁の波が吸い込まれていって、浄まっていゆく。私に来ている本源の光が因縁の汚れを消滅する。

無限拡の光
人間が真の精神統一に入ると、自分自身が無限拡の光であることが分かる。

業因縁の浄め
私の対座した人の業生の因縁体本源の光が流れ込むことになり、分霊にまつわる業因縁が浄まっていき、分霊の体が軽く清らかになっていくので度重ねて私と対座すると知らず知らずに安心立命の境地に近づいてゆく。

柏手の浄め
柏手を打つことによって、光の波が、相手の業因の波のうねりの通りにうねって浄めていく。

印を結ぶ
相手を統一させるためと、こちらの光の波長を、相手の波長にあわせる。テレビのダイヤルを切り替えるようなもの。

前向き
過去世からの業因縁を浄める。

後ろ向き
その人にまつわる先祖や縁者の浄め

本願
私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子であることを知らせること。どこまで悩んでも如何に苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚まさせるために働いている。

運命相談
心に自身の思いがないので、相手の運命(潜在意識に記録されている)がそのまま私の空の心に入ってくる。


いかに達者に道を説いても、心に愛のうすい人は、その姿に光が薄いし、何も説けずにいても、愛の深い人の姿は、光輝いて見える。
愛は光であり、光は即ち神である。
光になることは、愛そのものになることである
純粋な愛は、無我と同じであるから、本源の光がその人を通して相手に流れ入るのである。愛の純粋さに従って、光の強さが違ってくる。

神に通じる祈り
真摯な愛の祈り、無邪気な明るさ、運命を信じる楽天、こうした要素が神に通じる心である。

不安で心の暗い人
常に天を仰いで、「神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給へ。どうぞ、私を愛深いものにならしめ給え」と祈るとよい。
立っていても、座っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形はどうでもよい。ただ、ひたすら愛深い自分になることを祈り続けるのがよい。定まった一定時の祈りよりも、常に心に抱いている想いの方が効果がある。

愛と智慧
智慧は愛の内に含まれている。愛とは情ではない。

祈りとは
自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとする祈りである。
自分の心を空っぽにして、それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
願い事は、すべて後回しにする。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願い事はすべて叶うのである。

峻厳な愛
愛は時には峻厳を極める場合がある。しかし、冷酷とは全然異なるものである。愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも真に生かすに、峻厳さを示すものである。冷酷とは、自己や自己の周囲のためにすべてを殺す者である。

八、むすび

幸福への道
神と人間について私の言うことを、そのまま素直に実行して下されば、その人が幸福になるのは間違いない。


守護霊の導き
守護霊に祈れば、問に答え、あるいは導いてくれる。守護霊に素直であれば、必ず人の道を全うできる。

神我一体
真善美の行動をとりながら、守護霊、守護神への祈りを毎日欠かさずすれば、神我一体の境地への早道である。


問答編

五井先生が質問に答えたもので、質問だけ記しておくので、解答に関心のある方は、是非本を手にとって見て頂きたい。

問 人間の誕生について教えて下さい。

問 生まれ変わりに関係があると思うのですが、現在奨励されている産児制限についての考えをお教え下さい。

問 人の一生は先天的に決定されているのもであるか、後天的に変わりうるものかお教え下さい。

問 生まれ変わる人と、生まれ変わらぬ人とは、どこが違うのですか。

問 男性が女性に生まれたり、女性が男性に生まれ変わったりすることが、あるのでしょうか、お教え下さい。

問 人間の能力の差は、如何なる処から生ずるか、お伺いしたい。

問 お経をあげることは真に霊をなぐさめ、浄めることになるか。

問 成長の家では、神は無限の供給である、と教えておしますが、それは天国とか極楽だけのことでしょうか。現象界にも、実現可能とすれば、どういう風に行じたらよいのでしょうか。

問 俗に狐とか、狸が憑くと言われているが事実であることでしょうか。

問 神は一つであるのに、なぜ、各国、各人種に分けたのでしょうか。

問 生まれながら、神事、仏事の好きな人と、嫌いな人がいますが、どういう訳でしょう

問 人間には、肉体の他に幽体があると言われていますが、幽体はどのような役をしているのでしょう。

問 キリスト教では造物主を認め、仏教では、造物主を認めていないように思われますが、この点はいかがでしょう。

問 私は努めて愛の行いに励み、感謝の気持ちで日々を過ごしているつもりですが、次から次へと不幸が絶えません。この場合いったいどうしたらよいのでしょうか。
答 一番苦しみの軽い肉体界で、過去世の蓄積された業因縁を出来る限り消滅し去っておいた方が、その人や、その人の先祖、または子孫のためにも幸福である。

問 ある宗教では、その宗教に入ると、神棚、仏壇、すべてのお札を廃して、御曼荼羅だけを掛けて拝め、というのですが、こんなことをしてよいのでしょうか。

問 精神病、小児麻痺、てんかん等々、医学ではほとんど手に余しているような病気は一体何処に原因があるのでしょうか。
                                                               
問 姓名を変えることにより、運命が変わったり、方位学の方位よけによって幸福になったりすることがあるでしょうか。

問 私たちは、平常、どういう心構えで生活していることが大事なのでしょうか。

問 キリストは女を見て色情を起こす者は、すでに姦淫をしたるものなり、といっておりますが、この点について先生のご意見を伺いたい

問 先生は名前を聞いただけで、その性格や行動がはっきりお分かりになりますが、どうしてですか。

問 盗難や失せ物などを聞くと、それは何歳ぐらいの、こうした顔の人が盗った、などど教えてくれる行者がいますが、これは本当に正確なのでしょうか

問 亡くなった親兄弟や知人の霊が、霊媒者にかかって、身振りをしたり、口をきいたりすることがあるものでしょうか。



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