消えてゆく姿という乗物

人間の魂

五井先生は、人間の魂を「本心」と「業想念(煩悩)」に区別されています。「本心」は神から分かれてきた神の子であり、「業想念」は過去世からの因縁の消えてゆく姿です。業想念はいずれ消えてゆくもので永遠に実在するものではありません。仏教的な言葉でいえば「空」ということになります。一方「本心は」神から分かれてきた神の子ですから永遠に実在するものです。人間の本体は神の子であって、業想念ではありません。これはすべての人類にいえる真理です。

人間の実態

今の地球人類は、ほとんどの人が私利私欲で動いているので、まるで業想念の子ように見えますが、その姿は、「消えてゆく姿」であり、人間の本体は神の子です。ただ、魂の大部分を業想念が支配しているので、神の子の姿は一部しか見えていません。神の子の心は、神仏を信じる心、神仏に祈る心であり、さらには、私利私欲で動いている業想念を「消えてゆく姿」と捉える心も神の子の心です。ですから、いくら私利私欲で動いているように見える人であっても、神仏を信じ、祈っている人は、神の子なのです。煩悩の暗雲がたれ込めていても、信じ祈っている人は、神の御心を現しているのです。

神と神の子

五井先生は、真に存在するのは神と神の子であり、後のすべては消えてゆく姿であると言われています。単純に考えれば、人間から業想念を引いたら、残るのは完全円満な神の子だけになります。完全な神の子ですから、父なる神と一つでもあります。

宗教と修養の相違

修養は、善悪混交の心を修め養って、善なるものにしようと修行することです。宗教信仰は、基本的には、真実の自己は神と一体であり、それ以外の業想念(煩悩)は「消えてゆく姿」であると認識することにあります。

宗教では、人間の本体は神の子であるという根本原理によっています。肉体人間の想念で悪癖を直そう、悟りを開こうなどと力む方法はとりません。悪い癖も、悟ろうと焦る思いも、業想念の「消えてゆく姿」であると認識して、そのまま神仏の御名を心で称え祈り続けていさえすれば、神の子の心が現れて来ると説くわけです。御名を称え祈っていれば、神の子をおおっている煩悩の暗雲が消されてゆき、真の姿が現れてくる来るわけです。修養は、自力で善を構築しようとするのに対して、宗教は、神仏の力により、消去法で神の子を現そうとするわけです。修養は自力的であり、宗教は神仏の力により他力的であるといえます。

苦しい時

業想念が厚く心をおおって、苦しい時は、一体どうすればいいのでしょうか。どんなに過去世のカルマの波がかぶってきても、それは過去の幻影であり、「消えてゆく姿」であり、今の自分とは無関係であると見破らなければいけません。「消えてゆく姿」は今の自分とは無関係であると分かれば、自分を責めるのがあほらしくなります。

「消えてゆく姿」はそのままにして(意識するとよけいに苦しくなる)、守護の神霊にお任せして、一心に祈りに没入します。そうすれば、苦しみに囚われることも少なくなります。とにかく念仏を称え続けるか、世界平和の祈りを称え続けるわけです。苦しみから、意識を祈りに変えてしまいます。観の転換をするわけです。

苦しみを「消えてゆく姿」と断じて、神仏を信じ祈ることは、神の子の心です。今の自分は神の子になっているのです。つまり、五井先生を信じている限り、神の子であり、菩薩です。したがって、救われているわけです。なんと有難いことでしょうか。苦しい時でも、神の子なのです。感謝の祈りを捧げましょう。

消えてゆく姿という乗物

消えてゆくという乗物に乗れば、残るのは神の子だけであることがよく分かります。自分だけではなく、すべての人も消えてゆく姿をしているのです。消えてゆく姿はいずれ消滅します。つまり「空」です。永遠に実在するのは神と神の子だけです。消えてゆく姿に乗れば、すべては神の子であることが分かります。したがって、自分を責め、人を責めるのもナンセンスであることが分かってきます。

み仏を 想う心の 一すじに わが身あるとは 思はざりけり



B.G.M.

ヴァイオリンソナタ第5番「春」





ホームページ