オリンピック金メダル第一号


  早くも日本の金メダルがやってきました。スポーツの選手の笑顔は本当に爽やかですね。実は小学校から中学生の始めにかけてスポーツは得意な方でした。小学校のころ空き地でドッチボールをすると、大概最後のグループに入っていました。しかし、高校を卒業して、大学の授業でバスケットボールをするとボールを取ることは全く出来ませんでした。中学校の教員になっても、スポーツの部活動の指導がほとんど出来ませんでした。私は現在全くのスポーツ音痴です。

しかし、中学生の頃からソフトテニスをしていましたが、高校に入ったら絶対に硬式テニスをすることに決めていました。ところが、このころより私に不幸な運命がのしかかってきました。中学生の頃胃炎になってしまったのです。原因は猛暑で学校から帰ると氷水ばかり飲んでいました。そして、元々胃弱だったのでしょう。胃炎になってしまったのです。色々な医者に行っても胃の不快感は治りませんでした。

そして、中三の頃書店で「内臓の病気は断食すれば治る」という本を見つけました。特に胃腸病は断食すれば必ず治ると書いてありました。私はこの不愉快な胃炎を治さないと人生は灰色になってしまうと考えていました。そこで、断食道場を岡山市で見つけて、中三の夏休みに入院して、少しずつ食べるものを減らして行き、六日間の断食をしました。それで、胃下垂気味だった胃は良くなり胃炎は治りました。しかし、体力の減退は何ヶ月しても治りませんでした。

半年して、高校進学を果たしました。部活動の見学期間が設けられ、硬式テニスに行きました。すると、中学校の頃のソフトテニスの先輩もいました。しかし、絶食をして半年余りで体力の減退はまだ治っていませんでした。入部見学では、校庭を何回も走るように言われていました。高校の運動場なので大きくて、何日も走っていると激しい引きつけを起こしてしまいました。先輩が来て襟のボタンを外してくれました。しかし、なかなか治らず、日が暮れる頃にやっと歩けるようになりました。先輩にも心配をかけ情けない感情で一杯になり、体力不足を痛感していたので、硬式テニスの入部を諦めました!

こうして、憧れの硬式テニスをする機会を失い、スポーツの世界から遠ざかってしまいました。段々と口数も少なくなり、クラスの中では全く目立たない生徒になっていました。思春期に入り、母親と相性が合わず、随分悩みました。うちに帰っても母親と喧嘩ばかりしていました、まだ十代の後半なのに、私は人生に行き詰まってしまっていました。母親も悩んで祖母と奈良の親先生の処に言っていました。

私の唯一の救いは本を読むしかありませんでした。岡山市の本屋をはしごして、人生論の本ばかり探していました。家の両親はキリスト教などとは何の関係はありませんでしたが、聖書を開くと、ちょうどヨハネ伝の箇所で、神は愛なりと書いているところを見つけました。小学校の恩師にクリスチャンがいるのを思いだし、恩師に紹介して貰って、プロテスタント教会に行くようになりました。教会の日曜学校に高校生会があり、若い女性の副牧師の資格のある先生が、高校生の面倒を見てくれました。常連は5人ほどいて、毎週集まっては雑談をして、聖書の勉強をみんなでしました。僕は典型的なクリスチャンになっていきました。

しかし、スポーツ、男女交際とかという世界とは全く違う暗い世界に住むようになりました。無口になり、同級生とも話が合わなくなり、学校でも友人は数人いましたが、全く目立たない生徒になってしまいました。音大に行く才能はなく、クラシックばかり聞いていました。キリスト教の音楽と言えば、当然バッハが著名で、暗いバッハのカンタータやオルガン曲を聞くようになり、絵画にも関心があり、ルネサンスの頃のキリスト教の絵画を音楽と一緒によく見ていました。つまり、僕は典型的な暗い青春を送る人間になってしまったのです。もはやスポーツとは逆の世界であり、女性にもモテなくなり、ますます孤独な人間に知らず知らずになっていました。

私の人生は、まるで過去生からの因果応報のように、暗い孤独な世界をさまよう人間になっていました。大学に行き合唱団に入り、クラシック音楽を聞く友達も出来ましたが、全く目立たず、女性にももてませんでした。

そんな人間が中学校の教員になったのですから、生徒に慕われるはずもなく、生徒には反発ばかりされて、埼玉の中学校を退職して、地元の中学校にかえりました。地元では、埼玉県のように反発されたりはしませんでしたが、特に慕われることもなく、目立たない大人しいだけの教員でした。やはり、教員と慕われるには部活動の指導が出来ることが第一なのですが、硬式テニスを本格的にしていなかった為に、スポーツのセンスは全くダメで、いるかいないかの目立たない教師でした。

しかし、岡山にも荒れる学校はすでに岡山市の中心部にはあり、それが周辺部に広がってきていました。私の岡山の二度目の学校もひどく荒れ、給食の中に唐辛子を入れられたりして最悪のクラスになってしまいました。

それに加えて、学校でもインターネットが導入され進路情報もネットで流されるようになりました。前の学校にパソコン博士がいて、いろいろ教えて貰っていたので、転勤するとコンピューターに詳しいことがわかり、ついにコンピューター主任にされてしまい、Win95を三台ほど教育委員会に許可を貰い買って、一太郎から成績処理のソフト、実力テストデータベースのプログラムなどを入れて、インターネットにもつないで、岡山県南部の私立の高校の全てのHPを登録して、進学指導にも出来るようにしました。そして、それを全て終えて、冬休みに入りほっとしました。しかし疲れが全くとれず、気分が沈んで行き、テレビや新聞も見る気がしなくなりました。三学期に学校に行くと全く仕事がはかどらず、空き時間は寝るばかりしていました。

校長が見るに見かねて、一週間病休を取りましたが全く良くなる兆候はなく、校長から一年休めという命令を受け、心療内科に行き、一年間の静養を要すという診断書を書いて貰い、休職しました。後は皆さんが知っている通りです。




homepage