孤独

孤独に耐えられるか

老子は、人間が耐えられないものにが二つあるという。一つは不穀と孤独であるという。こうようにパソコンを打っている人の中にも、孤独感をまぎらわせるようにして打っておられる方もおありだと思う。晩秋の今時分になると、季節感覚も、もの淋しくなってくる。いったいこの孤独感をどう乗り越えていったらいいのか。孤独をまぎらわせるために音楽を聞いたり、小説を読んだりして気を紛らわせるのが手っ取り早い方法だ。しかし、無性に人恋しく落ち着かないくらいになったらどうするのだ。

孤独は耐えられない苦しみ

純然たる神の子は父なる神と一体だから、淋しいという言葉もないと思う。しかし、我々凡人は煩悩が心を蔽っていて、神の子の姿はほんの少ししか現れてはいない。そこで、過去世からの誤った想念の消えてゆく姿として、孤独な境遇が表れている。これは消えてゆく姿である。しかし、いくら消えてゆく姿であっても、食べられない苦しみと、孤独感とは、耐えられない苦しみなのだ。老子はそのように言っている。私は、救われて国籍は天にあるものである。しかし、この部屋には、私独りしかいない。守護霊様・守護神様もいらっしゃるが、親しく話をするわけにはいかない。救世主である五井先生もおられるが、話もできない。類が友を呼んでいても、自然界から高次元世界へは会話は出来ない。

地球人類には耐えられないような苦しみがある

世界平和を祈っている人は、菩薩であり、神の子であるという。今病気であったり、孤独であったりするのは、過去世の業が消えていっているのであって、今の貴方は菩薩であり神の子なんだと五井先生は言われている。つまり、今の自己は菩薩であり神の子であるが、過去世からの業の波を被っているため、病気であったり、孤独であったりしている。これは、私だけではなく、多くの人にいえることだと思う。晩年の五井先生も、地球人類の業を全面的に背負われ苦しみに耐えられた。このような苦しみは、現在の地球に生きている限りなくなることはないのだろう。

五井先生が孤独なのをよーく知っておられる=「願わずとも必要なものは与えられる」

自分は菩薩であり神の子であり救われており、天へ帰国する時は、日一日と近づいている。感謝すべきことだと思う。しかし、今の地球にいる限り、地球人類の業を受けないわけにはいかない。その煩悩の火を消して下さるのが、守護の神霊様であり、五井先生である。五井先生の言葉を信じるしかない。「願わずとも必要なものは与えられる。」神様にいちいち苦情を言わなくとも、神様は人々に必要なものはすべてご存じなのだ。私が孤独であることもよーくご存じなのだ。だから、必ず与えて下さると信じるしかないのだ。アブラハムのように、90才になる妻に子供が出来るとみ使いに言われて、彼は望み得ないのに信じた。その信仰が義とされたのである。そして、イサクが生まれた。とにかく、五井先生のみ言葉と、守護霊様、守護神様を信じるしかない。それが信仰というものなのだ。


救世主 五井先生は 言い給ふ すべて任せよ 我に任せよ



B.G.M. 

ピーター・セテラの「Glory Of Love」

    


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