神経系の病気の人へ
神経系の病気の人が多い
筆者もうつ病になりつらい時期がありました。うつ病にかかると、自分の思考をコントロール出来なくなり悲観的にしか考えることが出来なくなり、非力な自分を痛感せざるを得なくなります。
信仰への道
肉体人間の非力さを自覚した時、神仏に対する信仰が生まれてきます。そして、非力の人間は、神仏の無量の慈悲(愛)により、救われることが分かって来るからです。神仏に対して敬虔になるには、肉体人間としての限界を痛感しなければなりません。病気をした時、人は信仰的になりやすいのです。
み仏の慈悲と救い
親鸞上人は、み仏の救いについて、次のように言われています。「歎異抄第三条」より
「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、(煩悩から離れることのない私たちは、どのような自力行をしても生死を超えることが出来ないことをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」(阿弥陀仏の救いを求めている業の深い人間こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。
み仏は(神様)は、一部の人間だけを救おうとしているのではありません。すべての人を救おうとされています。むしろ、業が深くてみ仏(神様)に縋っている者を救うことが、み仏の悲願であると親鸞上人は述べておられます。中身ではほとんどすべての人が凡夫です。み仏は、煩悩具足の凡夫を救うことを本願とされました。それは一重にみ仏の深い慈悲から来ています。信じる心さえあれば、すべての人はみ仏の無量の慈悲により救われます。素直にみ仏の深い慈悲を思い、救いを信じ受けいれましょう。世界は闇から光に変わって行きます。
神の慈悲と救い
五井先生も、神の愛と救いについて次のように言われています。
「イエスは、人間の原罪をその一身に背負って、人類の身代わりとして十字架にかかった人であり、
阿弥陀如来すなわち法蔵菩薩は、四十八願をたてて、自己の名を呼ぶ人間すべてが救われなければ
仏にならない、と宣言して仏になった人ですから、伴に人類救済の大悲願をもつ神の救済面の働きを
人格化して現しているわけです。」「宗教問答正編」p162
「神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」。」「五井昌久講話集5」p67
「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」「五井昌久講話集2」p162
自分が苦境にある時は、こんな自分が救われるはずがないと思いがちです。しかし、病気で悩んでいても、経済的な苦況にあろうとも、さらには、例え自らの罪の意識で悩んでいても、それは消えてゆく姿に過ぎないのです。いわば過去の亡霊です。神を信じている今現在の自分は、神の限りない慈悲(愛)によりすべて赦され救われているのです。
「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」「五井昌久講話集4」p11
本当の他力信仰
他力信仰とはそういうものなのです。。他力信仰は、自分の値はありのままでよいから、神仏の無量の慈悲を信じ、救いを受け入れればよいのです。そうすれば、凡ての人は天につながり救われます。ああ、こんな自分でも救われているんだなという気持になれるのです。そこから、感謝の念が生まれてくるのです。後は、自分が救われ、天につながっていることを常に思い、感謝の祈りを捧げていればよいのです。それが信仰生活になるのです。自力を捨てて、神仏(他力)信じ託しましょう。自我には限りがありますが、神仏の慈悲と力には限りはありません。
パウロが説いているのも、親鸞が説いているのも、本質的には同一であり、神仏のすべてを救はんとする限りない慈悲(愛)を説いているのです。神仏は人間を裁いたり罰をあてたりすることはありません。神仏は、どこまでも人間を赦そう、救おうとされているのです。五井先生は、それを最も分かり易く私たちに教えて下さっています。
「神様が罰をあてるのではない。自分が自分に勝手に罰を当てているんですよ。神様は救う方だけなのです。救いたいばっかりですよ。」「五井昌久講話集4」p155
「神様というのは、あくまで人間を救おうと思っている。人間を赦そうと思っている。
人間の原罪をほどこうと思っている。罪の観念というものをなくそうとおもっている。
イエスさんが十字架にかかったのは、人類の原罪を身代わりに背負ったことなのです。
私がみんなの代わりになって原罪を背負ったんだから、あなた方は罪の観念を捨てなさい。
罪汚れは私が引き受けたんだから、あなた方は、私の名を呼べば助けてあげる。といって
十字架にかかったんです。」「五井昌久講話集4」p158
「私は神の愛を、私の肉体を通して、優しく分かりやすく、人間世界に伝えようとしている者であります。
神は愛なのです。神は慈愛なのです。人間を救おう救おうとなさっていて、決して罰しようとは思って
いらっしゃらないのです。それを誤った人が神の罰を説いたり、心の欠陥ばかりを責め裁いたりして
宗教を求める善人を、狭い窮屈な善人にしてしまい、気の強い人をして、宗教の門、神の門から
閉め出してしまっているのです。」「武産合気」p24
神仏は私たちの救われを手を伸ばして待っている
神仏は人間の魂の親でもあります。どんな人でも救ってあげるから早く私の元に帰って来なさいと、今か今かと手を延ばして待っていて下さるのです。後は、人間が神仏の手を握るだけなのです。握れば神仏と人間が一つとなって救いは完結します。その時の「ありがとうございます」という言葉が祈りになるのです。そして、後は神仏が手を取って天国浄土まで導いて下さるのです。五井先生は次のように言われています。
「ところが本当は神様は親なんだから、自分の子供はいつでも可愛い、早く私のもとへ帰っておいで、もう罪なんてものは無いんだよ、帰ってくればいいんだよ、そういってるんです」「五井昌久講話集3」p25
五井先生! と思えば、私は向こうにいるんだから、必ず行きます。手を出して、「ハイよく来ましたネ」と引き上げます。そこには仲間がたくさんいるんです。守護の神霊がたくさんいるんだから、「着きましたネ、待ってたよ。少し遅かったじゃない」なんていって上げてくれるんです。「神様にまかせきる」p.40
神仏の「救ってあげるよ」という呼び声に、「ありがとうございます」と言って応えるだけなのです。それで救いは完結するのです。それが他力信仰なのです。
失望から大いなる希望へ
失望だけしていてもつまりません。病気の苦しさをバネにして、真の信仰に入りましょう。主イエスを信じ、阿弥陀仏を信じ、五井先生を信じることが出来たなら、凡ての人は天につながり救われます。そして人生は、失望から希望に変わるはずです。常に天につながっているからです。その希望はこの世だけではなく、死後の世界までつづく大きな希望です。この希望を持ち得た人こそ、人生の真の勝利者なのです。神仏の慈悲を信じて、救いを受け入れた人こそ、神仏の子であり、天国浄土の民です。私たちは、今信仰の門まで来ています。神仏の絶対的な慈悲を信じて、救いを受け入れましょう。踊り喜べ幸ひなる魂よ!
補筆
うつを治すには
今までの自分を赦すこと。赦すことにより心のとがめがなくなる為心が安心します。自分だけではなく人をも赦すことも心の負担が軽くなり心が楽になります。心が安心すれば、うつの状態はかなり改善します。五井先生の教義である「人間と真実の生き方」で「自分を赦し人を赦し・・・」と言われていることは、うつにとっても誠に真実です。
日々の行動は自分に対して枠をはめないで大らかで柔軟に行動することにより、自分をなるべく責めないようにしましょう。ただし、人に迷惑にかけるようなことは、なるべくよした方がいいです。まして、小さな事(例えば万引き)でも犯罪になるようなことはしてはいけません。犯罪になるようなことをすると生涯心のとがめになるので自分で心を傷つけてしまいます。枠をはめて自分を責めるのも良くないですが、小さな事でも犯罪になるようなことは慎まなければいけません。心を責めたり、また逆に心から責められたりすることは、心の重荷になり落ち込む原因になります。こころにやましいことがないのが、うつをよくすることにつながります。
ただし、人に迷惑をかけてないのに、あたかも宗教的な戒律を犯したように自分を責めるのは愚かなことであり罪悪感を作り、心を責めるので、うつの原因になります。クリスチャンによくありますが、性欲や自慰を罪と考え年中罪の意識に怯えている人などがその例に当てはまります。五井先生が言われるように、宗教は罪から人間を解放するためにあります。もし宗教により縛られるのなら、その宗教は真の宗教ではありません。阿弥陀様のように、どんな犯罪でもみ仏を信じて念仏を唱えたら救われるというのが真の宗教です。人間を縛り罪悪感を与える宗教は本物ではありません。
心理的なことだけではなく、行動的なこともうつを和らげます。うつでどうしようもなくなったら、少し熱めの湯に入ることをお勧めします。熱めの湯に入ると血行が良くなり、脳に必要な神経物質が多量に送られるため、随分楽になります。うつがひどく心に痛みを伴ったり、我慢の出来ないようなイライラに襲われた場合には、薬を飲んでも効き目がないので、温浴に入れば、血行が良くなり脳に多量の神経物質が送られるので、必ず楽になります。何回か風呂に入れば必ず症状はよくなります。
また、五井先生の統一(お浄め)のディスクを聞くのも、うつの苦悩を和らげてくれます。ただし、私の体験から言わせてもらうと、統一のディスクは、五井先生の口笛と拍手を三回通りは聞かないと効果はありません。しかも背筋を伸ばしてあぐらをかいて手に如来印をします。寝たままで幾ら聞いても効果はほとんどありません。五井先生の口笛と拍手が背中や正面に当たってこない限りは効果はありません。特に落ち込んでうつ状態の時は背中に当てる方が効果があります。うつで苦しい時は後ろ向きに座り背中に当てて下さい。それから、身体に違和感があったり痛みがある時は、正面を向いて当てて下さい。五井先生のお浄めの口笛や拍手はあらゆる現象に効果があります。
三回聞けば30分くらいかかりますのでこれが限界だと思います。そこで、姿勢を正して当てるのは三回でよいので、その後、姿勢を崩して、日頃から凝っている肩や足裏のマッサージをして下さい。肩や足裏は年中凝っているので、いつでもマッサージが可能です。肩だけデンマでマッサージをしても、かなり時間がかかります。念を入れてあちこちすれば15分はかかります。その間、五井先生のディスクはつけっぱなしにして置いて下さい。足裏マッサージ(もちろん足指もする)も念を入れたら15分はかかります。この様に姿勢を正して30分、姿勢を崩して肩こりのマッサージや足裏マッサージをすれば、約一時間ほどテープを当てることが出来ます。すると、ほとんど落ち込みとうつは良くなります。また、身体の違和感や痛みも治まります。これは私の体験なので、皆様方に全て当てはまるとは思いませんが、かなりの効果があるのは確かだと思います。
最後にディスクの音量ですが、小さい音ではほとんど効き目はありません。背中や正面の身体にしみるくらいの音量が必要です。ですから、夜などはボリュームを大きくすると近所迷惑になるので、最初の世界平和の祈りの合唱の所だけボリュームを下げ、口笛が始まったら、出来るだけボリュームを上げて下さい。その様にしてなるべくボリュームを上げて当てることが効果につながります。
これだけのことを実行するだけでも、うつは随分良くなるので、余り本などを読んで余分な知識を身につけなくとも、これだけのことをしていれば、うつはかなり改善します。余分な知識を身につけても、そのことで自分が縛られるようでは逆効果であると認識しておいた方がよいです。神経系の病気は針を打つことでも改善します。よい鍼灸師がいれば、通ってみるのも手段の一つです。治療を受けて良くなるようなら通うと良いでしょう。代わり映えがしなければ、高い費用をかけて行く必要はありません。熱めの湯に入っても神経の流れが格段に良くなるので、針を打ったような効果があります。