光明思想とは

五井先生の光明思想

五井先生の光明思想の特徴を、幾つか挙げてみたいと思います。

一つは、人間は本来神の子であり仏であるという思想
この考えは、法華経から来ています。法華経では、人間が本来仏であることを、様々な喩えで説いています。

一つは、すべての人間が救われることを強調する思想
この考えは、阿弥陀三部経から来ています。阿弥陀三部経では、どんな人間も、念仏を称えれば、阿弥陀仏により浄土にすくい取られると説いています。悟ることより救われることを強調します。

それまでの仏教が、悟りの仏教であったのに対して、阿弥陀信仰では救いを強調します。煩悩を持ちながらでも、念仏により救われると説きます。救われることから来る安心感と感謝の想いを信仰生活とします。

一つは、積極的な悪を認めない。神(絶対善)に対向する積極的な悪を認めません。悪は善の欠如であり、善は光であり、光が支配すれば、悪は自ずと消えてゆきます。あくまで、世界は神(絶対善)の一元的世界であり、悪は、神性の現れてない状態で、神に対向する悪があるわけではありません。五井先生の言葉によりば、悪は消えてゆく姿であり、実在するものではありません。悪は影ですから、非常に明るい世界観といえます。

このような考えは、西洋のネオ・プラトニズムなどの影響があると思います。ネオ・プラトニズムも、神の一元的な世界を説き、積極的な悪の実在を認めません。

二つの光明思想


五井先生は、「生きている念仏」の中で、光明思想を二つの光明思想に分けておられます。

一つは、法華経的な光明思想。
法華経的な光明思想は、法華経の、人間本来神の子、仏を全面に出します。そして、人間神の子、仏を唱えて、神仏の絶対力を出そうとします。日蓮上人の「南無妙法蓮華経」はこのような意味合いが濃いと考えられます。

このように、人間の理想を掲げて、神仏の御心を現そうとするわけですから、明るく積極的です。しかし、理想主義に過ぎて、理想と現実のギャップが大きくて、虚しくなったり、逆に、偽善的になったりしやすいところがあります。

一つは、浄土門的光明思想。
阿弥陀信仰の、すべてのものが救われる方に力点を置きます。煩悩はそのまま置いておいて、念仏を称えることにより、救われることを大原則にします。すべての人が救いにあずかれます。神仏への感謝行を信仰生活とします。

煩悩を離れることが出来ない凡夫の現実認識から出発しますから、謙遜なのはよいですが、得てして卑下的になり、暗くなりがちなことが挙げられます。


「納得する道に進め」

五井先生は、両者の道に対して、自分が納得する道を進めと「霊性の開発」で述べておられます。

煩悩即菩提

現在の地球人類のレベルで考えますと、殆どの人は消えてゆく姿をしているわけであって、神仏の御心を現している人は、ほんの少数でしょう。ですから、自分達の実態に即せば、浄土門的な光明思想の道の方が、より自然だと思われます。理想と現実のギャップに悩まなくても済みます。ただ、煩悩にどのように対処するかです。

我々の日常生活を見ると、自他伴にもうダメだ思われることが多いと思います。その時、それを放置してしまえば、煩悩は余計に増幅して、勢いを押さえることは出来ないでしょう。

そこで、もうダメだと思う時に、親鸞上人の「歎異抄」の「もうダメだと思うような凡夫を、憐れみ救って下さるのがみ仏なんだ。そのために阿弥陀仏は本願を立てられたんだ」という言葉を思い起こすとよいと思います。「優秀な人間を救おうとする人は沢山いるだろう。しかし、もうダメだと思う人間を救おうとする人がいるだろうか。そんな凡夫を救って下さるるのがみ仏なんだ。それほどみ仏の慈悲は深いんだ。」と思うと有難くて、「有難うございます。南無阿弥陀仏」と称えてしまいます。これこそ、煩悩をきっかけにしてみ仏を思う「煩悩即菩提」にほかあなりません。このようにして、すべての苦悩がみ仏への信仰と感謝へ振り替わっていくのです。これが、一つの浄土門的な光明思想の利点です。親鸞上人はみ仏の慈悲を分かり易く説いておられるのです。

世界平和の祈り

守護霊様・守護神様・五井先生
有難うございます


と言う部分は感謝の祈りです。つまり、浄土門的光明思想に従っています。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように

自分が救われるだけではなく、すべての人が救われますように、と祈ります。
つまり、菩薩の祈りです。つまり、自分がみ仏になって、菩薩の祈りをしているわけです。
ですから、これは、法華経的な光明思想を表現しています。
ですから、世界平和の祈りは、両者の光明思想を表現しています。

人間本来は神の子、仏ですから、心を澄ませば菩薩の祈りが出て来ます。
そして、感謝の祈りに加えて、菩薩の祈りをすれば、次第に、神仏の御心が現れてきます。
このように、現実から始まって、神仏の御心にまで高まっていくのが「世界平和の祈り」と言うことが出来ます。

力むことなく、自然に湧き上がるように、祈り一念の日々を送りたいものです。
                  
救はれん すべての人は み仏の 無量の慈悲に 差別なからん

かくのごと 信仰うすき 者さへも 救ひ給はん 慈悲のみ仏

凡愚なる 煩悩具足の 吾なれど 救ひ賜る 弥陀ぞ尊き



B.G.M.

モーツアルト「アポロンとヒュアキントス」KV38


 




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