現代の救世主

救世主とは

救世主といえば、不穏な時代に現れて、人々を救い、世の中をも幸福に導く人というような意味です。人類の歴史で、救世主と呼ばれたのは、今から約2千年前に、パレスチナに現れて、多くの人々を救い、人類の罪業を背負って亡くなった主イエスのことを言います。

現代の救世主

20世紀の日本に、救世主と呼ばれるにふさわしい聖者がおられたのです。五井昌久先生(1916〜1980東京都出身)であり、高い霊覚をもって人々を救い、人類を救う「世界平和の祈り」を提唱されました。ここで、なぜ五井先生が救世主と言われるかを、主イエスと比較して見てみましょう。

神の化身

主イエスはこのように言っています。
「わたしを信じる者は、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。」ヨハネ12.44 

ここで、主イエスは、自らが神の化身であることを言明しました。

五井先生も、自らが神を現していることを、仰っていました。そして救世主であることを言明されました。

「ところが、この中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明です。
その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるのです。どんな体の中にも入れる。」
「光明の生活 五井昌久講話集3」P188

「この肉体を使っている大神様は無限の光明力だから、先生と呼ぶところにはどこえでも現れる。だから皆さんが救って下さいと言っている時には、白髪の長い髭のおじいさんが現れると思っているといいですよ。」
「魂の大きく開く時」P160

人類の罪業を背負う

主イエスが、身代わりに人間の罪業を背負うことにより、人間の罪業は祓われて、神の国に入ることが出来るわけです。主イエスは、十字架に架けられることを次のように言っています。

「そして、モーゼが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」ヨハネ3.14

五井先生も、身代わりに人間のすべての罪業を背負うことを言明されています。

「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は
大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、
と言う時には法蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば
私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって悟れないことに
なりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、
と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百何千何万十万という業を
全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた
、ということと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、
ということと同じことなのです。」
「私に荷物を預けなさい」P38

五井先生の晩年の数年間は、地球人類のカルマを直接受けて消しておられました。地球規模のカルマであるため、余りにも重く、身体に痛みを生じるのを、耐えておられまた。そして、昭和55年8月帰天されました。人類のために命を捧げられたご生涯でした。

永遠の命

永遠の命とは、神の命であり、永遠の命のある者は、神の国で永遠に光り輝くことが出来るのです。ヨハネ伝では、主イエスを信じる者は、永遠の命があることを繰り返して説いています。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16 

五井先生を信じる者は、永遠の命が輝くことを、次のように述べておられます。

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」
「魂が大きく開く時」P77


「キリスト(真理)を信ずれば永遠の生命が得られる、ということは本当です。・・・真理はなにか、簡単にいうと、人間は神の分生命である。しかし、想念の世界において生まれ変わり死に変わりするけれども、本心は光り輝き自由自在なものなのだ、というこです。それを信ずれば、信じただけで、永遠の生命を覚得したことになるのです。「質問ありませんか?」p100

多くの病人を癒す(「五井先生はどんな方」を参照)

覚者(救世主)には、難病を治したり、予知能力が備わるといわれます。
主イエスが重病人の多くを癒したことは聖書に記されています。

五井先生も多くの病人を癒されました。

覚者となられてから、生長の家の講師として千葉県市川市に行かれる。
市川の信徒の間で、五井先生に見てもらうと、奇跡がおこり、病気が治り、運勢が良くなると
大変な評判になる。

事業には繁栄の指針を与え、家庭には光明生活を、結婚には幸福な相手を、
各人に適職を、病める人には健康を、という風に、
転禍為福の実例は枚挙にいとまがないほどであった。

五井先生のもとに来る人は、たいてい悩みがあって来るが、先生の教えをふれていると
心配がなくなり、知らないうちに慢性病が治る、悪い癖が出なくなる、性格が明るくなる、
人助けがしたくなる、必要に応じて必要なものが出てくる、物質的に恵まれてくる、
若々しくなる・・・という風に、現実的に万事整ってきて、知らず識らずの内に、安心立命が
得られるのであった。」(五井先生はどんな方を参照)

現在の白光真宏会の中にも五井先生に病気を癒して頂いた人が多くおられるそうです。

救世主五井先生

五井先生が「現代の救世主」と言われるゆえんを理解して頂けたと思います。

救世主五井先生により、どんな救いが得られるのでしょうか。病苦で悩んでる人にとっては、病気が治るというのが切実な願いだと思います。病気など治らないと言われれば、誰も、五井先生の言うことを聞く人はいないでしょう。やはり、人間にとって身近な救いとは、現実的に幸せになることだろうと思います。五井先生は現実的な救いについて次のように仰っています。

「他の祈りはなんにもいらないから、「世界人類が平和でありますように」とやっていますと、自分の個人的な願いことも、その中で叶えられるんです。」「素直な心」 五井昌久講話集2

「病気は世界平和の祈りの中にもっていっちゃいなさい。迷いも世界平和の祈りの中に
もっていっちゃいなさい。それで足りなかったら、五井先生と言えばいい。私が引き受けます。
貧乏でも病気でもみんな引き受けます、と言っているんだから、こんな楽なことはないですね。」


「神様というものは、お願いしたら、なんでも願い通りにして下さるというものではなく、神様の
大愛を信じて生活していれば、自然と、神と一体の心境になり、心身共に平安の境地になりうるのです。・・・
願わなくとも、神様のほうではその人に必要なものを、ご存知なので、いちいち細かいことを神様に
願わなくとも、自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っていれば、自分が思っている以上の
物事が与えられたりするものです。」
「運命を恐れるな」P226

「いかなる困難な事態がその人の前に起ころうと、守護霊の守りを信じうる人は、必ず、その事態は
光明に転じます」
「神と人間」P56


現象面の利益は、「世界平和の祈り」をしていれば、願わずとも必要なものは与えられます。ただ単に、神様に自分勝手な願い事をしても、神様に叶えてもらえるかどうかは分かりません。

真の救い

病気が治る、生活苦から解放される、人間関係がよくなる等は、現実的に人を助けます。しかし、そのような現象面の変化だけでは、いつまた災難に遭うか分かりません。どんなことが起こってもそれを乗り越えられるだけの精神的な救いを求めなければ、真の救いとはいいきれないでしょう。

五井先生は、守護の神霊の導きにより神我一体となり、神の化身となられました。つまり、神の生命(永遠の命)と等しい存在になられたのです。ですから五井先生を信じれば、
「永遠の命」を得ることが出来るのです。真の救いとは、この世からあの世まで続く神的生命を得ることなのです。

救世主五井先生(神様)を信じた時、
「ぶどうの木と枝」のごとく五井先生の命(永遠の命)につながります。永遠の命(神様)により魂が浄められ、運命が修正され、神の子の姿が現れて来ます。そして、往生する時に、五井先生の浄めによりすべての業が祓われて、光り輝く神の子となり、永遠の神の国に凱旋します。これが真の救いです。

「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」「永遠のいのち」p132

この救いを誰もが簡単に得ることが出来ます。救世主五井先生を想い、すがり、信じればよいのです。たとえ煩悩具足の凡夫であっても、救世主五井先生を信じるだけでよいのです。だから五井先生は救世主なのです。五井先生が私たちのすべての業をかぶって下さるからです。

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」
「明るい心 五井昌久講話集4」P12

み仏の慈悲とすべての人の救われ

親鸞上人は、人間の救いについて、次のように言われています。「歎異抄第三条」より

煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、(煩悩から離れることのない私たちは、どのような行をしても救われることがないのをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」(阿弥陀仏にすがるしか救いようのない業の深い人間こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。

み仏は(神様)は、一部の人間だけを救おうとしているのではありません。すべての人を救おうとされています。むしろ、業が深くてみ仏(神様)にすがるしかない者をこそ、救うことがみ仏の悲願であると親鸞上人は述べておられます。煩悩具足の凡夫のままで救って下さるみ仏(神様)に感謝致しましょう。

つらいことがあっても

「世界人類の平和を祈る心は、そのまま永遠の生命につながっている心です。なぜなら、世界人類の平和は、神のみ心そのもの、愛そのものでありまして、永遠の生命のひびきがそのままあらわれている心だからです。」「愛すること」p245

自然に「世界平和の祈り」が想い浮かぶ人は、「永遠の生命」のある人です。神様を信じ、私たちの心に常に「世界平和の祈り」があれば、「永遠の生命」を得ているのです。

つらいことがあっても、救世主五井先生(神様)に救われて、
「永遠の命」を得ていることを噛みしめましょう。「永遠の命」を得ることは、この世のすべての栄華を得ることよりも遙かに大きいのです。嫌なことがあっても、愚痴をこぼすのではなく、救われて「永遠の命」を得ていることを思い、五井先生(神様)を賛美しましょう。

世界平和の祈り

救世主五井先生を信じることにより
神様の命「永遠の命」があることを賛美しましょう。
「神様(五井先生)有難うございます。」

すべての人を神様は救おうとされています。
「世界人類が平和でありますように」 と神様と伴に祈りましょう。



B.G.M.の解説

モーツアルト 聖歌「いと喜ばしき宴」

ソプラノ エリー・アメリンク





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