主イエスと五井先生

主イエスと五井先生

世に自らを悟った宗教家と名乗る人は多いが、主イエスと同じような生涯を送られた宗教家は殆どいない。五井先生は、主イエスと同じような生涯を送られた、まれな宗教家あった。主イエスや五井先生の生涯を思うと涙を禁じ得ない時がある。ここでは、主イエスと五井先生の救世主としての共通点を挙げてみたい。

神(大神様)を現した人

主イエスは、神そのものを現した人であったことがヨハネ伝に記されている。

「わたしを信じる者は、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。」ヨハネ12.44 

五井先生も、自らが神(大神様)を現していることを、繰り返し仰っていた。

「この肉体を使っている大神様は無限の光明力だから、先生と呼ぶところにはどこえでも現れる。だから皆さんが救って下さい、と言っている時には、白髪の長い髭のおじいさんが現れると思っているといいですよ。」

受難の人

主イエスは、人類の罪業を背負って十字架にかかったが、五井先生も昭和50年代の頃から人類の罪業を身に受けて、苦しみ耐えておられたが、昭和55年についに帰天された。五井先生の随筆によると、昭和50年代の頃から聖が丘のc修庵(いくしゅうあん)にこもられて苦しみに耐えておいでであった。日曜日は、統一会があるので、不思議に痛みがなくなり出席が出来るのであった。そのころのご様子をある信者さんの文章で紹介したい。

いつの頃のことだったかは覚えていませんが、偶々伺ったある日の統一会でのことです。
五井先生が最後の統一指導でお出ましになられる時、聖壇の椅子まで歩かれるその五井先生の足許が大変覚束ない様子だったことがとても印象に残りました
。(その時は私も「あゝ大変なんだなぁ」と思っただけでしたが、五井先生は当時すでにc〔いく〕修庵から聖壇まで担架で運ばれて来ていたようです。) そしてその数ヶ月後に私がお山に伺った時には、五井先生がお出ましになられる直前に聖壇にカーテンが閉められるようになっていたのです。

なお後日法友から聞いたところでは、これは私がお山に伺っていない時期のことですが、その時は二人の青年に両脇を抱えられて五井先生がご登壇になられたとのことでした。そのような五井先生のお姿を一般会員にお見せするのは心苦しいというので、会の判断で五井先生のご登壇前に聖壇のカーテンを閉めるようになったのでしょう。そしてそれ以後、五井先生が聖壇上の椅子に着かれると聖壇のカーテンが開かれるようになったのでした。

これは、五井先生の随筆を読めば分かるが、いわゆる病気ではなく、人類の罪業を身に受けて浄めておられたのであった。それが、あまりにも多くの人類的な規模の罪業であったので身の苦しみが伴うのであった。

人間の罪業を背負う救世主であることを言明される

主イエスは、人間の罪業を身代わりに背負う救世主であることを言明された。

「そして、ちょうどモーゼが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければいけない。それは、彼を信じる者がすべて永遠の命を得るためである。」
ヨハネ3.14

五井先生も、人間の罪業をかぶり、人を救うことを宣言されている。

「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は
大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、
と言う時には宝蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば
私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって悟れないことに
なりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、
と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百何千何万十万という業を
全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた
、ということと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、
ということと同じことなのです。

多くの病人を癒される

主イエスが多くの病人を癒されたことは、新約聖書に出ている。五井先生も、一日300人にも上る人の個人指導を行い、現代医学では直らないような難病を沢山癒された。

事業には繁栄の指針を与え、家庭には光明生活を、結婚には幸福な相手を、
各人に適職を、病める人には健康を、という風に、
転禍為福の実例は枚挙にいとまがないほどであった。

五井先生のもとに来る人は、たいてい悩みがあって来るが、先生の教えをふれていると
心配がなくなり、知らないうちに慢性病が治る、悪い癖が出なくなる、性格が明るくなる、
人助けがしたくなる、必要に応じて必要なものが出てくる、物質的に恵まれてくる、
若々しくなる・・・という風に、現実的に万事整ってきて、知らず識らずの内に、安心立命が
得られるのであった。

五井先生の名声は広く東京に伝わり、各地の公会堂や、商工会議所といったところで
講演や統一会を開かれる。さらに、全国に伝わり、他県でも支部が出来て出張されることも
多くなる。神の招きで伊勢神宮や熊野や富士に行かれることもあった。
お弟子さんも多くなり、財界や政界、文化界にも慕う方が多く、戦後の日本の
精神的な支柱となられた方であった。

主イエスは何故輪廻転生を説かなかったのか

当時は、人間が生まれ変わりすることは常識であった。そのため、盲人やハンセン氏病の人は差別的な待遇を受けていた。主イエスは、盲人の目を開け、ハンセン氏病の人を癒し、神の栄光を説き、本人や親の罪を否定された。人間を救うのに過去世はまったく必要ないからである。返って、過去世が人間の差別の原因になっていたため、輪廻転生を一切説かなかった。

五井先生は何故輪廻転生を説いたのか

現代は、唯物論が横行し、神も仏もあるものか、という人が余りにも多いため、人間の運命を説明するために、あえて過去世を説き、神が人を一切差別しないことを力説しなければならなかった。しかし、人の救いには、過去世にこだわってはいけないと述べておられる。

「神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているんだ。しかも守護霊さんに守られながら生きているんだ。過去はない。過去は消えてゆく。どんな苦しみも必ず消えてゆくんだ、と過去の心の誤りなぞ穿り返さずに、ただただ、光明の方に心を向けていることが、自分を救い、人を救う、一番大切なことなのである。」

主イエスや五井先生を信じれば永遠の命を得る

主イエスは、彼を信じる者が永遠の命(神の命)をもつことを繰り返し説いている。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16 

「私は、道であり、真理であり、命である」
ヨハネ14.6

五井先生も、信じる者に永遠の命を得ることを約束されている。

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」


主イエス、五井先生を信じれば、罪業はすべて消して頂いて、天国(神界)へ連れて行ってくださる

自分がいかに善人であると思っていても、一点の罪業があるならば、天の御国(神界)には、往くことは出来ない。何故なら、一点の罪業があっても、天国(神界)に入ることは不可能だからである。しかし、如何なる罪業があっても、主イエスや五井先生、阿弥陀仏に帰依すれば、その人の罪業はすべて消され、すでに天の御国の継承者なのである。

親鸞
上人の次の言葉を噛みしめなければいけない。

「そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがえして、他力を頼み奉れば、真実報土の往生をとぐるなり。」

神仏から賜(たまわ)る信心

主イエス、阿弥陀仏、五井先生を信じている人は、すでに救われ永遠の命を得ている。今どんなに煩悩に悩んでいても、すべて、主イエス、阿弥陀仏、五井先生が、消して下さるからである。今の苦しみは、魂の体験を深めるために、学習しているのである。学習が終われば、必ず消えてゆく。

今どんなにつらくても、救われていて天国の民であることを信じよう。業想念が、信じることを妨害するので、自分で悟ろうとせず、他力に徹して、有難く五井先生から救いを受け取れば
いいのである。自分で悟ろうとしても業想念の力に負けてしまう。他力に徹して、素直にみ仏から救いを賜るだけでいいのだ。救ってあげるよ、という神仏の愛に、有難うございます、といって救いを頂けばいいのである。それ以外何も考えることはない。いつも有難うございます、といって感謝していればいいのである。

感謝行から


守護霊様、守護神様、五井先生
有難うございます

と感謝の祈りをしよう。

自らが救われるだけではなく、すべての人が救われるように

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように


と菩薩の祈りを捧げよう。
菩薩行をすることにより、神の御心が貴方に現れてきます。
その時、貴方は神の子であり、仏でもあるのだ。



救世主 五井先生の み心を 思うにつけて 袖をぬらしつ

有難き 五井先生の み言葉は すべてを救ふ 慈悲のお心

主イエスは 救はれたりと 言い給ふ 勇気を持ちて 生き抜けよとも




B.G.M.

ヘンデル「メサイア」


No.12の合唱「ひとりのみどり児が、私達のために生まれる」

   図1  羊飼いの礼拝  プッサン





                                                                ホームページ