私に荷物を預けなさい

煩悩具足の凡夫

「信仰とはそういうものです。汚れたままでいいのです。汚れたままで入れば、神様の方できれいに洗ってくれる。今までの宗教というのは余計なことをして、自分の力で自分のゴミを取って綺麗にしなければ、神様の前に出られないというのですよ。」「私に荷物を預けなさい」p197

五井先生のこのお言葉は、本当に有難いお言葉です。宗教というと清くあれとよく言いますが、本当に天に全く恥じない生き方をしている人が何人いるでしょうか。中には、境遇が恵まれて不満の全くない人がいて、公私とも順調な方がいるかもしれませんが、一転して不遇になると要求不満に悩まされることになります。地球人類の現実とはかくしたものです。ほとんどの人が煩悩具足の凡夫です。それをやっと繕って生きているわけです。また、清く生きようと思っても、現実の流れがそれを許してくれないこともおうおうにしてあります。

何故そのようなことになるのでしょうか。人間は本来神の子ですが、この地球上に生を受けると、地球を取り巻いている業想念に汚染されてしまい、それが業となり積もり積もって、思うように生きられないのです。また、業想念に翻弄されてとても神の子の姿を現しきれないのです。

では、人間はどうしたら本当の神の子の姿にもどることができるのでしょうか。それは、潜在意識に溜まっている業想念を浄めてしまわない限り、真の神の子に帰ることは出来ません。

それでは、人間はその厚く溜まっている業想念を自分でなくすことができるでしょうか。それが出来ていれば、地球はとっくの昔にユートピアになっていたでしょう。人類悠久数千年の歴史はそれが如何に困難であることを証明しています。

業想念の浄化

それでは、人間は救われないのでしょうか。五井先生は、自分で綺麗に出来なくても神様がきれいに洗って下さると仰っています。如何に汚れていても神様を信じれば、神様が浄めて下さるのです。これが救いでなくてなんでしょうか。

「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は
大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、
と言う時には法蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば
私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって悟れないことに
なりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、
と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百何千何万十万という業を
全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた
、ということと同じなのです。」
「私に荷物を預けなさい」p38

五井先生は、はっきりと人間の業を引き受け浄めて下さることを言明されています。五井先生を信じていれば、その人に最も都合のいい方法で消して下さいます。消えてゆく時に試練ののような形(消えてゆく姿)になることもありますが、それも、その人の魂の成長を期すためになされているのです。すべての労苦は魂が成長する教材として与えられているのです。実の処は、五井先生(守護の神霊)がすべて引き受けて下さっているのです。

「守護霊さんや守護神さんが、肉体の身代わりをして、原罪(業)をかぶって下さって、救ってくれるわけです。だから、守護霊様、守護神様有難うございます、というふうに祈るべきなんです。」「心貧しき者は幸いなり」p148

人生の光明化

五井先生(大守護神)を信じている人は、業が浄められてゆき、次第に人生は明るく幸福になっていきます。人生は必ず光明化します。

「いかなる困難な事態がその人の前に起ころうと、守護霊の守りを信じうる人は、必ず、その事態は
光明に転じます」
「神と人間」p56

「神様というものは、お願いしたたら、なんでも願い通りにして下さるというものではなく、神様の
大愛を信じて生活していれば、自然と、神と一体の心境になり、心身共に平安の境地になりうるのです。・・・
願わなくとも、神様のほうではその人に必要なものを、ご存知なので、いちいち細かいことを神様に
願わなくとも、自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っていれば、自分が思っている以上の
物事が与えられたりするものです。」
「運命を恐れるな」p226

永遠の生命

そして、臨終の時に五井先生の力によりすべての業は浄化され、真の神の子となり永遠の天の御国を継ぐことが出来るのです。

「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」「永遠のいのち」p132

信仰生活

五井先生の約束を信じて、希望の灯火を掲げて苦難を乗り越えてゆくのが信仰生活です。信仰は希望を生み出し、希望は感謝を生みだします。そして、五井先生の御名をほめ頌えてゆくのが信仰生活です。五井先生は、信仰があれば汚れたままでもかまわないと仰っています。何という慈しみの言葉でしょう。五井先生がすべて浄めて下さるのです。何と有難いことでしょうか。五井先生を信じ、御名をほめ頌えてゆくこと自体が救いなのです。

「どんな汚れた体でも汚れた心でも、神様!といえば神様がきれいに洗ってくれるような
そういう神様が必要なのです。
そういう神様が今現れている。それは何かというと、
救世の大光明として、世界平和の祈りとして現れている。その祈り言をすれば
お前がどんなに悪いことをしていても、どんな悪い想いがあっても、みんな綺麗にしてあげるから
この祈り一念でいきなさいよ、と言ってるんです。」
「私に荷物を預けなさい」p199


幸福行きの船

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた、私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」
「魂が大きく開く時」P77

五井先生は、この世から彼の世界まで引き受けると約束して下さっています。この世でも彼の世界でも幸福になることが決まっています。吾々はすでに「幸福行きの船」に乗せて頂いています。悩みや苦しみがあってもいずれは消えて無くなり人生は必ず光明化します。「幸福行きの船」に乗っているのですからすでに救われています。そのことをよくよく思い感謝の日々を送りたいと思います。

日々瞬々が最善

悩んでいても、苦しいことがあっても、それは消えてゆく姿で業が消えていっているのです。つまり善くなっているのです。神は絶対者であり大愛です。ですから神を信じる人間を不幸にするはずがないのです。辛いことがあっても、それが自分の魂の成長に必要だから与えられたのです。自分たちに起こるすべての現象は、その本質を見れば最善に動いているのです。神を信じる人には、人を不幸にするような宿命はありません。どんな出来事も大きな目で見れば必ずよき方向に導かれていく摂理しかありません。日々瞬々は常に最善なのです。だから安心して感謝していればよいのです。有難いことだと思います。

「どんな災難や病気や障りがこようと、自分の魂を守護霊さんが強くしようと訓練されているのだ、と思い定めることです」「五井昌久講話集1」p78

「病気、不幸、すべて悪い事態が起こっても、すべてはよい方向に進んでいるのだ、と絶対に想えるようにならなければなりません」
「五井昌久講話集1」p22

法然上人のみ心

「平家物語」に次のようなことが語られています。平重衡(たいらのしげひら)は、父清盛の命で南都の東大寺、興福寺を攻撃炎上させます。重衡の行為は仏をも畏れぬ悪業として当時の人々に「仏敵」として怒号されます。重衡は、「一ノ谷の合戦」で生け捕りにされ都大路をひきまわされ関東の頼朝の元に送られることになります。重衡は死ぬ前に黒谷の法然上人にお会いしたいと申し出ます。重衡は法然上人に「私の悪業は須弥山(しゅみせん)より高く、善行は何もありません、一体死んだら如何なる世界へゆくのでしょうか。」と泣きながら訴えた重衡に、上人も泣きながら「どんな十悪五逆を犯した者でも阿弥陀如来の大慈悲を信ずれば罪障は滅消され、浄土に往生できます」とお答えになりました。法然上人のお心は五井先生のお心と変わりないと思います。

「世界平和の祈り」

「神様有難うございます」 
五井先生の御名をほめ頌えて祈りましょう
「世界人類が平和でありますように」 すべての人が救われることを祈りましょう


うるはしき 守護の天使に つきそはれ 天の御国へ 帰りゆきなん

み仏の 憐れみ給ふ み心は 海より深く 山より高し

世間から 見捨てられたる 人の子を み仏のほか 誰が救はん

幸福の 救ひの船に 乗りたれば 天の御国へ 導き給ふ

救世主 五井先生の み心は すべてを赦す 神の愛なり



BGM サン=サーンス「交響曲イ長調」第2楽章

                            マーシーの夢     「天路歴程」

                                        



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