往相と還相

個人人類同時成道の祈り

世界平和の祈りは、神の御心の中へ入ることであり、また神我一体の祈りであるが故に、救われてゆく道です。個人が救われて行く道を往相といいます。また、世界平和の祈りは、世界のすべての人を救わんとする菩薩の祈りでもあります。多くの人を救う菩薩の道を還相(げんそう)といいます。

世界平和の祈りは、この往相と還相が同時に含まれている祈りであり、五井先生は個人人類同時成道の祈りと仰っています。ここでは、この往相と還相を五井先生のお言葉を頼りにして、もう少し具体的に捉えて行きたいと思います。

魂の救われ

まず、宗教の大きな目的の一つは、個人の魂の救われです。宗教は魂の救いを保証する道と言っても過言ではないぐらい重要なことになります。五井先生は自ら救世主であることを言明され、救世主五井先生を信じる者は必ず救うことを確言されました。

「五井先生」といえば神様につながる。つながれば必ず悪いところへはいかない。五井先生というのは、南無阿弥陀仏と同じですね。だから、それだけでもって救われるわけです。」「五井昌久講話集2」p9

「五井昌久という人が現れて、さあ私のことを思いなさい、そうすれば、あなたは救われるんです。五井先生と思いなさい。そうすれば、あなたは神界の本当の住居に行くわけです。」
「五井昌久講話集3」p41

「私を本当に信じて下さった方は、必ず成仏するのです。仏になることは解脱するという意味です。成仏までいかなくとも、要するに安らかに往きます。往くべき処に往き、往生します。」
「五井昌久講話集4」p7

また、主イエスの贖罪と同じく、五井先生は人間の罪業をすべて受けることを言明されました。五井先生を信じる者は、五井先生が身代わりに罪業をすべて被って受けて下さる故に、すべての罪業は消滅して、天の御国(神界)に往くことが出来るのです。五井先生がすべての業想念を処分して下さるが故に、私たちは安心して日々の道を歩むことが出来るのです。

「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、と言う時には法蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって悟れないことになりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百何千何万何十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。「私に荷物を預けなさい」p38

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんなもらってあげましょう、というんです。」「五井昌久講話集3」p12

五井先生を信じている方は「救いの船」に乗せられ間違いなく幸福の港に運ばれて行くわけですから、五井先生を信じた時に救われているわけです。一度船に乗れば、もはや救いから漏れることはありません。善悪、優劣などで差別されることはありません。自分の値で救われるのではありません。五井先生の恩寵で救われているのです。そして、五井先生の恩寵を妨げる悪はありません。どんな悪業も救いを妨げることは出来ません。

それを思うと「五井先生有難うございます」という祈りが自然に出て参ります。祈りは本来は、自力で成すものではなく、絶対的な他力の恩寵を信楽する時に自ずと出てくるものなのです。

小我から大我へ

個我が救われを願うのは小我の行為ですが、小我のままで止まっていたのでは往相だけで終わり、世の中をよくすることは出来ません。小我から大我に転換するにはどうしたらよいのでしょうか。難しいことではありません。五井先生に救われた喜びを報恩感謝に向き変えればよいのです。

宗教的な救いを得るとは、生きる根本が変わることです。自己中心であった生き方から、神様中心に生きること変わることです。神様に向かっていることが「救われる」ということです。神様に向かっていれば、最後は栄光に輝きます。その栄光を「永遠の生命」ということもあります。このように大きく人生が軌道修正されたことは計り知れない恩恵をもたらします。青空に向いた方に行けば晴れますが、雲の多い中を迷っていれば最後は雨に降られてしまいます。

そのような恩恵を思う時、有難い、神様にお返ししたいという気持が自然に起こってきます。その報恩感謝として、自分が救われたようにすべての人々が救われますようにという想いが湧いてきます。これは、人間の本体が菩薩であるので当然の想いなのです。そして無我の祈り、大我の祈り「世界人類が平和でありますように」をすかさず祈ればいいのです。この祈りは菩薩の祈りであり、還相の祈りです。人々を救いにゆく祈りです。

「世界人類が平和でありますように」という祈りが常に心にある人は菩薩です。煩悩具足の凡夫は、五井先生に救われたことを思うと有難くなって、この祈りが自然に出て来ますが、いつもいつも湧き上がって来るものではないと思います。これは将に精進で、繰り返しているうちに「感謝の祈り」から「菩薩の祈り」が出てくるものである思います。それは、とりもなおさず、小我の凡夫から大我の菩薩に発展する時かも知れません。あせってはいけないと思います。地道に積み重ねることが必要だと思います。

五井先生に救われていることを心から感謝しましょう

五井先生有難うございます

すべての人が救われますように菩薩の祈りを捧げましょう

世界人類が平和でありますように


救世主 五井先生の 本願を 信じる心 菩薩の心

罪とがを すべて被りて 罪障に 沈む吾らを 救ひ給はん

畏くも 救ひのみ船 なかりせば 苦海を如何に 渡るべきかな




BGMの解説

カンタータ「夜のしじまに」
(Nel silenzio comune)

                                プシケ         フラゴナール

                            



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