霊性の開発

浄土門的神道

五井先生は、自らの教えを浄土門的法華経とか浄土門的神道と言い方で述べられておられます。分かり易く説明すれば、浄土門的な他力行で、法華経的な仏、神道的な神を現していくということになります。法華経は、人間は本来仏なりを説いた教典であり、神道は神ながらの道を説いています。浄土門的な広き門から入り、神仏の姿を現して行くことを最終目的にしていると言ってもよいと思います。したがって、五井先生の言われる霊性開発も浄土門的神道もしくは、浄土門的法華経の道であると言うことが出来ると思います。ここでは、浄土門的な神道、法華経をキーワードに、霊性の開発の説明をしてみようと思います。

浄土門

五井先生の著書の中に、こんなことが書いてありました。五井先生は、神我一体になられた後、人々を救うために「念仏」を説こうと考えておりますと、直覚的に天から声がして「世界平和の祈り」を説くようにという神の声があった、と述べられています。つまり、「世界平和の祈り」は「念仏」の現代版ということになります。実際に「念仏」を「世界平和の祈り」と平行して説明されていることが多いですね。

念仏の神髄

本来人間は仏なのだからすでに救われている。しかし、人々は迷ってしまって、救われを自覚している人はまったくいない。だから、親鸞や一遍は、阿弥陀仏を本願を想い一念の念仏をした時点で、救われを自覚して浄土に往生できる、と説いたのです。後は救われたことを有難く思って、感謝の念仏をしていればよいということになります。「この世も感謝、あの世も感謝」これが念仏者の心がけであるわけです。ですから、もはや念仏の数などは問題にはならないわけです。一念の念仏で阿弥陀仏の本願にすくい取られてしまうからです。

しかも、煩悩をもったままで救って頂けるから、また有難いのです。弥陀の慈悲は、どんな罪業をもってしても汚すことは出来ない。本人がどんな悪人であろうと、阿弥陀仏を信じて念仏すれば、どんな罪業も赦されてしまうわけで、煩悩を
もったままで救われ、浄土に往生できると説いてあります。ですから、念仏の道で救われない者は誰もいないということになります。

五井先生は、著書「霊性の開発」の中で、霊性の開発の基本は、業想念に囚われないで、神仏を感謝をもって想い続けることである、と述べられています。まさに念仏行こそ理想的な霊性開発の法ということができると思います。

世界平和の祈り

念仏の精神を受け継ぎながら、念仏をこえる祈りとして、五井先生は「世界平和の祈り」を提唱されました。「世界平和の祈り」の神髄も「念仏」と同じです。

「世界平和の祈り」を一念唱えれば救世の大光明に救われると五井先生は述べておられます。

「阿弥陀如来の在り方は、世界平和の祈りのもつ救世の大光明と同じであって、
ただ一念の祈り言でその人は必ず救われるのです。人類を救おうとしての出現が救世の
大光明であり、その救われの方法が世界平和の祈り言であるからです。」

ですから、正しくは、「世界平和の祈り」は感謝の祈りなのですね。ですから、救世主である「守護霊・守護神・五井先生ありがとうございます」という感謝の祈りがあるわけです。それに、神の御心である「世界人類が平和でありますように」が含められていて、神を想う祈りが主になっています。念仏で仏を想うのではなく、世界人類の救済を祈る形で、神仏の御心を想う祈りになっているわけです。

しかも、どんな煩悩があっても、それを「世界平和の祈り」の中へ投げ入れば浄められるわけで、煩悩をもちながら救われてゆく祈りでもあります。

「あなたが世界平和の祈りをしよう、と思い立ったことで、もうすでに救われているのであり
救世の光明につながっているのであります。それは、あなたが肉体人間としての自己の力に
諦めをいだいた証としての祈りの世界への突入だからであります。もう貴方の信仰が浅いとか
薄いとかは問題外になっているのです。祈ろうと貴方が思った時には、すでに神の世界からの
光明が流れ入って来ているので、貴方はその時から業想念の世界の人ではないのです。」


天命を安んじて人事を尽くす

自分が救われているという安心感と感謝の想いの中で、人事を尽くすこと、これがこれが我々の、人生とということになるわけです。「天命を安んじて人事を尽くす」これは、五井先生のみ教えを信ずる人のすべての人生を言っている言葉です。それでは、「人事を尽くす」という言葉の意味をもう少し考えてみましょう。

五井先生は行を否定してない

行というと自力的に取られそうですが、宗教問答の中で、五井先生は、み教えを、信と行が結びついて、神仏の姿を現して行く道と答えられています。行の中心は「世界平和の祈り」であるとも述べておられます。「世界平和の祈り」は先ほどから述べておりますように、浄土門的な信仰と行が結びついている祈りで、それが神仏の姿を現していく道につながるわけです。

神仏の姿

神仏の姿を現すのは、冒頭で述べたように、法華経の道であり、神道の道であるといえます。
つまり、浄土門的な信仰と、「世界平和の祈り」の行により、法華経的な仏を、神道的な神を現していくということになるわけです。

「生きている念仏」に出てくる真宗の妙好人たちは、浄土門から入って、み仏の姿を現した人たちですね。
このように妙好人を多く出した真宗の教えが、いかに優れていたかを証明するものだと思います。

霊性の開発の目的

神仏の姿を現すのが、霊性の開発の最終目的です。人間の本体を悟り、それを顕現させて、神仏の姿を現すこと、これが五井先生のみ教えの最終目的でした。我々も、地球人類を救うために、目標を高く置かなければいけません。
しかし、人間の姿に神仏を現すのは容易なことではありません。

「我即神也」「人類即神也」の印

そこで、天から降ろされたのが印による神仏顕現の道だと思います。印は他力か、自力かという議論がなされていますが、どちらとも言うことが出来ますが、むしろ両者を超えた、人間の姿に神仏を現す「絶対力」であると思います。絶対力とは、他力から入っても自力から入っても、神の御心が自然に現れてくることを言います。法華経や神道は絶対力を説いて、神仏を出現させようとしたのです。しかし、これは極めて困難なことで、厳しい自力行を必要としましたが、真宗のような妙好人を沢山出すことは出来なかったようです。

浄土門的な「世界平和の祈り」の行の締めくくりに印が降ろされたと考えます。印は「世界平和の祈り」の浄土門的な行を積んだ人が、本体の神仏を現すために組むものだと考えます。何の宗教的な自覚のない人が、印を組んでも大したことは期待できないと思います。

霊性の開発の道のまとめ

浄土門的な「世界平和の祈り」の精神をよく学ぶ

「世界平和の祈り」と人間と真実の生き方を通して、感謝行と菩薩行を励行する

印を組んで、神我一体の修練をして、神仏の姿を顕現させてゆく

感謝して 平和の祈り 唱ふれば 自然法爾に 神の御心



B.G.M.

ヘンデル オルガン協奏曲第5番

         アルカディアの牧人          プッサン


 


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