霊性の開発

自由自在心について

人間は、瞬時といえども絶対神と一緒でない時はないのです。唯一絶対なるもの、神、大生命、その光明の流れにつながっていない人間という者は一人もいないのです。その大生命の中に、知恵も富も力も、すべてが<ある>のです。その智慧に力に富みにつながっていながら、それを知らず、あるいは頭脳で知っていても信仰せず、信行せず、他の世界から、知恵富を力を得ようとして狂奔してるのが現在の人間世界の姿なのであります。「霊性の開発」p8

本心の律動と業想念の波動

悟りということについて


肉体が発生してから、人類全体の前進より、自己自身の安楽、富貴を願う業想念が、本心を覆ってしまって、真実の人間のごとき顔をして、私が人間なのだ、私が人間の本心なのだ、というように、人類社会に宣言して歩き、唯物論的社会が構成されて行ったのです。p36

一般庶民を救うには、この弥陀の本願を教えるより他に方法はないと思いが定まったのです。・・・仏典という仏典を学び尽くして、もう日本では学ぶものがないという最後に、弥陀の本願を想い出したのです。もう右にも左にも想いが動かないのです。ぴたりと弥陀の本願、つまり南無阿弥陀仏に想いが集中したのです。その時から、法然の全身全霊は、南無阿弥陀仏になり切ってしまったのです。現代の言葉でいえば、神と我とは一体である、我は神の中にあると思いが定まったわけです。p42

親鸞は、自己の想念(心ではありません)は、悪いことばかり考え、迷ってばかりいてどうにもならないものだ、この想念が自分から離れ去らないうちは、到底悟道に入ることは出来ないと思って、自分は罪悪深重の凡夫であると、それまでの自分という者、悟ろうとする想念を駄目なものなりと捨離してしまい、師に見えたその日から南無阿弥陀仏一本に飛び込んでいったわけなのです。p42

肉体想念というものは、余程上根の者でない限り、自己の力で消し去りうるものではない。それより一度、そうした肉体想念をすべて離して、輪廻する想念はそのままめぐらして置いて、本心をそのまま阿弥陀仏と一つとしてしまうための念仏を、ひたすらつづけることを実行したわけです。こう致しますと、輪廻する業想念を少しも追いかけず、いつも阿弥陀仏の世界に自己の本心が一つになっているのですから、自然と、過去生からの宿業的業想念が消え去ってゆき、本心の光、阿弥陀仏の光明が自分の生活の光となってゆき、安心立命してあの世に旅立てるようになるのです。p45

法然、親鸞は、煩悩をなくせなどとはなどとは少しもいいません。私たちも貴君方もそうした肉体人間の感情想念においては、同じことなのだ。そのような想念はどうでもよい。怒ったら怒ったまま、泣いたら泣いたまま、ただひたすらに
南無阿弥陀仏と称名なさい。称名さえすれば、貴君方は極楽浄土に救われるのだと教えているのです。p44

片方の想念で、自分は駄目だとか俺は悟れたとか思っていても、片方の想念で南無阿弥陀仏と言っても、それは真実の称名にはなりません。真実の称名念仏は、駄目だも悟れたもありません。只ひたすら弥陀への全託の称名があるだけなのです。
法然や親鸞のように、自力の道を命がけで通って来た者には、この道理が実にはっきり分かっていたのですが、弟子の人たちや信徒の中にはこの道理がよく分からず、自力と他力を交ぜ合わせて、悟ろう救われようと思った人がかなりあったようです。
真に弥陀への全託の称名をなし得た人ならば、信から行へ、真実の道、仏の道を過ちなく踏み行っていったに違いありません。p46

潜在意識と本心の開発

「ああ、私は今過去生からの因縁を肉体と共に消し去って、神霊の守護の下に他の世界において新しい神の使命に入ってゆかれるのだ」というような感謝の想いで息を引き取ったとするならば、潜在意識は浄化され、その老人にとっては、それまでの辛酸労苦がすべて生かされて、他界または来世で神の栄光を如実に現すことの出来る立場に自己を置くことが出来るようになるのです」p58

今、悔い改めれば、もうその時、その人は救われたのです。何故ならば、その人は、それ以後は、潜在意識に悪を積み重ねないことになるからで、ある一定期間さえ堪え忍べば、善のみの世界、平安の環境を現すことが出来るからです。p59

今こそ、全人類が、自己の本心、生命の本源である神に、すべての想念を一度び返上して、神のみ心を、地上界に天降らせなければならない時なのです。そして私たち一人一人は、自分たちの守護霊、守護神の加護を念じ、感謝をなし、世界平和の祈りを祈りつづけながら、現れたるすべての想念行為を過てるものの消えてゆく姿と観じて、その想念行為に捉われぬように、突き放し、その想いを直ちに神の方に向きかえなければなりません。p66

人類を大調和せしめ、真の統一せしめるためには、まず人間の一人一人が、自己の業想念を神に返上して、改めて神の生命として、この世に生まれ更わらなければ、その目的を達成しえません。即ち、真の祈りをなさなければ、世界は救われることが出来ないのです。p75

神は人類を救済しようと、あらゆる手段で肉体人間に働きかけているのです。あの人を使い、この人を使い、ああもやりこうもやり、一瞬の休みなく働きつづけておられるのです。p77

自力行と他力行

自力なら自力で、道元の如く、白隠の如く、徹底的に座禅し思索し、苦行をしてでも本心を開発するか、そうでなければ、法然、親鸞の如く、絶対他力の道をゆくかにしなければ、人間は永劫に救われないし、人類世界に地上天国浄土を現すことは出来ないと思います。「霊性の開発」p.92

念仏をする場合は、自分が今までどのような行為をしていてもかまわぬ。今までその人の想念の如何ようなるも問題ではなく、一念込めて南無阿弥陀仏と称えれば、どのような者でも阿弥陀様は救って下さるのだというのであって、自分の修行は救われには何ら関係ないものであり、ただ称名念仏さえすれば必ず救われるという信仰さえあればよいのです。p86

神仏と人間とが光一筋なのもの、一体の者であることが根本理念としてなければ、絶対的な救われはありませんし、神仏に自己の全部をお任せする絶対他力には成り得ません。p90

神仏の光が、肉体人間の世界に直通して流れてくるところを、過去生からの誤った業想念が遮っているだけなのです。ところがその業想念を払う役目として、守護神、守護霊が、絶対神の分かれ、あるいは祖先の悟った守護の光明として、私たち肉体人間を間断なく守護しているのであります。p92

如何なる悪や不幸や誤った想念が現れても、その想念に把われぬように、把われそうになる想いを守護の神霊への感謝にむけかえるように教えているのであります。そしてその想いを、自分だけの救われから、世界平和の祈りにまで高め上げているのです。p93

悪業と言い、悪因縁というものが、人間の心から発生して、神仏と対抗して人間世界に厳然と在るものという観念でいる限りは、自分で一生懸命業因縁の所業を押さえつけながら、神仏に祈念しなければ、神仏に救いとってもらうわけにはいかないということになってしまいます。
もう一度言い換えますと、人間が、自分や他人の想念行為の中に、自分そのものその人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には永遠に到達出来ないのであります。
法然、親鸞の教えもそこのところに重点が置かれてあったのであって、肉体人間の一切の想念に関係なく、一念の念仏によって弥陀の浄土に往かれるのだといっているのでありまして、お前は今まであのような行いをしていたから、その行為を改めぬ限り、いくら念仏を言っても阿弥陀様は救ってくれぬとなどとは言っておりません。p90


霊性開発について

如何なる業(カルマ)も、神の意志一つで自由に消し去りうるということになりませんと、神の絶対性、無限者、全能者という原理が成り立ちませんし、人間神の子であるという安心感も得られません。

人間は神の子であり、霊性である。だからその霊性を明らかに発顕して、生命そのままに生きてゆけば、神一元の生活がそこに打ち開かれていって、無明(業)はいつか消え去ってゆくのであるということが真理でなければ、宗教という生命は失われてしまいます。p100

人間は生命において同一であると知るものが、どうして他の人間を傷つけ損ねてまで、自己や自己の所属する団体のみの幸福を願ったり、他者の上位に位しようと思ったり出来るでしょうか。この世における個々人及び世界各国の生き方を眺めるとき、真実生命同一観をもって生きている人があまりにも少ないのに驚かざるを得ないのです。p102

大霊であり大生命である神と、分霊であり小生命である神の子人間のつながりを知らない為政者や指導者層に世界の実権を握らせている現在の姿が、どうしても一度は大転回して、神の御心をはっきり知った人々による世界の運行が始まらなければ、如何なる妥協策も、威嚇策も、平和論も世界人類を救うわけにはゆかないのです。p102

これまでの宗教者は、自己の力で業想念を超えることを勧めていますが、私はそうした方法をとらず、徹頭徹尾神のみを想うことを勧めているのであります。そして自己の想念として表面に現れてくる、自己を傷つけ、他を損ねる様々な想いを消えてゆく姿として放して、ただひたすら神の御名のみを心の内で呼ばしめる方法をとっているのです。p103

罪の子という教えは、肉体人間にまつわるものであって、本来性の霊性とは関係ないものなのでありますから、肉体人間は駄目なものであることをはっきりさせるためにいう言葉であって、ひたすら神にすがろうとする人々に対していう言葉ではないのです。p104

煩悩即菩提について

煩悩即菩提という意味、思い悩むことや、不幸や病気になったりすることが、そのまま悟りの道(菩提)に直通しているのだ、神の子の本体を開顕することなどだという事実を知らない限りは、個人も人類も、真実の救われには入り得ないし、神のみ心をはっきり知ることはできないのであります。p109

業想念が、自己の神の子であり自由自在身であることを否定して、そこに不自由な人間をつくりあげてしまったのであります。自己の神の子であることを否定し、人間の自由自在性も否定する想念がなければ、この人間は、この肉の身のままで、神の子そのままの自由自在な世界をこの地上界につくりあげることが出来るのですが、自分の本体(神の子)を否定しつづけているばっかりに、いつまでも人間は幸福にならないのであります。p112

業想念をいつまでも掴んでいる以上は、その人は救われの道に入ることはできません。業想念はすべて消え去ってゆくものと言う
真理があって、初めてその人は菩提、つまり本心の開発が出来てくるのです。p114

本心を輝かしていると言うことはどのようなことであるかと言いますと、神仏の御心をその人の想念行動に現していることなのであります。神仏の御心はどのような心であるかと申しますと、愛と真実な心、美しい心であります。・・・暗いじめじめした心、恨みや妬みや虚栄にみちた心などは、業想念の心であって、消えてゆく方であります。p115

人間は本来神の子であるのだから、救われるも救われぬもない。初めから救われている者であり、立派な存在者なのであります。p116

自分の想念行為をいいかげんにごまかしていては、自己の本心(神性)と業想念との区別がつかず、いつまでも神のも心につながることが出来ません。p121

自分自身が肉体の頭脳でいくら考えつづけても、自己の本体も、神の存在も、真実の幸福生活も分かるわけがないのであります。自己の肉体智(業想念)を一度空っぽにして、自己の生命の本源(神)にすべてを一任する気にならぬ限りは、超越的な難行苦行でもしなければ、自己の本体も真実の幸福生活も分かり得る筈がないのです。p121

全託への道

肉体人間の大半は、神の光を内にもちながら、カルマの厚い殻でその周りを覆いつくされていて、内部の神の光が容易なことでは外部に光り出ないものなのであります。p123

個人を救い世界を救う者は、神の絶対性、神の全能性、神の大愛を全く信じ、神への全託の道を突き進んでいる宗教者でなければならないと思うのであります。この宗教者という意味は、何も宗教専門家という意味ではなく、神への全託の道を往く者の全てを含んでいるのです。p126

言霊というのは、文字や音声にいずる言葉以前の響きのことであり、いちいち何々の神と言うように文字や言葉に出さなくても、想念の中で救世の大光明を想い、守護神様と感謝すれば、神の大愛への感謝となるのであります。p128

守護霊、守護神という名は、個人や人類を業想念を浄めつづけ、消していて下さる救済の神霊の意味でありますから、この守護の援助なくしては、私共業想念(カルマ)に覆われた、いわゆる罪悪深重の凡夫、罪の子人間単独では、とても世界平和の祈りの中、大神の御心の中には飛び上がれないのであります。言い換えれば、自己内部の神性の中にも、宇宙神の中にも、業想念の邪魔があって、なかなか飛び込めないのが、肉体人間の悲劇であったのです。p132

イエスは十字架に自らの肉体をかけて、キリスト(真理)を発現し、自分が人類の原罪を背負ってこの通り肉体を捧げたから、すべての人間は、イエスの名を呼びさえすれば、神の国へつれていくといって、自らが守護神(救世主)として、それまでの人間の罪の子の観念を浄め去ろうとしたのであります。p132

人々が、イエスの御名を呼ぶとき、その人々がイエスが救世主であると信じた場合は、その人はすでに自己が肉体人間であるという立場を離れて、その霊性によってキリストに結ばれてしまうから、その人は救われるのであります。その原理と同じことを私は現在説いているのであります。p132
それが、世界平和の祈りなのであります。イエスの御名はすなわち守護霊、守護神であります。仏教的に言いかえれば、守護霊、守護神は阿弥陀様でもあります。
このように説かねばならぬのも、現代の人々が自己の霊性(神性)であることをあまり知っておられないので、知らず知らずのうちに、自己が肉体人間ではなくして霊なるものであることを知らせん為なのであります。p133

旧約聖書のいう原罪や、浄土真宗のいう罪悪深重の凡夫という説と同じように、肉体人間観ではとても駄目なのだと、一度肉体人間は駄目なものなりと捨てきった時から、人間は神性を発揮してくるのだと言うことなのであります。p130

真正面から神へ全託せよと言うのでは、なかなか全託出来得ぬ人でも、恨みの想いのままでよい、妬みの思いのままでよい、不満不足の想いのままでよい、そうした想いにわきあがった時にこそ、世界平和の祈りをなさいなさいと言われると、いつかしらそうした気になり、初めは不承不承にやっている人も、世界人類が平和でありますようにという人類共通の願いの言葉に同感して、いつのまにか本式の祈りをするようになってしまうのです。
ですから言葉で神に全託しなさいというよりは、何気なく世界平和の祈りを行じていくほうが、神への全託の道を突き進んでいくような結果になり、業想念の波がいつしか神の光明のひびきに変化してゆき、その人の心が安心立命してゆき、その人が平和な心境になってゆく現象が起こってくるのであります。p133

愛行について

人間は、神の生命の働きを自己自身が自由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に造り得る存在者なのであり、本来神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持った神の子なのであります。ですから、人間自身が欲するならば、神のみ心の内奥までも探り得るし、神と一なる心境にまで到達でき得る物なのですが、現在ではそうした心境まで到達した人々はごくわずかでありまして、大半は神と動物、自由者と被造物との混合者としてこの世に生きているのであります。p137

愛という言葉を行為にする場合には、絶対に敵があってはいけません。敵を認めてはいけません。それは甘っちょろい言葉ではなく、神のみ心であり、真理の言葉ですから、その道を突き進んでいて、国家のためにならぬことは絶対にないのです。何故ならば、国家も民族も神のみ心により、その存在が保証されているからです。p141

今日までのいかなる聖なる教えも、肉体人間が考え出してる教えではないのです。すべては救世の大光明から発せられ、肉体人間はその器となって、この世に広められたのであります。p145

肉体人間としては、誰も彼もが五十歩百歩でありまして、肉体人間が偉いのも偉くないのもないのです。浄土門の聖法然は、「わしのいう南無阿弥陀仏も、弟子のいう南無阿弥陀仏も、その効果は同じである」と誰かの問に対して答えておられましたが、全くその通りでありまして、そうした肉体人間の偉さなど比べてみる必要はないのであります。p145

肉体人間としての偉さを比べてみているようですと、いつまでたっても空の境地になりませんし、真実の愛行も出来にくいのです。自分が高いも、他人が低いもない。そうした比較する想念は消えてゆく姿であって、ただあるのは、神のみ心の愛念だけなのです。p.145

運命の修正と守護の神霊

運命は一応は定まっているが、神のみ光によって変化せしめられたということになります。この神の慈愛による運命の変化は、運命の修正といえるわけで、肉体人間以外の力が働きかけて、その人の定まった運命を修正して下さったのだという結論になるのです。私の経験では、人間が肉体人間的な生き方だけを生きてる場合には、言い換えれば、業生の人間として業生世界の波の中だけで生活している限りは、運命は変わらないが、守護の神霊につながる想念行為をすれば、その運命は善い方向に修正され得るものだということを確言できるのです。p.156

才能も人格も、すべて前の世からの続きであるのですが、そうした業生の縁念因果の波を超越した神霊世界に常に自己の心の波を合わせていると、神霊の力がその人に作用して、今までなかった才能が急に現れたり、人格が自然に高くなったりしてくるのです。これは明らかなる運命の修正であって、その人が業生の壁を突き破って、守護霊、守護神の力によって、自分の本心の力をそこに発揮し得たということになるのです。そういう人は、世界平和を祈る会には、随分いるのですから、科学的な実証であるわけです。p.156

人間は肉体人間としての人間だけではなくて、分霊魂としての自分と守護の神霊とが一つになった時に、神の子的本来の人格となり、神の子能力も発揮できるので、常に守護の神霊への感謝行をつづけることが必要なのです。p.157

運命というものは、自己の想念行為でつくるもので、他の何人がつくるものではありません。ところが運命は自己がつくるということを、肉体人間の自分だけと思って行為しますと、相手を押しのけても、自己の利益を得ようというような、さもしい、愛にはずれた行いになってしまうのです。運命は自己の想念行為がつくったのだということは、どんな不運や不幸な、嫌な環境が現れても、それを人のせいにしたり、他を恨んだりするものではないということなのです。p.158

そこで私は、一度そうした人間観(業生)から離れて、すべての生命の本源である大生命(神)の方に想いを向けた生活にみんなが心を転じて、人間本来の神の子的な生活にかえれといっているのであります。ただ、そういっても方法がなくてはできないので、消えてゆく姿と世界平和の祈りという、祈り一念を提唱しているので、それによって、安心立命出来うる人が多くでてきているのです。p.162

安心立命について

神との一体観によらない自信とか安心とかいうものは、立命したものでも決定したものでもない、消えてゆく姿的の自信であり安心なのであります。p.165

いかに道理にかなったことで、その道を進むことが善いにきまっていても、その人の因縁やその人の心境によっては、どうしても短時日にはその道に踏み入れない場合がたくさんあるのであります。そうする方が善いと思っていてもできないことが、この世の中には数え切ぬほどあるのですが、あまりにも自己の信じる道に忠実なる指導者は、相手かまわず自己の信じる通りを早急にやらせようとするのです。これは宗教家の場合には特にはなはだしいのです。p.166

芸術やスポーツの指導者は、順序を踏んだ方法で指導してゆくのですが、宗教者はあまりにも個人の心を状態を無視した一般的な道理に乗せた指導をしているようで、個性のない変な型にはまった、いわゆるくさい人間を多く造りだしているようであります。p.167

人間はこうしてこの地球界の業想念波動の中、迷いの中に生活しているように見えますけれど、いつも本体は、神の世界、完全なる世界で光輝いているものなのです。それは、私自身体験として知っているのです。ですから皆さんもいかなる不幸や悩みがありましても、自分を責めたり、人を裁いたりせずに一直線に神様のふところに飛び込んでゆけばよいのであります。その一番容易なる方法が世界平和の祈りなのです。p172

人類の想いが守護の神霊のみ心と一つになれば、この地球界を蔽っている業想念はたちまち消滅して、光明世界が現れてくるのであります。その先駆はまず宗教者がやらなければなりません。各宗派の教義の違いなど、今の時代には枝葉末節なつまらないことです。どうでもよいことです。p.175

世界平和の祈りこそ、自己の安心立命の道であると同時に、世界人類を神の光明と一つにつなぐ偉大な祈りの方法なのであります。その事実をよくつきとめるために、皆さんも世界平和一念の日常生活をお送り下さい。p176

宗教の本質と日本の在り方


現代の人類は全く逆立ちして歩いているのです。それは肉体人間というものを、最も能力のあるように考えていて、神だの仏だの霊だのというものを、ほんの肉体人間の思想の一部の存在としてか考えていないことであります。これは全く顛倒妄想でありまして、神がすべてのすべてであり、人間というのは神の分生命であり、霊が主なる存在者であって、肉体とは霊魂の入れ物に過ぎないのです。p.184

私は、はじめから肉体人間の自己は凡愚なりと親鸞式に捨て切ってしまって、全想念を神に返上し、神のみ心の方から生まれ更って、世界平和の祈りの使徒として働かされているのですから、その場のがれの政治政策には何の関心も持たないのです。それは私の使命の他のことであるからです。・・・そんな無責任なことをいってと怒る人たちがいるかもしれませんが、その方々はその方々で、自己の信ずる道を自己の役目を果たしつつ進んでゆけばよいのです。そういう役目に生まれた人々も多数あるわけですから、その人々はそれでよいのです。p.186



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