神は決して裁かない

宗教的誤解

五井先生は、神は愛そのものであり、人間を救おうとなさっているが、決して人間を裁いて罰を与えることはしないとはっきりと説いておられます。神が人間を裁くというのは宗教的な誤解なのです。

「私は神の愛を、私の肉体を通して、優しく分かりやすく、人間世界に伝えようとしている者であります。神は愛なのです。神は慈愛なのです。人間を救おう救おうとなさっていて、決して罰しようとは思っていらっしゃらないのです。それを誤った人が神の罰を説いたり、心の欠陥ばかりを責め裁いたりして宗教を求める善人を、狭い窮屈な善人にしてしまい、気の強い人をして、宗教の門、神の門から閉め出してしまっているのです。」「武産合気」p24

「神様が罰をあてるのではない。自分が自分に勝手に罰を当てているんですよ。神様は救う方だけなのです。救いたいばっかりですよ。」「五井昌久講話集4」p155

「神様というのは、あくまで人間を救おうと思っている。人間を赦そうと思っている。人間の原罪をほどこうと思っている。罪の観念というものをなくそうとおもっている。イエスさんが十字架にかかったのは、人類の原罪を身代わりに背負ったことなのです。私がみんなの代わりになって原罪を背負ったんだから、あなた方は罪の観念を捨てなさい。罪汚れは私が引き受けたんだから、あなた方は、私の名を呼べば助けてあげる。といって十字架にかかったんです。」
「五井昌久講話集4」p158

「本心(人間の本体である神のみ心)はただ照り続けているのであり、本心そのものが、業想念をつかんでそれを責め裁いたり、痛めつけたりすることは絶対にないのです。・・・悪や不幸の想念が現れた時、心が痛んだり悩んだりするのは、業想念が消えてゆく時に、自ずから痛み悩むのであります。そしてある時間経過すれば、太陽の前を過ぎゆく叢雲のごとく、いつしか消え去ってしまうのです。」「宗教問答正編」p159

「悪い悪いと思ったとて、出来ないものは仕方がないではありませんか。仕方のないものにつかまって、嘆いたり、悲観したりしたとて、自己の生きる力を消滅させてしまっては、それこそ神への最大のマイナスになるのです。・・・枝葉末節の善悪にとらわれず、生命を明るく生かしきり、生ききってゆくこと、まず自己の心の調和を計ってゆくことこそ、人生の第一歩であるのです」「宗教問答続編」p149

「卑下(自己をひどく裁くこと)せんとする意(おもい)は業想念であり、卑下される想いも業想念であって、その心の底には神のみ心が、常に明るく素直に照らし続けているのであり、それが人間の内にあって本心として輝いているのであります。」「宗教問答正編」p159

裁き罰するのは人間のすることです。キリスト教で最期の審判で全人類が裁かれるといのは、主イエスの本心ではないと考えています。(福音書は当時の教会の手が加えられています。ヨハネによる福音書には、そのようなことは書かれていません。)キリストの再臨があるとすれば、それは、人類のすべてが神の子であることに目覚める日であると、五井先生は説いておられます。

「真理に目覚めて、今まで神の子であった、ということを自覚する。それが復活、再臨なのです。」「心貧しき者は幸いなり」p121

神(五井先生)は、愛そのものですから、常に人間を救おうとして待っていて下さいます。神の愛を受け入れた人は、「永遠の生命」を得ているので、救われています。どんな罪業があってもすべて赦され救われています。神の愛と救いを妨げるような罪業はありません。ただし、神の愛を受け入れなければ救われません。何故なら、神を受け入れることにより初めて神と魂がつながるからです。神と見えないパイプでつながれば、永遠の生命を受け継ぎ、神の力で浄められていきます。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16

「五井昌久という人が現れて、さあ私のことを思いなさい、そうすれば、あなたは救われるんです。五井先生と思いなさい。そうすれば、あなたは神界の本当の住居に行くわけです。」「五井昌久講話集3」p41

「だから私にあって、私の教えがいいという自覚が出来た時は、もう救われているのです。」
「五井昌久講話集5」p160

魂の救い

神(五井先生、主イエス、阿弥陀如来)を信じることによって魂がつながると、魂が浄められていきます。人間を苦しめている業が消えてゆくわけですから、次第に幸せになっていきます。そして、人生は光明化していきます。さらに、臨終の時(救霊の一番大切な時)に神様(五井先生)が、すべての業を浄めて光輝く神の子になり、天の御国へ帰ることが出来ます。これは五井先生の堅い約束です。つまり、神を信じれば、この世も彼の世も幸福になれるからこそ救われているのです。神を信じるとは天国行きの列車に乗るようなものなのです。幸福になりきるには、業が浄められてしまわなければいけませんが、神を信じた時点で、幸福になることは決定しています。ですから、神を信じた時点で救われているのです。「幸福行き」の列車に乗った時、「ああよかった」と大安心しますね。それが魂の救いなのです。

あなた方が世界平和の祈りに同感して、私たちの同士として祈りの行をつづけておられることそのものが、もう既にあなた方の救われを決定づけているものであり、あなた方の過去世における精進の賜であることを証明しているのでありますから、世界平和の祈りを素直になさっている方々は大安心してよいのです。
「宗教問答正編」p272

人間の本体は神の世界において、光明燦然たる光を放ち続けているのです。(永遠の生命があり五井先生の御名により救われている)ですから、真理の面から一言にしていえば、自己の人生を云々したり、過去世の因縁や今生の幸不幸にひっかかたりして、一気一憂しているのは、消え去ったもの、あるいは今現れて消え去ろうとしているものを、とらえ、追いかけるようなものであって、あまり智慧のある話ではないのであります。「宗教問答正編」p204

「この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りのをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。」「五井先生の教義」

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念でやりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。どうぞそのつもりで。」「魂が大きく開く時」p77

「守護霊は、その子孫の将来に起こる出来事をよく知っていて、その子孫の運命を幸福へ幸福へ導こうとしている。」「神と人間」p44

「神と人間について私の言うことを、そのまま素直に実行して下されば、その人が幸福になるのは間違いない。その点、私は、難しい行を少しも説かず、すぐその場で実行に移せる祈りや行いを書いているのである。」「神と人間」p99

「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」「永遠のいのち」p132

不幸災難

神を信じていても、不幸災難は起こります。何故でしょうか。決して神が人間を裁いて罰を与えているのではありません。このような考えは宗教的な誤解で、真の神を知らない人のいう言葉です。神は愛そのものですから、人間を処罰するようなことはありません。

人間の祖先が初めてこの地球上に立った時、人間は神と一体の生活をしていました。その時には業はありませんでした。ところが、地上に長くいるうちに、魂は神より物質に関心をもつようになり、神の御心を離れて、物質的な欲望に動かされるようになります。そして神との一体感は失われてしまいます。人間はどんどん神の御心を離れてゆき、自我欲望でしか生きることしか出来なくなってしまいます。神に反した想いや行為は業として潜在意識に溜まって行きます。人間の潜在意識は業で占められるようになります。そこで神は人間を救うために守護の神霊を派遣して、潜在意識に溜まった業を浄めていきました。

業が浄められ消える時に、人間にとって不都合な現象が現れるのです。このようにして業は消えてゆきます。その不都合な現象が不幸災難であるわけです。ですから、不幸災難は人間が積んだ業の報いともいえることが出来ます。自業自得なのです。

神は人間の魂から業を浄めて、本来の神の子に戻そうとされています。その時に不都合な不幸災難という現象に見舞われるわけです。しかし、それに耐えていれば、何れは業はなくなり、神の子の姿に戻ることが出来ます。ですから、不幸災難は人間の身から出たサビですが、サビを落としきれば、光り輝く神の子の姿に戻ることが出来ます。見方を変えれば、不幸災難は、神が人間に与えた試練であり、その試練を乗り切ることにより、光り輝く神の子に変えられていくのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

信仰生活

神の愛を受け入れる時、人間と神はつながり救われます。そして業は浄められていきますが、不幸災難という試練を通して人間は神の子の姿に変えられていきます。自分に不都合なことがあっても、それは業(悪縁)が消えていっているのですから、幸福になる希望を掲げて、堪え忍ぶ勇気が必要です。そして、業が減少するに従い、人生は光明化していきます。必ず幸福になれるのです。それはただ時間の問題だけなのです。神を信じている人は、幸福行きの列車に乗っているのと同じです。途中を耐えればいいだけなのです。

神の愛により救われていることをいつも感謝しましょう。どんな苦難にあっても神の救いを信じましょう。人生は必ず光明化します。そして天の御国に昇って行くことが出来ます。これは五井先生の堅い堅い約束です。どんな苦難に遭っても、あるいはどんな失敗をしても、たとえどんな罪悪感にとらわれていても、神の愛によりすべて赦されており救われています。日々瞬々が救われています。どんな悪業も神の救いを妨げることは出来ません。神は我が子を受け入れ抱きしめることしか考えておられません。神の限りない愛を信じ、日々瞬々救われていることに感謝出来る人は天国の住人なのです。

神様有難うございます 人間を愛し救って下さる神に感謝しましょう
世界人類が平和でありますように すべての人の救われを祈りましょう

業深き 者の為にぞ 起こしける 尊き願に 掌を合はせんや


想ふれば 救はれたりと 説き給ふ 海原よりも 深きみ心

煩悩は あると言へども 親心 すべてを流し 天に迎へん

業深き 人を想ひて 涙する 天の面影 親のみ心




BGM モーツアルト「ピアノ協奏曲第8番第2楽章」

ピアノフォルテ・指揮 イエルク・デムス

                        アミンタスに救われたシルヴィア     ブーシェ

              


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