宗派を超えた祈り

最近キリスト教会に行くのが大義になってきました。牧師の話も特に感銘を受けません。正餐式などがあると一時間半位になります。これは、最近の卒業式くらいの長さです。終わるとやれやれと思ってしまいます。キリストやパウロの教えも良いのですが、ユダヤ教を基盤にしているため余りなじめないことがあります。洗礼を受けた教会ですから、行くのが当たり前な気がしますが、大義になり足が向かないのです。

小学校の恩師に聞いて見たら、教会は義務で来るんじゃ無いんだよと聞きました。そこで、しばらく休みを頂くことにしました。60代になり、物覚えが悪くなり、昔覚えていた固有名詞をよく忘れます。それと、教会に行くのが大義になりました。聖書の何ページを開けるのも手が薬で少し震えている私には結構大変なんです。

日本人にはキリスト教会は余り馴染みがないようです。私は前生がヨーロッパだったので、高校生の頃にキリスト教会に行き出しました。大学の専攻も西洋文化史で、日本より西洋文化に憧れていた時期があります。

年が行くに従って、西洋的なものより、東洋的なものに惹かれるようになります。神社仏閣もゆっくり見てみたいと思うことがあります。五井先生のお陰で、宗派の偏見は全くありませんので、いつも近くの神社やお寺に行くときは、よく手を合わせております。

キリスト教の排他性にはうんざりです。それが、イスラム教への偏見とも結びついています。創価学会も嫌ですが、僕の友人が学会員なので、適当につき合っています。

宗教的な偏見ほど、人間に制約を与えるものはないと思います。私もキリスト教で随分悩みました。もうあんな事では悩みたくないと思っています。我即神也が受け入れないのも、キリスト教的な発想かと思いますが、あれは、日本人の心理にも反していると考えています。あんなものを押しつけられたら苦しくて生きてゆけなくなります。

五井先生の教えだけで、不足分は全くありません。私は人に個人的に五井先生を尊敬していると話しています。それの方が日本人には安心して聞いて貰えます。布教などというと嫌われますね。自然に納得して貰うのが一番で、霊光写真の話をすると関心を持って貰えます。とにかく、日本人に宗教的な偏見を与える宗教は余り健全ではありません。
 


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