信仰と不幸災難

信仰していても

五井先生を信じて世界平和の祈りをしていても、病気が完治しない、性癖がよくならないという悩みをずっと抱えていました。神は全能なんだから、何故すっと救って下さらないのだろう。本当に神仏は、人間の祈りを聞いて下さっているのだろうか。今でもこのような思いを心の何処かでしているように思います。五井先生の著書である「祈りのある生活」に「信仰と不幸災難」という章があります。そこで今のような疑問に答えておられます。

法則の神

五井先生は、神の働きを「法則の神」と「救済の神」に分けておられます。神はこの大宇宙の主催者であり、法則に則り運営されています。ですから、法則の神の立場から言えば、人間はその法則に従わなければいけません。人間が侵した過ちは人間自身が償わなければいけないわけです。不幸災難は、人間の誤った業想念の消えてゆく姿ですから、それは、人間自身が責任をもって償わなければいけません。宇宙の法則から言えばそのようになります。

救済の神

それでは、人間が宿命から逃れることが出来なければ、人間は救われるでしょうか。そこで、神は「救済の神」としても働いておられます。守護神として、軌道から外れた人間の運命を修正して、一心に人間を救おうとしてされています。それは無償の愛であり、人間を救わんとする慈悲そのものです。主イエスが父なる神と言ったのも、阿弥陀如来も、守護の神霊も、この救済の神のことを言っています。吾々が神仏を信じれば、救済の神の恩恵を受けることが出来ます。ですから信仰とは素晴らしいことであると思います。

運命から逃れようとせず、出てくるものは潔く受けようという一大勇気と、出てくるものは必ず消えるんだ、これでよくなるんだ、守護霊・守護神さんが加護して、必ず消して下さる、と強い信念をもつことが大切なんです。「五井昌久講話集1」p.91

守護の神霊

宗教信仰の道を進んでいれば、守護の神霊が六程の業を背負って下さっていると五井先生は仰っています。残りの四ほどが消えてゆく姿として現れています。(祈りのある生活p.90)それだけを見ても、信仰の素晴らしさを感じます。しかし、あくまでも、自分の業は自分で償なうのが原則です。「運命から逃れようとせず、出てくるものは潔く受けようという一大勇気」を持たなければいけません。決して逃げたり、焦ったりしてはいけません。

幽界の生物

病気や悩み事があっても、焦ったりして、ご利益信仰で得をしようとしていると、幽界の生物が憑依して一時的にはよくなっても、後でひどい借金を払わされるようなことがあります。それは、高利貸しに手をつけるのと同じ事です。状況は結果的には一層悪くなってしまいます。筆者の体験ですが、うつで休職したとき、ある新興宗教に手を出して、病気を治すだけ
を考えて、がむしゃらに祈っていました。そうすると、教えに疑問を感じるようになり、離れようとすると、ひどい強迫観念が出て、約一年間苦しみました。そして、身も心もボロボロになってしまいました。

世界平和の祈り

真の信仰の道を歩んで神との一体化を図っていれば、過去世の業も守護の神霊が運命として現れる前に消して下さるようになります。また世界平和の祈りのような大乗的な祈りを唱えていると、過去生の業が守護の神霊の光明により消されてゆき、僅かの苦しみで運命が修正されてゆきます。(祈りのある生活p.96)

己が幸 願ふ想ひも 朝夕の 世界平和の 祈りごとの中   五井昌久



BGM ドビュッシー「月の光」

                         日傘をさす女        モネ

                                   



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