その他

「質問ありませんか?2」

時間がたてば現れて来るのですから、深い浅いは問題にしなくてもいいのです。浅いと思う必要はありません。時間の問題だと思えばいいんですね。自分のことも、人のこともですよ。そういうもんなんです。それが私の教えの大事なところです。それは浄土門易行道の一番の秘訣なんです。絶対(神、弥陀の本願)の中には、浅いとか深いとかいうものはないのです。ただ自分で浅いと思うだけなのです。「質問ありませんか?2」p25

想念を何処へ止めておくかというと、神様!という信仰をもって、世界平和の祈りで中に入れてしまって、想いを動揺させないでおくと、生命が余計にグルグル働き出すのです。だから、おまかせしたら、余計に活動力が出てくるわけです。「質問ありませんか?2」p59

「神様、どうか私の生命を使って下さい」と言ったって、神様は無駄には使いませんから、怖がらないで安心して下さい。神様が勝手にすることはありません。そんなことはありません。神様の方でちゃんと神計りに計ってやって下さるのですから。「質問ありませんか?2」p74

神様が使いよいようになさるということは、その人の運命も開けてくるわけです。神様は愛ですから、その人を犠牲にしてしまうことはありません。神様に捧げても、神様のお役にも使いますが、またその人の幸せにも使って下さるわけです。「質問はありませんか?2」p74

人間は、高い大儀に殉じる、そういう生き方をすることが一番美しきなります。そういう意味で、四十にならなくたって、自分の顔に責任をもっていいんですよ。私はまだ二十幾つだから、四十まで間があるわ、なんて、そんな間伸びしたことを言わなくていい。「質問ありませんか?2」p116

マイホームもいいけど、自分の家族を守るのも無論いいけれど、それと同時に国を守り、世界人類のために働かなければいけませんよ。根本に大儀というのが天地を貫いてあった、その中でマイホーム主義を、男女ともにすればいいんです。うちの人は、それをやっていますからいいです。「質問ありませんか?2」p117

肉体の自分の満足なんか、ひとまず置いて、それをやってもよいけれど、根本は、国のため人類のために平和をつくるんだ、大儀に殉ずるんだ、と言うところにスパーッと入っていかないと決定しません。「質問ありませんか?2」p118

「本もの贋もの」

肉体身をもって、地球人類の業想念波動の黒雲の中で生活している者は、その人が愛が深ければ深いほど、いろいろな地球の業を受けるのであります。ですから一知半解の宗教学で、病気をしているものをさげすんだり、病気をしていることが、その人の悪い想念の現れであるように、決めつけたりしてはならないのです。「本もの贋もの」p96

永遠の生命に照らし、その人の進化のために一番よい方法を守護神は選ぶのです。表面に現れたその場その場の一齣一齣だけをにれば、神様は何故こんなことをするのだろうと不審に思うことが、信仰者の間にもありますが、神様ごとは信に始まって信に終わるといわれる程で、神の愛を信じ切って生活していくことが、信仰者の根本の生き方であるわけです。「本もの贋もの」p106

神の御心がまともにこの地球界に現れるということは、非常に善いことではありますが、その力が現れる前に、不調和な状態にしがみついている人類が、その波動調整に大変な苦しみを味わうことになります。それがキリスト教でいう最後の審判ということなのであります。私たちは、この最後の審判の時に、人類の苦しみが最小限度で済むように、消えてゆく姿で世界平和の祈りを教えているのであります。「本もの贋もの」p161

人間の心が突然神のような立派な心になるわけがないと思っているに違いありません。ところが、やがてはそうなる時が来るのです。それは、選ばれた特別な人だけがそうなるのでは、やはり人間は神の心を現しきるわけにはゆきません。すべての人がそうなる時が来るのであります。「本もの贋もの」p181

この世に置けるあらゆる環境も、あの世に置ける環境も、自己の生命の体験の場なのであって、病気なり貧乏なり、それぞれの苦しみの中にあるとすれば、その人の生命をより生き生きと活かすために体験としてあるのです。「本もの贋もの」p191


「永遠のいのち」

感謝は光なり。だから貧乏でも病気でも、嫌な事柄でも一番早く消したいなら、感謝することなんです。「永遠のいのち」p38

あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊守護神様を思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーと一遍にきれいにしてしまうのです。きれいにしてあの世にゆくわけです。そうすると人間というのもが全然変わってしまうのです。「永遠のいのち」p132

皆さんが世界平和の祈りをしていることは、いつも信心深く生きていることは、自分にまつわる先祖の霊魂や知人の霊魂が一緒に浄まっていることだと思って下さい。「永遠のいのち」p136

ところが神様を知っている人は、明るい世界で光の中で、音楽を聞いたり絵を見たりして過ごす。皆さんは物質というと肉体界だけが物質だと思うでしょうが、幽界にも霊界にも神界にも物質はあるんですよ。神界にも霊界にも、この肉体界よりはずーと微妙だけど物質波動があるんですよ。「永遠のいのち」p156

人類というのは一つ命で活かされている。みんな兄弟姉妹なのです。ですから争うことがあってはいけないんだ、という深い思想を持った平和論から出発しないと、本当の平和は出来ない。「永遠のいのち」p197

今現れている事柄に対して、なんだかんだと心配したって、苦労したって何にもならないわけです。それはもう過去のものだから、単に消えてゆくだけなんですよ。・・・では打つ手はないのかというと、ただ一つあるのです。それは何かというと、肉体の自分の力でやるのではなくて、守護霊様守護神様お願いしますと、守護の神霊の方にフィルムの修正を頼む-それだけしたないわけです。だから神様有難うございますと言って、神様の中に入り込んでしまう意外にないんです・・・それをハッキリ観念して、純粋に素朴にそれを信じて、行ってゆくことが悟りなんですよ。「永遠のいのち」p212

皆さんも自分をなくすことです。自分を世界平和祈りの中に入れてしまって自分をなくした時、初めて自分が宇宙大に大きくなるんです。「永遠のいのち」p220

「悠々とした生き方」

一時、悟れない自分、駄目なんだという自分を、ひとまず置いたような形になったけれど、置いたと思ったものは世界平和の祈りに背負わされていって、光の中に入っているのです。だから、素直に「ああこれはみんな消えてゆく姿なんだ。世界人類が平和でありますように」とやれば、そのまま消える率が早いわけです。「悠々とした生き方」p104

本当に自分が罪悪深重の凡夫で、自分では何事もなし得ないんだから、阿弥陀様に救って頂くのだ、ああ有難うございます、お願いします。南無阿弥陀仏と、そのまま念仏で阿弥陀様の中に入っていけば救われます。「悠々とした生き方」p109

肉体の自分では何事もなし得ないんだという謙虚な気持ち、みんな神様にやって頂くのだという形、これがなければ宗教は成り立たないのです。そういう気持ちで世界平和の祈りに入っていくのです。「悠々とした生き方」p111

内在する神を出すということは、調和ということであり、愛の行いなのです。愛の行いが深くなければ、いかに神様神様と言っても、その人は大した人ではない、信仰の深い人というわけには行きません。「悠々とした生き方」p125

お釈迦様の悟りというのは、悟ったといってすぐに病気が治り、貧乏が直せる、地位が上がるというのではないのです。いかに病身であろうと、いかに貧乏な環境にあろうと、心がそういうことに囚われないで、そういう外部の想念波動を超越して、心がいつでも豊かで明るく美しく生きられる方法を悟られたわけです。「悠々とした生き方」p158

想いがぐるぐる回っていますから、自分では想いを変えられないだろう。そこで神様は、お祈りを通して観を転換しなさい、と言って消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えを出されたのです。「悠々とした生き方」p171

南無というのは帰名すること、一つになるということで、阿弥陀様と一つにならせ給え、南無阿弥陀仏と唱えるわけです。それを私は、世界人類が平和でありますように、という祈りに変えたのです。私がそうしたのではなく神様が変えたのです。「悠々とした生き方」p175

肉体の人間には消せないものが、その大光明の中でどんどん消して下さるわけです。自分の業と一緒に、親類縁者の業も、世界人類の業も持って、世界人類が平和でありますように、といって各自が昇っていくわけです。そのような人が多くなればなるほど、地球の業はどんどん減ってゆくわけです。「悠々とした生き方」p176

この世の中というのもは、地球の業というものは、一人一人が少しずつ受けなければならないのですよ。地球の運命というのは、一人一人に関係があるので、自分の業もその中に入っているわけね。地球人類というものは、個人個人の集まりで出来ているものですね。個人の過去世から積んできた業が集積すると、凄い力になって、戦争や天変地異を引き起こしてしまう。だから個人が明るく、個人が立派になれば、それだけ地球人類の業が減るわけです。「悠々とした生き方」p201

三界を出ていくと、何にも囚われがなくて、自由自在に生きられるわけです。それは一人では出られないのです。人間が分霊として、分霊魂魄としてここにいる人間自体では超えることが出来ない。守護霊守護神に想いを向け、守護霊守護神とつながって、助け出されて因縁因果の三界を超えてゆくわけです。・・・それは肉体界にいても出来るし、亡くなってからも出来るわけです。そう言う世界に導き出すのが宗教なのです。「悠々とした生き方」p218

一生懸命に思うと、よけいに守護神守護霊との結びつきが強くなって、やがて知らない間に業の世界を抜けていくのです。今生の世界で抜け切らなくとも、あの世界へ行く場合に、普通の決まった運命からすればそこまでいかれないのが、ズーツと高いことろへ行かれる。そういうように守護霊守護神が導いてくれるのです。「悠々とした生き方」p220

悪いことが現れ、不幸のようなことが現れ自分に不都合なことが現れた時に、ああこれは過去世の因縁が消えてゆく姿だなァ、ああこれで消えたんだ、有難うございます、必ずこれからはよくなるんだ、とどんな不幸にぶつかってもやるんです。「悠々とした生き方」p224(完)


「信仰と直感」

神の存在をしらず信仰心の全く無いままに、この世の栄華を誇って一生を終わることの不幸さは、この世において病気や貧乏を如何ほどしたとしても、神の存在を信じられる境涯になれた人の何層倍もの不幸であるか計り知れないのであります。p110

宗教信仰の道は、一にも二にも、愛と調和でなければいけません。相手を責め裁く想いや、相手をたたきつぶすような想念をもたぬ、相手の本心の開発を心から願っての批判や叱責であれば、その人やその団体を生かすことであるから、調和精神、愛の心に欠けるものではないのです。「信仰と直感」p114

私たち人類がこうむる災害や不幸というものは、宇宙神の御心、自然の法則に外れた想念行為が、自然の法則の軌道に戻されるために、つまり波動の調整のため起こってくる災害や不幸でありまして、私はそれを業想念波動の消えてゆく姿であると言ってるのであります。「信仰と直感」p115

人間神の子の考えと、罪悪深重の凡夫という考えとは全く相反するようにみえるのですが、行き着くところ全く一つのところなのであります。「信仰と直感」p187

どちらからいっても、肉体にまつわる小さな吾を大きな我(神仏)に溶け込ませてしまう道を宗教の道というのです。「信仰と直感」p187

人間は本来神の子であることは間違いないことなのですが、この神の子の神性をこの世で現すことがむずかしいのです。この地球界には、業の想念波動、つまり罪の子的、罪悪深重的波動が厚い層をなしてあるのですから、そうした想念波動を消し去らなければ、神の子の真性が現れることは出来ないのです。「信仰と直感」p188

そこで今度は、罪悪深重の凡夫観に立って、この人生をしっかりとみつめてみますと、自己を始め全人類のこうした業想念は、自分たち肉体人間ではどうにもならぬ業生なので、どなたか、この業生の渦を超えた御方に救って頂かねば、人類は永劫にこの業生の輪廻の中を変滅してゆかねばならない、どうぞ尊き御方様お救い下さい、という形で、御仏の慈悲にすがってゆく、という生き方、キリスト教的にいえば、イエスやマリヤの御名の下に、神様に救い上げて頂くより方法はないという、謙虚に信じ仰ぐ姿となってくるのです。「信仰と直感」p186

どちらの面から入っていってもよいが、一度びは肉体人間の自己の力を無しとして、空しくして、霊性の自己の中に飛び込んでゆくことをしなくてはならなくなるのです。「信仰と直感」p186

神の子人間を主にしてもよいし、罪の子人間を主にしてもよいが、伴に世界平和の祈りの中に祈り入れて、世界平和の大光明の使徒としての自己の生活を、改めて頂き直してゆく心がけが必要なのです。「信仰と直感」p198(完)

「人類の未来」

私はこの地球人類はすべて凡夫である、という思想から教えを発しているのですから、むやみやたらに光明思想を振り回しているわけではないのです。一度は自己を凡夫の位置にしっかりと据えておいて、その凡夫の業想念を、消えてゆく姿として世界平和の祈りの中、守護神霊団の御心の中に投げ込んでしまう方法を教えているのです。「人類の未来」p67

今日までも宗教のように、信ぜず者は神から遠のくのではなく、信ぜぬ者たちまでも浄め去り、救われてゆくのが、救世の大光明の働きである、世界平和の祈りなのであります。

世界平和の祈りを唱え始めた人々の中には、過去において、種々様々な悪業をしてきた人もあることでしょうが、そうした過去の誤りは、すべて救世の大光明に浄め去られるのであります。「人類の未来」p89

消えてゆく業想念波動の方に自分の想念を置いておくか、消し去ってゆく生命自体に自己の想いを置くかで、その人の運命そのものが違ってくるのである。「人類の未来」p113

いつだったか、リーダーズダイジェスト誌に、米国の白血病で死んでいく一少女の話がのっていましたが、この少女は非常に信仰心が強くて、死の問題にも神を恨まず、「ねえ、ママ、あたしは病気が治るように一生懸命お祈りしたのよ、でも、今分かったわ、神様はあたしを治そうとしていらっしゃらないの、神様はあたしを呼んでいらっしゃるのよ」と言って、天国をみながら死んでいったのです。「人類の未来」p116

自己の目にも人の目にも、苦しみと写っているような状態も、その人の過去生の因縁の消えてゆく姿であり、同時に、生命の経験を積み重ね、そうした生命の経験によって、地球人類の大調和世界実現のための働きをなさしめるために、自分の本心のしていることなのであります。「人類の未来」p119

永遠の生命である自己の本質を現しきることの素晴らしさを思うと、そのために如何なる苦しみをうるとしても、とるに足らぬ苦しみにしか過ぎないと守護の神霊は言っているのであります。「人類の未来」p120

業想念の激しく現れた後には、相手はかえって深い宗教心に導かれてゆくものなのです。親しい者の死とか破産とかいう究極の処を通り抜けると、その人達は、業波動がそれだけ大きく消えて、本心の開発を促進することになるのであります。「人類の未来」p122

皆さんの世界平和の祈りには、イエスが釈迦が老子が、そして各神霊や聖者が、その上に宇宙天使の大きな力が応援していて下さるのです。そのことを心に深く銘記していて下さい。「人類の未来」p125

私は、守護の神霊の存在を説き、常に世界平和の祈りをし、守護の神霊への感謝を続けていれば、幽界の生物につけいられたり、憑依されたりする恐れはないと説いているのであります。「人類の未来」p174

何事も焦ることが最もいけないことですが、宗教の道は、一日一日の精進が大事でありまして、一瞬一瞬を真の心で祈り、誠心(マゴコロ)をつくして日々の生活をしていくことが大切なのです。p176

たとえ一つの集団としては正義であっても、その集団の行為が他の集団を敵として殺し合いを演ずるようであったら、その小さき正義とみえる在り方も、宇宙的にみれば悪行為となってしまうのです。「人類の未来」p181

たとえ相手が誤っていても、対立する想念でそれに対することなく、自己が宇宙心と同調した善の心になって、善とは調和そのもの心ですから、そうした心になって、そういう心の立場から相手に接するようにすることが大事なのです。そこに
いつも申す祈りが必要になってくるのです。「人類の未来」p182

善と申しますと、親鸞の言った「善人もて往生する。いわんや悪人をや」という言葉を思い出します。親鸞の善人とは、自分は悪いことをしていないのだから、神仏にすがる必要はないというような傲った気持ちをもっている人で、宇宙心とは離れた心の人です。人間は常に多くの犠牲の上に行かされているのでありまして、自分は何も悪いことをしたことがないなどと言えるものではありません。知らずして犯している罪業は数限りなくあるわけなのです。その対照の悪人は、その反対に自己の罪業の深さを思い、常に反省して、贖罪(罪業を償うこと)の気持ちでいる人を言っているのです。「人類の未来」p182

枝葉末節的な善悪を問題にするよりも、もっと根本的な善悪の問題の方が大事なのです。あまり小さな善悪にこだわっていますと、人間がこせこせした狭いつまらなぬ人間になってしまって、広い大きな働きの出来ぬ人間になってしまいます。「人類の未来」p192

本当にどうでもよい善悪は、すべて消えてゆく姿として、自他の天命、国家や人類の調和を祈りつづけてまいりましよう。善にとらわれることも悪の生まれる道となるのでありますから、すべてを神の御心のなし給うところと信じて、不幸や災難や悪とみえる事態事柄が出てきたら、過去生の因縁の消えてゆく姿として、素直に世界平和の祈りの中に入れきってしまいましょう。「人類の未来」p194

人間は、肉体という固まった動きの鈍い生物だと思われていますが、実は光輝いた無限能力をもった光明波動であることを、一日でも早く多くの人々に知らせなければいけないのです。「人類の未来」p221

真に世界平和を願っての働きは、自己の為も周囲の為もひとまず捨てきって、神の御心のままに働くという大上段の構えからの働きなのであります。「人類の未来」p235

「責めてはいけません」

生じっか宗教をやったり修養をやった人というのは、人を責めやすいから責めちゃいけません。人ばかりでなく自分も責めるからね。こういうつまらないことはみんな消えてゆく姿。あるのは神様の子である人間だけなのですね。「責めてはいけません」p14

人間は二つ心をもってはいけません。神様の子なら神様の子になりきらなければいけない。業の子なら業の子になりきってやればいい。そうすれば壁に突き当たって、ああ業なんていうものはダメなものだと本当に分かります。「責めてはいけません」p127

世界平和の祈りの中に入っていれば、肉体があろうとなかろうと、自分は天国に生きているんだという堅い信念をもつことが大事です。「責めてはいけません」p138

只霊力でもって、人を動かす威かす、あるいは何か奇跡をみせるようなことに引かれないような、そういう興味をもたないように努めてもらいたいですね。そのためには世界平和の祈りをもっともっと余計やるということが大事ですね。「責めてはいけません」p161

人身得難し、といいますね。人の身体に生まれて来るというのは得難いことなのです。魂の錬磨、修業に一番いいのが肉体界なのです。「責めてはいけません」p160

誰で彼でも神の子というけれど、神の子というのは中身のことであって、まだ神の子の現れている人は少ないのです。現れていない人が多いのだから、そういう人に向かって、あんまり真理をはっきり説くと、自分が苦しくなるのですよ。「責めてはいけません」p178

「我を極める」

業がある以上はどんなことをしても、それが出てくるわけです。しかし、守護霊守護神につながり、祈り心で加護を願っていますと、守護霊守護神が肩代わりしてくれるのです。百ある業想念を九十背負ってくれ、後十だけ肉体の方に出して、肉体は十だけのものを背負っていけばいいようにしてくれるのです。「我を極める」p12

神のみ心の中に入るためにはどうしたらいいかというと、肉体界にいますと、肉体の想いが激しいから、守護の神霊たる守護霊守護神の助けがなければ入れないのです。「我を極める」p14

あらゆることを消えてゆく姿にして、神様と一つなんだと思う。ただそれだけ。神様の中にいるんだ。というそれだけの想いの中にいることです。「我を極める」p43

神は「肉体人間では何事もなしえないのだから、自分で出来る出来ないという思いを、すべて神様のみ心にお還しなさい」というのです。・・・そして「罪ほろぼしのような気持ちで、世界人類が平和でありますようにと思いなさい」というんですよ。「我を極める」p43

出来ないことをやれ、と言っても出来ないんですよ。お前達は肉体じゃないんだと言われても判らないでしょう。肉体だとどうしても思ってしまうでしょう。そういう想いが習慣としてあるんだから、あらゆる習慣的な想いを平和の祈りの中に入れてしまって、どうぞ神様お願い致します、とやんなさいと言うんです。

法然親鸞が南無阿弥陀仏と言えば、必ずいいところへ行くと教えたのと同じであって、それがもっと現代的に分かりやすく、しかも意味がはっきりとれるように説いているのが世界平和の祈りなんです。「我を極める」p101

業想念というものは必ず消えるのです。消えてゆく姿で世界平和の祈りをつづけていれば、どんな人でも、どんなに業が深かろうと、厚かろうと、必ず業想念はなくなってしまうのです。「我を極める」p127

「空即是色」

現れてくる病気とか不幸とかは、それは本心を早く顕し、真実の人間に早くするためのするための病気であり、不幸であり、貧乏なんですよ。これによって業が消えてゆくんだなと守護霊様守護神様有難うございますというように感謝するんです。そうすると傷が少なくて早く済むのですよ。「空即是色」p33

人は救われるに決まっている。この世で救われることになっているひとは、ここへ来ていますからね。世界平和の祈りをするような立場になった人は、絶対に救われている。「世界人類が平和でありますように」という祈りに加わったということは、もう自分が救われているということを自覚していることなんです。知らないうちに自覚させられている。だから恐れないでおやりなさい。」p119

ですから「ああ私は世界平和の祈りをやっているんだから、救われるに決まっているんだ」と思って下さい。一日たつごとに救われていく。病気の人は一日ごとに治るに決まっている。いのち健やかになるんだから。「色即是空」p126

私は「み心のままに」という言葉が好きで、み心のままにと任せきってしまう。任せるということは、この頭のごたごたをなくすわけだから、無くなってしまうと、いわゆる本体の力がサーッと流れてきて、自分で思いもかけないような素晴らしいことが出来るわけです。「空即是色」p146

みんなきえてゆく姿なんだ。あるのは神様の平和のみ心だけなんだ。世界人類が平和でありますように、って入っていくんですよ。それが全託なんです。「色即是空」p157

どんなに悪いことが現れても、それは消えてゆく姿なんだなと、何でもかでも神様のみ心の顕れだということを肯定できるような、すべてに感謝できるような、そういう心になることが、修行の修行の最大の修行です。「色即是空」p158

先祖が迷っていて自分にかかっていると言うけれど、それは違うのです。自分の中にある想い、業を消すために神様が、そうやってかかったような形でもって消してくれているわけです。「空即是色」p209

「自らを信ぜよ」

神様の方では、誰にでも満遍ない愛を与えているのですが、与えられている人間の方がその愛を自ら受けるか受けないかの違いによって、その人の幸福のたかが決まってしまうのです。「自らを信ぜよ」p45


ノイローゼの患者は、精神的なものと、神経障害的なものと、憑依作用的なものとがあります。この見極めが医学でも出来にくく、一律に同じような治療法で取り扱ってしまうのであります。「自らを信ぜよ」p137

神は一神であり、そして多神として、その働きを現されます。神は一神であることにとらわれず、多神として、何の神、何の神として信仰しても、その信仰は間違っているわけではありません。しかし、どの神を信仰しても、元は、大宇宙神の御心に通じてゆくのであります。「自らを信ぜよ」p100

「聖なる世界へ」

肉体人間をより完全にするためには、やはり実在界の人(霊止)のように、宇宙神の御心の中に入ってゆくことが大事なのでありますが、この現象界と実在界の間には、種々様々な距離(ヘダタリ)がありまして、簡単に神の御心に入ってゆくことは出来ないのです。p9

祈りは常に自己の想念を、神の御心の中に投げ入れて、つまり神の御心にすべてを委ねる方法です。神の御心に人間の想念を委ねつくしますと、人間の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、その人のああでもない、こうでもないという想念波動がなくなり、その人の本心のみが動き出します。本心とは神の御心ですから、神の御心の完全性がそこに現れて、物事が成就していくのであります。p117

すべてはあなた方の守護の神霊がみておられます。ですからすべての運命を、守護の神霊に託して、守護霊様、守護神様、ありがとうございます、といつも感謝しながら、世界平和の祈りをつづけていって下さい。一番無理なく、一番妥当なあなたの運命が、あなたの前にひらいてゆくのです。p120


如何に智慧能力がありましょうとも、業想念的な力は、本心から溢れ出てくる智慧能力にかなうはわけがありません。すべての業想念は消えてゆく姿、ただあるのは神の御心である本心のみ、という生き方に一日も早くなりたいものです。それはひたすらなる、世界平和の祈りの生活からもたらされてくる幸福なのであります。p137

如何なる雑念も、相手にされなければ、やがて消えてしまうので、出てくる雑念をあたかも実在するもののように思って、相手にしている必要はないのです。p203

キリストのいう御心ならばという気持で、世界平和の祈りをするのがよいのであります。すべての運命を守護の神霊に委ねる気持で、只一筋に、世界人類の平和を念じる、世界平和の祈りをなし続けることが尊くも大事なことなのです。p205

「神は沈黙していない」

人を責め他国を責める想念をそのままにして置いて、いくら平和、平和を叫んでいても、到底世界平和どころか、自己自身の平和の環境さえ生まれては来ません。p23

(冷たく消えてゆく姿よといって突き放すのは)あなたの因縁だから仕方がないとか、それはあなたの心の影よとかいう言葉と同じようになってしまって、せっかく神様が人類の罪穢れを、すべて世界平和の祈りによって赦して下さろうとしているのに、親の心子知らずのように、せっかくの赦しの言葉を汚してしまうのです。

宇宙神と肉体人間という関係では、この世の存在は保ちません。神の根源的な微妙なひびきと、物質地球界の波動とでは、あまりにそのひびきに差がありすぎるので、うまく調和することが出来ないのです。そこでその中間のつなぎのひびきとして、守護の神霊の存在が絶対に必要になってくるのです。言い換えれば、守護の神霊の働きなくしては、この地球界はすでに遠い過去において、滅び去っているのであるということです。p130

神を真実求める心は、先ず、自分という想いを神の御心の中に、お還ししてしまうことから始めなければなりません。p136


神の御心の中に自分を一切投げ入れて、改めて神の御心だけの自分として生まれ更って生活していくということが、宗教信仰者の生活であります。p137

どんなことにでも把われの想いがある以上は、自由自在心にはなりません。把われの想いが深いか浅いか、多いか少ないかによって、生命の自由な働きが出来易くもなり、出来難くもなるのです。p202

神の御心の中ではすべては一つであるという、大調和世界をこの世に映し出すことが使命である宗教家が、自分の宗教というものに把わてしまったら、とても大調和世界の出現はおろか、自分の行為そのものが、もう調和を乱す行いになってしまっているのです。p204

「光明をつかむ」

生半か肉体頭脳の秀でれていることを信じていることや、自己の行為を善なりと思いこんでいる人は、真剣に素直に神仏のふところに飛び込んでゆかぬことが多いおですが、常に自己の心の矛盾に悩み、正しき道を求めつづけ、自己完成を願いつづけている人や、先哲や諸仏諸聖の教えを素直に行じようとしている心素直な人々は、すぐにも諸仏の光明に抱かれることが出来るのです。p33

自分の業想念をつかんでいては自分を赦すことは出来ない。人の業想念をつかんでいては人を赦すことは出来ない。すべては消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入していく生活、それが私たち同志の日常の生活法なのであります。p108

救世の大光明の働きは人間の自由性を縛ろうとはしていないで、人間を業想念、カルマの束縛から解き放とうと、その光明を当てているわけなのであります。人間が業想念の把われから解放された時こそ、人間の自由意志は神の御心の自由さと全く等しいものになって、地球界は神の世界になるのであります。この時こそ地上天国と言われることになるのであります。p133

他界した後、果たして何がその人の運命を支配してゆくのでしょう。それはやはり自分の想念の波なのです。自己の運命はすべて自己に委ねられているのです。人間は常に自由なるものなのです。ただ、その自由性を、神の無限の自由性に結びつけて生きるのか、業想念の限度ある自由性に結びつけて生きるかによって、その人の運命の幅や深みが異なって来るのです。p136

神の御心の中から生まれてくる物質は無限なのであります。神の御心、神の法則をはっきり科学的に知ることが出来れば、大気の中にある元素の和合によって、様々な食料や物質を創りあげることも可能になりうるのです。p178

神仏の名を呼ぶのもむろんよいが、口に神仏の名を唱えなくても、その行為に神仏の名を現している人は、神の国の住人なのであります。偽善者の多いこの世において、私は広い範囲から、真の宗教家を選び出したいと念願しているのです。そのもっとも自然な運動が、世界平和の祈りの運動なのです。p186

「これからの文明文化」

私たちが宇宙子科学を始めたころ、宇宙人の最初にいった言葉は、人類も動物の範疇に入れて研究するという、地球界の唯物的な科学者の言うのと同じ事を言ったのであります。これは光明思想の宗教者が、あまりにも人間を神格化しようとして、現実の実際面に現れているものを直視しようとはせず、ただ観念的に人間神の子を思おうとしていることへの愚かさをたしなめたのであります。p24

個人も重なる不幸災難によって真理への道に目を開く人もあり、世界全体の不調和混迷の姿をみつめて、御心の天のごとく地にも行われんことを、心に込めて祈る人も出来てくるのです。p41

真の祈りというのは、神と人間を一つに結ぶ方法なのであります。この祈りには神社仏閣はあっても勿論よいのですが、無くても自分の心の中で行じればよいので、その方法として私は、守護の神霊の感謝と世界平和の祈り言を行じているのであります。p138

真実に宗教の道を求め、神仏を求めようとする場合は、自己の想念行為を、一度は、その求める道や神仏の中に投入しきらなければいけないのです。自己の方から神仏の中に飛び込まなくては駄目なのです。生きるも死するも貴方様の御心のまま、というところから真実の神仏がその人の中に働き始めるのであって、神仏を自己の方に引き寄せようとするような信仰は、宗教的には邪道であるわけです。p153

人間という者は、個人が生きているというそのこと自体が、他の者へのプラスになってゆくように本来つくられているものですので、置かれた環境から遁れよう遁れようとする想念は、そのまま自己の生命の力を削り取ってゆくようなものです。p162


世界平和は神本来の御心なのですから、神の大光明波動が過去生の因縁想念を明るく浄め去ってくださります。もう一つは、悪い想念を放って、善い想念(人類の平和という)を持つことによって、観の転換が自然とはかられ、表面意識から潜在意識の底まで、一貫して光明化したものになるのであると
説いているのであります。p184

やがて来る世界は、この世とあの世との交流が、なんでもなくなされる科学の道が開かれ、戦争のあらゆる武器が使用不可能になる科学の道が開かれ、嫌でも世界中が手をつなぎ合って、大宇宙の一員の地球という地位のために、大光明波動をひびかせてゆく時代となってくるのであります。p188

私共の運動は、ただ肉体人間として、神々や宇宙天使との協力によって、この地球界を蔽っている業(カルマ)以上の力をもって、活動しているもので、肉体人間の精神内部から真の平和な心を湧き上がらせるとともに、あらゆる爆弾や暴力の使えなくなるように、調和の科学を生み出して、根本から地球界を浄めてゆこうとしているのです。p198

真の宗教の道はあくまでも神と一体化の道で、神の御心をそのまま現すころにあるのです。そしてその一つの方法が祈りなのであります。祈りとは自分に与えられた生命の力を出しきるということで、ただ単なる願いごとではないのですが、今日までの宗教者側のやり方が下手だったせいか、祈りについての真実を人々に判らせていなかったわけです。p200

人間が生活してゆきますのに、個人は勿論、国家も、人類もすべて守護の神霊の応援がなくては、とても完全な生き方は出来ないので、古来からの聖者達が、神の愛を説き、神との一体化を説いてきたのです。p201



五井先生のみ教え

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