救いと悟り

宗教の極意

「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」「五井昌久講話集2」p162

この五井先生のお言葉を思うたびに、信仰の有り難さを思います。神様は愛なんだから、すがりさえすれば救われるんだよ。後は、「すべて」神様がおまえの心や我が儘を直して下さるんだよ。だから安心して神様を信じていればいいんだ。それだけでいいんだよ。

何かこのお言葉を聞いていると、神様を信じていれば、神様の方で「すべて」善きに計らって下さるので、心の荷が下りてホットするような気がしてきます。ああ、信じるだけで救われるんだ、心の荷は神様の方で「すべて」解消して下さるんだ、有難いなぁ、神様有難うございます、と救いを実感出来るようになります。

信じる心さえあれば

たとえ、現在の状況がどんなにひどくても、どんな悩みをかかえていても、それは過去世からの業(カルマ)の消えてゆく姿であり、過去の業想念の波をかぶっているだけなのです。過去形の業と今の自分とは関係ありません。今の自分は神様(五井先生、主イエス、阿弥陀如来・・・)を信じているのですから当然救われています。神様を信じている自分が、本当の自分です。悩みはすべて消えてゆく姿であり、神様が責任をもってすべてを解消して下さいます。ですから、たとえ、どんな悩みがあろうとも、信じる心さえあれば救われているのです。有難いことです。

自分がどんなに惨めな環境にあろうと、病弱であろうと、どんなに貧乏であろうと、そんなことは一切、過去世の因縁がひとりでに消えてゆく姿として現れているだけだから、今の自分には何の関係もないんです。それをみんな間違えてしまうんです。「魂が大きく開く時」p230

「五井昌久という人が現れて、さあ私のことを思いなさい、そうすれば、あなたは救われるんです。五井先生と思いなさい。そうすれば、あなたは神界の本当の住居に行くわけです。」「五井昌久講話集3」p41

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16

「業があるままでかまわないんだから、喜怒哀楽があるままでも、世界平和の祈りと五井先生さえ思っていれば、菩薩様の本体の所に帰れるんだよ、と易しく教えているんです」「自由解脱への道」p55

「だから私に会って、私の教えがいいという自覚が出来た時は、もう救われているのです。」
「五井昌久講話集5」p160

世界平和の祈りを一言でも唱える気持になったということは、その人の運命は変わったことです。どの様に変わったかというと、闇の世界から光の世界に入ったわけです。「魂が大きく開く時」p224

救いの実感と悟り

「神様有難うございます」と心から感謝できていれば、心は神様と一つになっています。心の中に神様の御心が反映しています。もし、「いつも」この様な状態であれば、その人は「悟りの境地」にあると言っても過言ではないでしょう。つまり、救いをこの様に実感できていれば、、神我一体の「悟りの域」にあるといっていいと思います。「救い」をはっきりと実感出来ることが、「悟り」を意味しているのです。

すべての人が救われる道


あなたの性格や心を直しなさいと言われると、これは大変だと思ってしまいます。これは誰でもが出来ることではありません。しかし、神様にすがりさえすればいいんだよ、と言われると、これなら出来るとみんなが思うでしょう。そうです、信じるだけであれば、誰でもが出来ます。子供でも出来るでしょう。後は「すべて」神様が責任を負って、業想念を解消して下さるのです。神様に出来ないことはないのです。罪業が深ければ深いほど、憐れんで下さいます。難しいことは「すべて」神様におまかせすればいいのです。神様が必ず解決して下さいます。よい医者についているようなもので、必ず癒されるわけですから、「有難うございます」という感謝の念が涌いてきます。

世界平和の船

五井先生のご講話の中に、次のような話がありました。

「世界平和の祈りを称えていることは「世界平和の船」に乗っているようなものです。私と一緒に船にのって、優雅ですなーと言っていればいいのです。そうすれば何をしなくたって上げてもらえるんですよ。」五井先生ご法話集007「愛なる神々」

五井先生を信じて、「世界平和の祈り」を称えていれば、大きな救いの船に乗っているようなもので、信仰さえあれば、後は「すべて」五井先生が責任を負って救って下さるのです。罪業は五井先生がすべて被って消して下さいます。ですから、人生は必ず光明化します。そして天の御国に連れて行って下さるのです。五井先生は、救世主なのです。こんな有難いことがあるでしょうか。これは、五井先生の堅いお約束なのです。


へりくだること

田舎に行くと今でも、念仏をいつも称えているお年寄りがいるものです。そのお年寄りの中にこのような人がいました。難病で後一年しか寿命がありません。しかし、いつも念仏を称えて「このような愚かな老婆でも、み仏は救って下さる。有難い、有難い」といつも感謝しています。付近の人が、「あのお婆さん、あと一年しかないのに、何が面白くて感謝ばかりしているんだろう」と不思議がられています。そのお婆さんは、信心で救われていると同時に「悟りの境地」にあるといってよいかと思います。

なぜ、そのお婆さんは、そんなに深い感謝が出来るのでしょうか。お婆さんは自他共に誰にも頼ろうとしていません。人間の非力をそのお婆さんほどよく知っている人は少ないでしょう。そして、み仏しか救って下さる方がないことを知っているからです。ですから、み仏が救って下さることが有難くてしょうがないのです。

また、お婆さんには、「欲」や「うぬぼれ」がほとんどなくなっています。「欲」が先行してくると神様と人間との間に壁をつくってしまいます。「うぬぼれ」は、謙虚さを失い感謝の念を失ってしまいます。水は高き処から低き処へ流れます。自分がへりくだっていないと、み仏の慈悲が流れてこないのです。

私たちは、老婆の立場になって、心からみ仏に感謝致しましょう。肉体人間に何を期待しても救われることはありません。虚しさを感じるだけです。老婆の気持が分かれば、必ず感謝の心が涌いてきます。いつもへりくだった老婆の心になって、心からみ仏に感謝致しましょう。感謝の念は、救いの実感に至らしめるだけではなく、心の「悟り」にもつながります。

神様有難うございます

世界人類が平和でありますように



すがりさへ すればよきとぞ 説き給ふ 易しきこと ほかになからん

み仏の 救ひにもれる 人ぞなし 感謝の想ひ 心に満ちん



BGMの音楽の解説

Let's Talk About Love      CELINE DION

  
  



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