守護霊・守護神と全託

守護霊・守護神

 神と人の間をとりつぐ神霊は、古くから知られていた。古代ギリシアでは、ダイモーンとよばれ、ソクラテスを導いたことが「ソクラテスの弁明」で語られている。キリスト教の時代になると、守護の天使が、個人個人につき、人を守護すると信じられていた。我が国では、仏教が伝わり国民的な宗教に発達していった。仏教では、人間を守護する神霊を諸天善人とよんでいる。神道では、神と人間を橋渡しする神霊を神人とよんでいる。吉田松陰に現れたことが伝記を見ると書いてある。現代では、大体どこの宗派でも、守護神・守護霊の存在を説いている。

五井先生を導いた守護霊・守護神

五井先生を神我一体に導いたのは、守護霊・守護神であった。守護霊・守護神の指示のままに行動して、ついに大悟される。まさに、守護霊・守護神の助けの賜物であった。普通個人を導くのは、守護霊・守護神であり、大宇宙神ではない。五井先生が見いだした聖者は、守護霊・守護神であった。実際に、主イエス・キリストや聖母マリア、釈尊や阿弥陀仏、五井先生などは大守護神である。人間は、まず守護霊・守護神をとおして絶対神につながってゆく。神と人間との間に守護霊・守護神があって、初めて人と神とがつながるわけである。

肉体人間の欠点をカバーしてくれる存在

五井先生の言葉に
「自分が光らなければ、光に乗せてもらえばいい」という言葉ある。人間は誰もが、釈尊やイエスのような聖者になれるわけではない。どんな業があり、どんな煩悩があろうとも、守護霊・守護神を信じることによって神につなげてもらえるのである。光は守護霊・守護神のことをいっている。守護霊・守護神・五井先生が光りになって我々を天にまで乗せて行って下さるのである。だから、その乗り物のことを「五井先生の救いの船」ともよんでいる。

神から見れば、地球人類は幼く、欠点だらけである。その欠点を補い、幼い地球人類の身代わりになってくれているのが守護霊・守護神である。人間のもつ業を身代わりになって背負い消して下さっている。肉体人間の力だけでは、解脱は不可能であると五井先生は説いておられる。最終的には、守護霊・守護神が人間の業をすべて浄めて神界に連れて行って下さるわけである。

全託

「自分の業想念を神様の責任にしてしまえばいい。いいことも悪いことも、みな神様に返してしまえばいい。
悪いことも何もかも神様に入れてしまえばいい。」

有難いことに、守護霊・守護神は、人の責任者なのである。霊からいえば親にあたる霊が守護霊である。人間の責任者は守護霊・守護神であるから、自分の至らないところは、守護霊・守護神が身代わりになり、責任をとって下さるのである。自分が光らなくても、守護霊・守護神の光で天に上げてもらえるのである。自分の欠点や将来のすべての責任をとるのは守護霊・守護神だから、人間は、守護霊・守護神・五井先生に任せておけばよいということになる。全託というといかにも難しそうであるが、責任を五井先生に任せて気楽に生きればよいのである。幼い子が母に任せるように、我々は、五井先生にすべての責任を任せて、のんきに生きていればいいのである。これほど気楽なことはないではないか。もちろん、そこには五井先生への厚い信頼があることはゆうまでもない。

「何でもかんでも現れた悪いことは守護霊さんに任せてしまうことです。任せきって感謝していく、
その気持ちが一向専心南無阿弥陀仏あのです。」


阿弥陀仏を親様として任せてゆくのが阿弥陀信仰なのである。親様とは、なんと頼もしい言葉ではないか。親様はオールマイティーだから、人間の親より遙かに頼りがいがあるではないか。このように考えたら、全託というのも、子供が親を頼るようなもので、実に気楽ではないか。

善意にて 導き給ふ 守護霊は 善きに計らふ 天地神明



B.G.M..

パレストリーナのミサ曲「ミサ・ブレヴィス」

図1 聖母子と二聖者(部分) ティツィアーノ




ホームページ