魂の救い

神の大愛、み仏の慈悲

「神様というのは、あくまで人間を救おうと思っている。人間を赦そうと思っている。
人間の原罪をほどこうと思っている。罪の観念というものをなくそうとおもっている。
イエスさんが十字架にかかったのは、人類の原罪を身代わりに背負ったことなのです。
私がみんなの代わりになって原罪を背負ったんだから、あなた方は罪の観念を捨てなさい。
罪汚れは私が引き受けたんだから、あなた方は、私の名を呼べば助けてあげる。といって
十字架にかかったんです。」


「私は神の愛を、私の肉体を通して、優しく分かりやすく、人間世界に伝えようとしている者であります。
神は愛なのです。神は慈愛なのです。人間を救おう救おうとなさっていて、決して罰しようとは思って
いらっしゃらないのです。それを誤った人が神の罰を説いたり、心の欠陥ばかりを責め裁いたりして
宗教を求める善人を、狭い窮屈な善人にしてしまい、気の強い人をして、宗教の門、神の門から
閉め出してしまっているのです。」


五井先生は、次のように説いて、神は愛そのもので、常に人間を救おうとなさっていると仰っています。このような神の愛や、み仏の慈悲を人間に知らせるために、神は、主イエス、親鸞、五井先生・・・を人間界に送られたのです。

「歎異抄」の親鸞

親鸞上人は、み仏の救いについて、次のように言われています。「歎異抄第三条」より

「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、(煩悩から離れることのない私たちは、どのような行をしても救われることがないのをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」(阿弥陀仏にすがるしか救いようのない業の深い人間こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。

み仏は(神様)は、一部の人間だけを救おうとしているのではありません。すべての人を救おうとされています。むしろ、業が深くてみ仏(神様)にすがって来る者をこそ、救うことがみ仏の悲願であると親鸞上人は述べておられます。外見ではほとんどすべての人が凡夫です。煩悩具足の凡夫のままで救って下さるみ仏(神様)に感謝致しましょう。
今どんな状況にあろうとも、み仏の無量の慈悲により救われているのです。

「ヨハネ伝」の主イエスの言葉

「神はひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(主イエス)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命(神の命)を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである。」

主イエスは神の愛について、この様に述べておられます。神は、神の子であるすべて人々を深く愛して下さっています。ですから、主イエスを信じる者は一人も滅びないで、永遠の命(神の命)を得ることが出来るのです。このように、神が主イエスをつかわされたのは、人々を裁くためではなく、主イエスによってすべての人々が救われるためなのです。

宗教の極意

「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」


本当の宗教の教えは、人間の心を変えなさいと教えるのではありません。神様は愛なんだから神様にすがりさえすれば救われるのです。神様にすがれば、自然に人間の心は神様の力によって変えられていくものだからです。人間の力だけで、人間の心を全面的に変えることはとても不可能なことです。

本当の信仰

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」

五井先生が言われているように、煩悩を持ったままで救われないと、誰も救われることは無くなってしまいます。煩悩をもったままで救われるからこそ、すべての人が救われるのです。それが本当の信仰です。

救いの原点

神仏は、すべての人を救おうとされています。救いに条件などありません。親が我が子を助けるように、無償の愛で救って下さるのです。神仏は、煩悩具足の人間を憐れんで、すべての人を救おうと悲願されました。み仏の悲願は、人間一人ひとりのためにあるのです。神仏の慈悲を妨げるような悪はありません。神仏にすがる者をまず最初に救って下さるのです。こんな者でも救って下さると思うと、つい、有難うございます、という感謝の祈りが湧いてきます。このようなごく当たり前な想いが、救いの原点なのです。

なぜ信仰だけで救われるのか

「魂の救われといものは、必ず最後まで神様を思うものの上に輝く。
神様を想うということは神様と一つになるということなんです。」
「神様を思っている方は、本当は神様の国に住んでいるんです。神様を思わない人は
神様の国に住めません。」


本当に信頼しあっている夫婦、師弟、同志は一つであると言われます。主イエスは、弟子に「私は葡萄の木であり、あなた方は、その枝である」と語っています。それと同じく、本気で神(主イエス、五井先生・・・)を信じることは、神と一つになることです。言い換えれば、神の命がその人の中にあるのです。ですから、その人は神の命により救われているのは当たり前です。神の命は永遠ですから、その人には、永遠の命(神の命)があることになります。

古き吾は死に、キリスト・イエスが生きたり

この言葉は、使徒パウロが主イエスにより救われた感動を言ったものです。自分を救ってくれた主イエスを想う余り、このような言葉になったわけです。吾々も主イエス、阿弥陀如来、五井先生・・・を信じた時、もはや昔の自分ではなく、自分の中に主イエスやみ仏や五井先生がおられること堅く信じましょう。主イエスや五井先生は神や仏の化身ですから神仏としておられるということにもなります。

神は内にて働き給ふ

五井先生やみ仏の救いを信じた時、その人の中に五井先生やみ仏がいて、内から働いて吾々を導いて下さいます。外面から言えば、守護の神霊として導いて下さるということになります。五井先生やみ仏は、吾々の業を消して神の国に往くにふさわしい姿に変えて下さいます。同じく、それまでの業が浄められて、神の子の姿が現れてきます。

「神と人間というものは、離れているもんじゃないんです。神様は内にあって、人間とはヒッタリと一つについているものなんですよ。神様が内の中から全部をやって下さるんです」「魂が大きく開く時」p10

もはや、神の愛と救いを受け入れた人は、古い自分ではなく、「葡萄の木と枝」のごとく神と一体になっています。ですから、妬んだり、卑下したり、劣等感をもつのはナンセンスです。自分の中に神様がいて働いて下さっているわけですから、妬んだり、卑下したり、劣等感をもつのは、内なる神様に申し訳のないことです。命において神と一つであることを強く信じて、救いとみ恵みを思いましょう。

神のみ恵み

神を信じている人は、神が内から業を消して、運命が修正され幸福になっていきます。また、神の命がましますので、往生すれば永遠の神の国に召されます。この世の幸福もあの世の幸福も保証されていると言うことになります。魂の救いとは、必ず幸福になれることでもあります。なぜなら、その人は命において神と一つだからです。



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