魂の救いとは
うつの苦しい体験
私は、平凡な家庭をもつ中学校の教員だった。ところが、仕事のストレスで中年のころうつ病になり、無理をして学校に行ったが、体調は悪くなる一方でついに休職を余儀なくされた。女房は子供をつれて里に帰り、事実上縁が切れてしまった。休職したが、体調は依然として悪く、うつの発作があると胸苦しく、アルコールも飲めなくなってしまった。外出も出来ず生きているのがやっとだった。体調が悪化し心身が苦しくなると、自分の部屋にいると自殺願望がひつこく出るので、自分の部屋に行くことが出来ないようなこともあった。
事実上の離縁であったため、今後の自分の人生に悲観して、生きる気力を失っていた。医学も、現代医学、東洋医学、民間療法などを試みたが、成果はなく職場復帰も困難であった。神頼みに宗教団体にも行ってみたが、返って病気を悪くしてしまう有様だった。中年の初めに軽いうつの徴候が出たころ、五井昌久の宗教書を知り、よい教えだなと思いつつ幾つかの本を読んでいた。その五井先生の本が、病苦の中で読むといっそう親密さをかんじ、また生きる心のささえのようになっていた。それでも、うつの苦悩がひどいときは、自殺願望が出て、死んで灰になってしまうなら、どんなに楽だろうとも思った。魂の存在を信じていたので、自殺をすれば、かの世界にいったときに必ず厳しい裁きにあって今以上に苦しむのではないかと思い、自殺をすることもできなかった。こんな自分が救われる道があるのだろうかと考えていた。
すべての人が救われる道
自分が救われると伴にすべての人が救われる道があると五井先生は説いておられます。五井先生は、そのような道を説く宗教として、阿弥陀信仰と福音的なキリスト教をあげておられます。五井先生は、阿弥陀信仰を「信ずる者は救われる他力門」「霊性の開発」p85と明快に著書に述べておられます。信仰のみで救われる道があることを力説しておられます。また、阿弥陀信仰を神の人類救済宣言であるとも言われています。浄土門を開いた法然と親鸞は、人間の煩悩を問わず、ただ阿弥陀如来の慈悲により救われることを説きました。
キリスト教も、パウロの手紙によれば、戒律を守る行いでは、罪の意識が強まるだけである。人は戒律では義とされない。主イエス・キリストを信じる信仰が神によって義とされる。人間が救われるのは、戒律の行いではなく、主イエスを救世主として受け入れる信仰によってである。義人は信仰によって生きる人であると述べています。阿弥陀如来やキリストの慈悲(愛)を信じることで救われるのであれば、どんな人でも救われます。
現象面での救い
慢性の病気を治してもらったとか、失業していたが、よい仕事を斡旋してもらったとかした場合に、救われたと思いますね。長年の病気を治してもらった場合、本当に命を救われたように思われるでしょう。しかし、また他のところが悪くなったらどうなるでしょう。よい仕事を斡旋してもらっても、また失業するかも知れません。このような現象面での救いは、決して永続的な救いではありません。いつまたどんな災難が降って湧いてくるか分からないのです。
マイホーム主義
誰もが、パートナーが出来て、幸福な結婚をして、子供が生まれ、暖かい家庭に恵まれることを望んでおり、家族に恵まれることが何よりの幸福だと考えています。すさんだ独身だった人が、良きパートナーに出会った時、救いを感じるかも知れません。天の恵みと思うかも知れません。しかし、いくら家庭的な幸福を望んでいても、どんなことが起きてマイホームが崩壊するかも知れません。主人の失業、病気で家庭が壊れるのは、今ではよくある現象になりました。あるいは、性格の不一致や身持ちの悪さから崩れることもよくあることです。日本人の離婚率も今では欧米並みになりました。家庭が崩れると、かっての幸せから一転失意のどん底に落とされてしまいます。マイホーム主義も本当はひ弱な花なのです。
永続的な救い
そのような現象面での救いではなくて、もっと精神的で永続的な救いはないでしょうか。どんなことが起きても希望を持ち続けることが出来るような救いはないでしょうか。実はそのような精神的で永続的な救いこそ魂の救いなのです。魂が救われていれば、人生にどんな波風が立っても希望を持ち続け、不幸、災難が起きても、それを自分を高める試練として受け止め乗り越えることが出来るようになります。
神仏の存在
神仏などあるのだろうか、と思うかも知れませんが、人類の歴史をひもといてみると、偉大な人物は、すべての人が神仏を信じています。日本の歴史でも、世界の歴史でも、私たちが尊敬するような偉人の伝記を読めば、すべての人が神仏や天を信じていることが分かります。事実神仏は本当にましまし、人間と同じような人格を持ち、父母のような慈悲で人間を救おうとなさっています。
神仏の慈悲と愛
神といい、み仏といい、天といっても、呼び方が違うだけで、その本質は宇宙の大生命です。神は限りない慈悲であり愛です。ですから、人間の父母よりもっと大きくて深い慈悲と愛で人間を憐れんで下さっています。人間は神から分かれて来た命ですから、すべて本来神の子です。神は、人間に「愛しの我が子よ」と呼びかけて下っています。人間の親が何よりも我が子を救おうとするように、神は絶対的な慈悲で、すべての人間を救って下さります。
「私は神の愛を、私の肉体を通して、優しく分かりやすく、人間世界に伝えようとしている者であります。神は愛なのです。神は慈愛なのです。人間を救おう救おうとなさっていて、決して罰しようとは思っていらっしゃらないのです。それを誤った人が神の罰を説いたり、心の欠陥ばかりを責め裁いたりして宗教を求める善人を、狭い窮屈な善人にしてしまい、気の強い人をして、宗教の門、神の門から閉め出してしまっているのです。」「武産合気」p24
「神様が罰をあてるのではない。自分が自分に勝手に罰を当てているんですよ。神様は救う方だけなのです。救いたいばっかりですよ。」「五井昌久講話集4」p155
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」ヨハネ3.16
「ところが本当は神様は親なんだから、自分の子供はいつでも可愛い、早く私のもとへ帰っておいで、もう罪なんてものは無いんだよ、帰ってくればいいんだよ、そういってるんです」
「五井昌久講話集3」p25
親鸞上人の言葉
「歎異抄第三条」
「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて(煩悩から離れることのない私たちは、どのような自力行をしても生死を超えることが出来ないのをお憐れみになって、)
願をおこし給ふ本意、悪人成仏のためならば(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、業の深い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。」(阿弥陀仏の慈悲に縋って来ている業の深い人こそ、阿弥陀仏の悲願にかなう者である。
病気や失業、家庭環境など様々なことで苦労すると、自分の業の深さを思い知らされます。また、私たちは、様々な苦労を重ねても、とても悟ることなど出来ず、自分の非力さ感じることの方が多いのではないでしょうか。人間の大部分は、「煩悩具足の凡夫」であると思うのです。
親鸞上人は、み仏の悲願は、そのような「煩悩具足の凡夫」を救うことにあるのだと述べておられます。そして親鸞上人は、「煩悩具足の凡夫」の救われる道があると説いておられます。それが阿弥陀様に縋る信仰です。御仏は慈悲そのものですから、どのように罪業の深い人間でも、必ず救い取って下さいます。
生身のままで
み仏は、煩悩具足の凡夫である、あるがままの生身の人間を救うことを悲願とされました。み仏を信じる心さえあればどんな人でも救われます。そして天とつながります。どんな罪業もみ仏の無量の慈悲を妨げることは出来ません。み仏の無量の慈悲により救われない人は誰もありません。恵みの慈悲の光により、闇であるどんな罪業も消されてしまいます。「こんな自分でも救われているんだ、天とつながっているんだ、有難いなぁ」と思えればよいのです。後はみ仏の慈悲を想い感謝の祈りを捧げていればよいのです。自力的な発想を捨て、神仏信じお任せしましょう。自力には限りがあっても、神仏の慈悲と力には限りがありません。
そうすれば、み仏が、あらゆる手段を尽くして、人間の業を消して下さります。煩悩を自分で消そうとしてもとても消せるものではありません。消そうとすればするほど、余計に意識して自己矛盾に陥ってしまいます。煩悩はそっとしておいて、救いを賜るみ仏の慈悲を想い続けましょう。そうすれば、み仏の光明により業は消えてゆき、執着や煩悩が少なくなり、自然と幸福になっていきます。み仏(守護霊)を信じる人は、必ず人生は光明化していきます。これは、五井先生の堅いお約束です。
み仏(神様)を信じている人は、み仏とつながっていますから、み仏の命(永遠の生命)を受けついでいます。したがって天国浄土に往くことが出来ます。み仏を信じている人は、「弥陀の願船」に乗っていて天国浄土に運ばれて往きます。人生の終着点は天国浄土に行き着くことです。
み仏(神様)を信じている人は、天とつながっており天国浄土(神界)に必ず往生します。そしてこの世でも人生は必ず光明化します。これが「魂の救い」です。み仏(神様)の限りない慈悲(愛)を信じている人は、天とつながっておりどんな時でも希望を失うことはありません。
「いかなる困難な事態がその人の前に起ころうと、守護霊の守りを信じうる人は、必ず、その事態は光明に転じます」
「神と人間」p56
「神と人間について私の言うことを、そのまま素直に実行して下されば、その人が幸福になるのは間違いない。その点、私は、難しい行を少しも説かず、すぐその場で実行にうつせる祈りや行いを書いているのである」 「神と人間」p99
願わなくとも、神様のほうではその人に必要なものを、ご存知なので、いちいち細かいことを神様に願わなくとも、自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っていれば、自分が思っている以上の
物事が与えられたりするものです。 「運命を恐れるな」p226
皆さんが集まって、世界平和の祈りの仲間になって、世界平和を祈って人類の真の平和のために尽くすということも、過去の過去の何億年前から定まっているのです。ですから皆さんは、こういうところに集まったということで、自信を持ったらよい。「私どもは救われているんだ」という大確信をもっていいのです。救われるんです。 「天命を信じて人事を尽くせ」p78
「汝は今日ただ今すくわれたり」と書いて幾らでも判を押しますよ。誰一人として救われない人はいないのです。救われるに決まっている。ただ自分勝手に、業想念が救われないんじゃないかと思っているだけなのです。それは消えてゆく姿なのです。「天命を信じて人事を尽くせ」p85
神様の子で人間なのだから、それは神様が絶対に救わなきゃいけない。全部救うために、守護霊を遣わし守護神を遣わしているんだから、救うのはあたり前なんです。救われるのはあたり前です。ただ消えてゆく姿ということを本当にわかれば、みんな救われちゃうのです。
「天命を信じて人事を尽くせ」p68
助けて下さいとすがりつくのではないんですよ。あなた方はもう救われているのです。人間の
本体は光明燦然たる神様なのです。それがあなた方の本体なんです。肉体はその道具なんです。
その真理を知って、人類と世界を救いたいという大菩薩心を興して、守護霊・守護神につながり
世界と日本の平和をひたすら祈ることです。
「五井昌久講話集1」p.138
「本当の宗教家という者は「神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと本当の地上天国がここに出来るんだよ」というのです。」
「五井昌久講話集5」p67
「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みのあるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰になりません。」「五井昌久講話集4」p11
「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」「五井昌久講話集2」p162
「業があるままでかまわないんだから、喜怒哀楽があるままでも、世界平和の祈りと五井先生さえ思っていれば、菩薩様の本体の所に帰れるんだよ、と易しく教えているんです。ですから、みんな世界平和の祈りと五井先生さえ思っていればいいんです。そうすれば、死んだ世界では必ずいいところへ行きます。私、保証しますから。」「自由解脱への道」p55
どこまでも信じ抜こう
「守護霊(み仏)の導きに従って悪いことが現れた時、動揺してはいけません。これで業が消えてゆく、これで必ずよくなると、その信仰をあくまで堅持することです。これが天とつながる道なのです。失敗しようが、人に悪口をいわれようが、ただただ守護霊(み仏)を信じ切ることです。信ずるより他にはないのです。」「五井昌久講話集1」p48
「魂の救われというものは、必ず最後まで神様(み仏)を思うものの上に輝く。神様(み仏)を想うということは神様(み仏)と一つになるということなんです。守護霊様守護神様(如来様)ありがとうございます、と言うことは、守護霊守護神宇宙神(み仏)と一つになることです。」「五井昌久講話集3」p114
み仏を信じていても、不都合なことは、起こります。み仏は、あらゆる手段を講じて業想念を消して下さっていますが、その一部は、試練のような形で人間にも起こります。
それは「人間に出来うる限りの努力と経験をさせて」(神と人間p52)霊魂の経験を高める為に行います。ですから、人間に起きる不都合なことは、大きな目で見れば必ず人間にとって役立つことであるわけです。つまり、不都合なことは、人間が大きく成長するための試練とも言えるわけです。すべての人間を救おうとされている神仏が、人間に罰を与えることは絶対にありません。これは、五井先生が繰り返し言われています。
どんな試練があっても、善意に受け止め、どこまでも神仏の慈悲を信じて参りましょう。不都合なことが小さくても、大きくても、すべてが己を高めてくれる試練として受け止め、前向きに神仏を信じきって行くこと自体が救われているということです。パウロが「信仰により、人間は義とされる」ロマ3.26「義人は信仰によって生きる」と言ったのも同じ意味です。
「運命から逃れようとせず、出てくるものは潔く受けようという一大勇気と出てくるものは必ず消えるんだ、これでよくなるんだ、守護霊・守護神さんが加護して、必ず消して下さる、と強い信念をもつことが大切なんです」「五井昌久講話集1」p91
「どんな災難や病気や障りがこようと、自分の魂を守護霊さんが強くしようと訓練されているのだ、と思い定めることです」「五井昌久講話集1」p78
「病気、不幸、すべて悪い事態が起こっても、すべてはよい方向に進んでいるのだ、と絶対に想えるようにならなければなりません」「五井昌久講話集1」p22
「最後の最後まで信仰を堅持する者は必ず救われるのです」「五井昌久講話集1」p46
五井先生は救世主
五井先生は神我一体になりきり、主イエスと同じように救世主になられました。五井先生は「信じる者は必ず救われる」と仰っています。五井先生は、主イエスと同じように、私たちの罪業をすべて背負って下さいます。ですから、どんなに罪業が深くても、信じるだけで救われているのです。吾々が五井先生を信じるとき一つとなり、罪業は五井先生がすべて引き受けて下さるからです。
罪業や煩悩は自分でなくそうと思ってもとてもなくせるものではありません。信仰により救世主五井先生と一つになっていることを思いましょう。そうすれば、五井先生がすべての罪業を引き受けて下さります。いつも五井先生の慈しみ深いお心を仰いでいればいいのです。どんな罪業も、救いを賜る五井先生の慈しみの光を妨げることはできません。五井先生と父なる神とは一つです。
「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念でやりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。どうぞそのつもりで。」「魂が大きく開く時」p77
「ところが、この中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明です。その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるのです。どんな体の中にも入れる。」「五井昌久講話集3」p188
「五井先生」といえば神様につながる。つながれば必ず悪いところへはいかない。五井先生というのは、南無阿弥陀仏と同じですね。だから、それだけでもって救われるわけです。」「五井昌久講話集2」p9
「五井昌久という人が現れて、さあ私のことを思いなさい、そうすれば、あなたは救われるんです。五井先生と思いなさい。そうすれば、あなたは神界の本当の住居に行くわけです。」「五井昌久講話集3」p41
「私を本当に信じて下さった方は、必ず成仏するのです。仏になることは解脱するという意味です。成仏までいかなくとも、要するに安らかに往きます。往くべき処に往き、往生します。」「五井昌久講話集4」p7
「だから私にあって、私の教えがいいという自覚が出来た時は、もう救われているのです。」
「五井昌久講話集5」p160
「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、と言う時には法蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって悟れないことになりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百何千何万何十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにかというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。「私に荷物を預けなさい」p38
ここで話をしているのは、皆さんの先祖の先祖の大先祖といえば、守護霊も守護神もひっくるめた元の元が話をしている。その元の元が「お前たちの運命は私が引き受けている、心配するなよ、救ったんだよ」と言っているのです。それが、この場所である五井先生という肉体を通してしゃべる。それを霊的にみれば、ここに光り輝く大光明がある。キリストや仏陀が立ったり、白髪の老翁が立ったりするのだけれども、それはみんなこの中(自分を指す)にある。それは今に分かる。必ず分かるのです。「私に荷物を預けなさい」p39
「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんなもらってあげましょう、というんです。」「五井昌久講話集3」p12
「守護霊さんや守護神さんが、肉体の身代わりをして、原罪をかぶって下さって、救ってくれるわけです。だから、守護霊様、守護神様有難うございます、というふうに祈るべきなんです。」「心貧しき者は幸いなり」p148
「みんな消してくれるのが神様、それは守護神ですね。守護神に消してもらいながら、真実の自分の本体直霊(人間の親神様)とつながっていく。それで天と地とがつながってゆくと地上天国が出来る。」「五井昌久講話集2」p101
「みんな私のことを想いなさい、私がみんな(業想念)引き受けます、というからには、私は命をはっているのです。ここにいる人以外の人の思いでも全部背負うでしょう、家族の者も全部背負うんですよ。私がみんな神様の方へお返ししてあげます。そうすると皆さんの命が光輝いてくるわけです。」「五井昌久講話集3」p15〜p17
「病気は世界平和の祈りの中にもっていっちゃいなさい。迷いも世界平和の祈りの中にもっていっちゃいなさい。それで足りなかったら、五井先生と言えばいい。私が引き受けます。貧乏でも病気でもみんな引き受けます、と言っているんだから、こんな楽なことはないですね。」「私に荷物を預けなさい」p175
「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」「永遠のいのち」p132
たとえ不信感があっても
たとえ、本当に救われるんだろうか?という不信感があっても、それも消えてゆく姿(煩悩)です。そのような煩悩があるままで救ってもらえるのです。それが神仏の限りない慈しみであり愛なのです。自分で不信感(煩悩)を消そうとしてはいけません。そう思えば思うほど意識して不信感は強くなってきます。煩悩はすべて五井先生にお委せしてしまいましょう。
「呼べば必ず救われる」「私に荷物を預けなさい」p.37
「呼べば必ず救われる」と五井先生は仰っておられます。業想念に蔽われて、たとえ心に不信感がわいてきても、五井先生を呼んでいれば十分に神様とつながっています。五井先生を通して神様とつながっているからです。人間の本体の神の子が五井先生を呼んでいるからです。「神様はすがってくる者を決して見放したりはしません」
五井先生は「私に荷物を預けなさい」と仰っています。すべてを引き受けて下さる五井先生の尊い慈しみを信じ続けて参りましょう。「その人に天国の冠が輝きます」
世界平和の祈り
神様ありがとうございます 神様の限りない慈悲により天とつながり、救われていることに感謝致しましょう
世界人類が平和でありますように 私たちが救われると伴に、すべての人が救われるように菩薩の祈りを捧げましょう
業深く 何も叶はぬ 身なれども み仏のみぞ あはれみ給ふ
業深き 己を捨てて み仏の 尊き願に 救ひありけり
み仏の 願を信じる 真心は 菩薩の心 如来の心
煩悩は あると言へども 親心 すべてを流し 天に迎へん
救世主 五井先生は 説き給ふ 我に任せよ すべて任せよ
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B.G.M.の解説
モーツアルト 聖歌「いと喜ばしき宴」
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