なぜ他力なのか

現代の世間一般の考え

幸福は自分で努力して得るものである。信じられるのは自分だけだから、人に頼ってもしようがない。まして、あるかどうかも分からない神仏に頼るのはナンセンスである。宗教で、神仏に頼るのは、自分の努力から逃げることで卑怯ではないか。このような考えが世間一般の常識論だと思います。私も、このような考えを長い間抱いておりました。

人間の理性

私は、大学で西洋哲学を専攻しプラトンを研究しました。プラトンの対話編を読むと「魂の不死」「人間は、正義や美を追究しなければいけない」「不正を行うよりも、不正を受けた方がましである」「普遍的な真理は存在し、それを追求しなければいけない」というようなことが、ソクラテスと彼をとりまく青年との対話で、次第に明らかにされていきます。対話により一問一答えの積み上げにより、次第に真理が明らかにされていくことに感銘し、私は、すっかりプラトニストになっていました。わたしは、人間を理性を信頼し、人間は理性により議論を重ねれば、必ずすべての問題は解決できると信じていたのです。

悩みがないのが悩み

大学を卒業し、就職して地道な努力を重ね、結婚もし、可愛い一児を設け、職場で役職もつき、「悩みがないのが悩み」だと人に言ったりしたことがありました。人生の一時期には、このような「悩みがないのが悩み」という時期が一度はあるものです。自分の努力で築き上げたことに自信を感じ、何か自分が一門の者のようにかんじ、役職がつくと次第次第に傲慢になっていたように思います。周りの人を見下すようにもなっていたようにも思います。しかし、「悩みのないのが悩み」という時期は長くは続きませんでした。

うつ病になる

45才のころ、仕事のストレスやその他の様々な要因が重なりうつ病になり、休職を余儀なくされて、妻子とも離別して、たちどころに失意の底に落とされてしまいました。人生に悲観的になり、自殺願望がでることもしばしばでした。

ひ弱な花

我々が幸福と感じている状態というのは、実にあやふやなシチュエーションの上に成り立っているに過ぎないのです。安定した職業に就いている。人並みの家庭がある。仕事も順調である。という好条件が重なった時そのように思えるのです。しかしです、そんな好条件が半永久的に続くでしょうか。人生には何があるか分からないのです。病気になり仕事が続けられなくなる、事故に遭い肉体的な打撃を受ける。人間関係のきしみからノイローゼになる。会社が倒産して失業する。可愛い妻子が大病になる。このようなことは、いくらでも身近に存在するすることです。一生に一度もこのような目に遭わない人は、本当に幸運な人です。自分がこの様な目に遭わないという保証は全くありません。

我々が、幸福とよんでいる状態というのは、たまたま好条件が重なった時のことであり、それは実にひよわな花に過ぎないのです。

真実の幸福とは

それでは、真実の幸福とはどんなことをいうのでしょうか。それは、世間の荒波や、身に降りかかる災難に対しても対応できるような幸福ということになります。不慮な事態に遭遇しても、自暴自棄にならない信念のようなものがある状態であること。このような信念を持っている人は「ひよわな花」ではなく「シチュエーションに左右されない幸福」をいだいていると申せましょう。
このような信念を持っている人を一種の「悟り」を得ている人と考えることにします。

悟りを得る二つの道

悟りを得るには二つの道があります。
自力で悟る道
自分より大きな存在(神仏ようなもの)に助けをかりて悟る他力的な道

自力で悟る道

禅やヨーガのような瞑想法で自分の心を自在にコントロール出来るようにして、環境条件に左右されない精神状態を形成する。または、スポーツに打ち込んで、強い体力や精神力を築き、いざという場合に備える。等々

他力で悟る道

人間よりより大きな存在者の助けを得て安心立命していく道。等々

どちらが好ましいかは選ぶ人の自由ですから、どちらが正しいとは言い難いと思います。

五井先生が勧められた道

五井先生は、その教義の説明でこのように語っておられます。

肉体人間だけでは弱い存在にすぎない

人間は神の分霊であり、神の子であるけれど、分霊としての自分一個人、肉体人間一人の存在として生きている限りは、この世において、神の子の姿を、はっきり現すことはできない。少しぐらいの善意は、この世界の激しい業想念の波の中ではすぐに蔽われてしまう。人間は業生でないといっても、真実の生き方を知らないでは、業の子と同じように、悪行為をしないでは、生きてゆかれないようなことになってしまう、と考えるのであります。

救世主である守護の神霊との一体化

人間の過去世から今日までに至るまでの誤てる想念、と教義にありますのは、このことでありまして、この業想念波動を超えて、真実の神の子人間をこの世においてもあの世においても現しうるのは、先ほどから申しておりますように、真実の人間の在り方である、守護の神霊との完全なる一体化がなされなければ、到底だめなのであります。

神の子を現すには神からの助けが必要である

何故かと申しますと、分霊魂泊の人間だけでは、激しく渦巻いている業想念波動の壁を突っ切って、高次元の微妙な波動の世界の自由性を現すことは出来ないからなのです。神の子の本質は、その本住の地である、高次元波動の世界(神の国)から、絶え間ない、光明波動を流入してもらっていなければ、現し得ないのです。

阿弥陀信仰、キリスト教の意義

そこで、人間は凡夫なのだから、阿弥陀仏の御名を唱え、阿弥陀仏のみ心の中から改めて真実の人間の生き方を頂き直すという唱名念仏の教えが生まれたのです。また、肉体人間では何事もなしえない、イエスの御名をとおして神につながるのだ、というキリスト教の教えがあるのであります。以上が五井先生の教義の説明です。詳しくは「五井先生のみ教え」の「五井先生の教義」を参照

釈尊やイエスも守護の神霊により覚者になった

釈尊は、自分一人で悟ったように思われているが、「苦行は悟りの因にあらず」として神霊の導きで正覚を得た。キリストも生まれながらに神の子であったと言われているが、神や多くの天使に導かれて救世主になった。と五井先生は語っておられます。

五井先生の正覚

五井先生は、正覚を得るのに、想念停止の徹底した訓練をされますが、これは、五井先生が自分で始めようとした修行ではありません。すべて、守護の神霊の命令によってなされました。全くの他力的な修行であったわけです。その修行に、五井先生の意志は全く働いてはおりません。すべては守護の神霊の御心に従う全託の行であったわけです。

役行者の悟り

役(えん)の行者は、おおよそ飛鳥時代の人で、日本の修験道の開祖になった偉大な聖者です。彼は初め観音菩薩の助けをかりて修行しておりましたが、その観音菩薩像も谷底に捨ててしまいました。自力一本で修行し、自分の肉体を霊化してしまい、天に昇りますが、その世界は計り知れない高さがあり、自力で行くことの限界を悟り、その悟った瞬間に宇宙神と合一して正覚を得たのです。その役の行者が五井先生の守護神で、五井先生に他力の道を勧めていると、五井先生は法話の中で仰っておられます。

完全自力はありえない

自力で出発しても、釈尊も役の行者も自力の限界を知り、他力に委ねて正覚を得たわけで、完全な自力というのは本当はありえないと五井先生は語っておられます。

凡人の道

まして凡人で、激しい修行に耐え得ない者にとって、そして、いくら修行しても悟りを得ることの容易でない者にとって、自力の道を行くのは容易ではありません。行きたい人は、自分でされてみるといいのです。それから考えてもいいでしょう。自分が凡人であると感じる人は、五井先生が勧められる他力の道を行かれる方が、早く悟れるのは必定です。

光らなければ光に乗せてもらう

五井先生の言葉に
「自分が光らなければ光に乗せてもらえばよい」というみ言葉があります。自力の道は自分が光ろうとする道といえます。それに対して、他力の道は、光に乗せてもらう道といえます。主イエス・キリスト、阿弥陀仏、五井先生・・・の願船に乗せてもらうのです。乗せてもうための条件はありません。誰でもが、希望するすべての人が救いの船に乗ることができます。救いの船に乗れば、五井先生がすべて責任をもって神界に連れていって下さるのです。我々は五井先生に任せておけばいいのです。これが全託です。

煩悩をもちながら乗っていればいいのです。業も往生する前に五井先生が責任を持ってすべて消して下さいます。

「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。」

これらのみ言葉は、五井先生の直接のみ言葉なのです。主イエス・キリストも同様の言葉を福音書に見ることができます。浄土三部経にも、同様の救いが釈尊の言葉で語られています。その真理は、一つで、神仏の無量の慈悲の御心を表しています。なんと有難いみ言葉ではありませんか。我々は、五井先生のみ言葉を堅く信じて、「世界平和の祈り」をお礼の言葉のように思って祈っていればいいのです。どんな荒波が来ても、このみ言葉があるかぎり希望は消えることはありません。例え、前世の悪縁の業が尽きて炎に包まれようとも、御名を唱えれば救って頂けるのです。最後まで、信仰を貫くだけです。天国・浄土は目前にあるのです。いや、自分の心の中にあるのです。信仰があるかぎり。

救世主 五井先生の み心は 無量の慈悲で すべて救はん

救世主 五井先生の み心を 思ふにつけて 袖をぬらしつ

前生の 悪縁尽きて 燃ゆるとも 御名を唱えて 往生すべし

自分で煩悩をなくすことは出来ない

よーく考えてみて下さい。自分で自分の煩悩を消すことが出来ますか。次から次へと湧いてくる煩悩を自分で鎮めることは不可能に近いのです。一時的な消滅は出来るかも知れませんが、全面的な消滅は、守護霊・守護神・五井先生にお任せするしかありません。そして、きれいに浄化して頂いてこそ、神界に往けるのです。自分独りといきがっていては、結局自分の想う世界しか往くことしかできません。神仏を想わない人には、神仏は現れません。完全否定すれば、神仏のいない低い世界を彷徨うしかないのです。あの五井先生が仰っているのですから、謙虚に受け止める必要があります。

すべての人を救う宗教

宗教は一部の特権階級のものではありません。一部の優秀な人のものではありません。最も弱い人たちを救うのが宗教の勤めなのです。優秀な人は、神仏など考えなくともなんとかやっていけます。藁にもすがりたいという人を真っ先に救うのが宗教なのです。それでこそ、すべての人を救う宗教になりうるのです。神様はすべての人間の生みの親です。その子のすべてを救おうとなさっているのが神様なのです。だから、一部の人しか救えないものを要求されるされるはずがないのです。法然、親鸞の阿弥陀信仰、福音的キリスト教、五井先生のみ教え、これらは、すべての人を、一人ももらさない教えです。他力信仰こそ、神の御心にかなった教えだと思います。

人間は本来菩薩である

人間の心の奥には、菩薩心があります。例え自分独りが救われても、それで、良しとしない心があるのです。自分だけではなくすべての人を救いたい。これが人間の本当の心です。であればこそ、すべての人が救われる道を進むべきなのです。それがヒューマニズムであり、本当に世界を平和にし、幸福にするに道だと思います。


既にもう み国を継ぎし 嬉しさよ すべてを救ふ 神の大愛



B.G.M.

ハイドンのミサ曲第2番「大オルガン・ミサ」 

              サンドメニコ礼拝堂    ヴェネチア





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