運命愛

善なる神

この宇宙を創造し運行しておられる神は、善なる存在です。神は大きく分けると三つの姿をとって働かれています。これを三位一体と言ったりします。天において、宇宙のエネルギーの根源、法則として、働いている神(法則の神)、神の分生命である人間を救うために働いている守護神(救済の神)、人間の中に存在して、人間の愛や生命の根源になっている神(内在の神)。神は絶対善ですから、その神の姿である宇宙も、常に最善に動いているのです。

悪や不幸は何故あるのか

悪や不幸は、人間が、神の御心に従わないで自分勝手なことをしたり、自分勝手なことをした想念が悪や不幸という形で消えてゆく時起こります。人間には、万物の霊長としての自由が与えられています。人間が神の御心に反した言動をとると、それは業(カルマ)として潜在意識(幽界)に溜まり、それが臨界点を超えると、災難、苦悩という姿をとって消えてゆくわけです。御心に叶った言動をとれば、それは祝福として返って来ます。すべては自業自得ということになっているのです。善なる神は、善であればこそ、人間の自由を尊重しているのです。善なる神は、人間を神のロボットにするのを望み給はないのです。

神仏を信じている人にも、不幸や災難があるのは何故か

神仏を信じて救いを受け入れた人は、すべて神の子であり、菩薩です。
にもかかわらず、煩悩があり、不幸災難があるのは何故でしょうか。

人類が長い年月に溜めた業想念が、この地球界(幽界)に渦巻いています。神の子であり、菩薩である人が、犠牲になって、人類の業想念を浄めているからです。何故そんな犠牲にならなければいけないのでしょうか。

それは、神の子・菩薩は、心の底で人々を救いたいと思っているからです。そのためには、自分も人々と同じような苦労を味わって、人の心が分からなければ、人を救うことは出来ません。つまり、体験を深めるために、人類の業想念を背負って苦労を分かち合っているのです。だから、神を信じているのに、不幸災難にあっても、嘆いてはいけません。むしろ、人類の救いのために犠牲になっていることに誇りを感ずべきです。

「人の苦しみと自分の苦しみが合体して、人の苦しみが自分の苦しみになった時、
初めて救いというものは成就するんですよ。頭ごなしの説教はいらない。私は
そう思うんですよ。」


自分に煩悩があり、不幸災難があっても、決して自分を責めてはいけません。神の子を責めるのは、神を冒涜する行為です。神が悲しまれます。自分を責めるのもまた煩悩です。むしろ、人類の業想念を浄めているのですから誇りを持つべきです。

天台大師

中国の隋の時代に出て、仏教哲学を完成した聖人天台大師に
「願兼於業」(がんけんおごう)(出典日蓮の御書)という教えがあります。菩薩は、あえて生まれてくる時に業を背負い、伴に苦労を分かち合い人々を救う、という教えです。天台大師は、次に生まれてくる時は、ハンセン氏病になって生まれることを願ったと言われています。

内在する神

神とは、天高い処におられるような気がしますが、実は我々の内側にも、命や愛の根源としておられるのです。体内の諸器官がなぜ命令もしないのに動いているのでしょう。生命エネルギーは何処から来ているのでしょう。本当に不思議ですが、生命エネルギーは命の根源である神から来ているのです。人間の思考力や創造力も、同じく内在する神から来ています。ですから、神様は遠いようで身近な存在なのです。心臓や肺を瞬々刻々動かしているのは、人間の内にいます神様なのです。このように、人間と神とは切っても切れない関係で親子のような関係といってもいいわけです。人間の内側には神様がいて、人間と一つになって動いておられるのです。また、外側には守護霊・守護神がいて内側の神様と伴に人間を導いています。

すべては最善

「この世界は、諸神善霊によって守護されつつ、真実の肉体人間の完成の道を、
突き進んでいるものであることを知った時の喜びは、筆舌には尽くし得ないものでありました」

神様は、人間の内にも外にもおられて、人間を常に導いておられます。それは、心臓や肺が瞬々刻々動いているように、休みなく導いておられます。神様は絶対善ですから、その導きは最善です。例え、人間には不都合なように見えることが起きても神の導きは、常に最善なのです。神仏を信じている人にとっては、先ほど述べたように、不幸災難が起きても、人類の業想念を浄めているのですから、人類に貢献しているわけです。ですから、どんな運命が待ち受けていようとも、それをありのままに善なる神仏の御心として素直に受け止めていかなければいけません。

「どんな災難や病気や障りがこようと、自分の魂を守護霊さんが強くしようと訓練されているのだ、と
思い定めることです」

「病気、不幸、すべて悪い事態が起こっても、すべてはよい方向に進んでいるのだ、と絶対に想えるように
ならなければなりません」

五井先生の以上の言葉をよくよくかみしめて、どんな運命に遭遇しても、善なる神の導きを信じて、素直に運命を受け入れましょう。救って下さった神仏を愛するように、運命を愛することが出来たらよいと思います。

すべてを受け入れて自由になる


人間の苦悩や束縛感は、運命を素直に受け入ることが出来ないことから起こります。不平不満が、人間を縛るのです。もし、すべての運命を素直にしかも楽観的に受け入れることが出来れば、その人は精神的に真に自由な人です。悟りというのも、そのような人の精神状態をいうのです。

すべては神仏の御心

「普通、有利な時には『有り難うございます』は誰にでも出来る。ところが、有利でない場合に、ああこれでいいんだな、有り難いな、と思うような人間にならなきゃダメですね。そういう人間にするために宗教もあれば、いろんな艱難辛苦というものがあるんです。」

「心が『ああこれでいいんだな、すべてはみ心のままなんだな』というところまで入って行かない限りは、何処までも、何処までも追いかけられます。」

自分に不都合なことが起こっても、すべてはよい方向に進んでいるんだと思えること、さらには、すべては善なる神仏の御心と楽観的に受け止めることの出来る人は、不平不満のない悟った人であると言うことができます。

大宇宙 善なる神の み姿は 御心のまま 常に動かん

人間の 内なる神の 導きは ありのままにて 法(のり)に適はん

運命の 現れ消える 行く先は 常に善へと 向かひゆくべし



B.G.M.

枯葉  SARAH  VAUGHAN

  



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