運命を恐れるな

運命を恐れるな

人間の不幸災難は、神様がつくられるのではなく、人間自体の過去生からの誤った生き方の答えとして、そこへ現れてくるのだから、悪い答えの出ないうちに大調和そのものである、神様の御心の中に、自分の運命ごと飛び込んでしまいなさい、と私は言うのです。p9

人間は常に神霊である自己の方に想いを向けて、神様のみ心のままに生活をつくっていけば、不幸災難のない調和した生き方が出来るのであります。p11

人間の運命に対して不安や恐怖をもつのは、人間は神の生命を生きているんだ、神によって生かされているんだと言う、神との一体観を持っていないからなので、神様がすべて見ていて下さるんだと言う想いを根本にして、後はその場その時々を真剣に生きればよいのであります。p.13

神様は愛なんだということ。神様によって生かされているんだということ。
この二つの真理を知っていることは、人間が生活していく上に非常に大きな力となります。そして神様の御心である愛と調和と誠実の行為をしてゆけば、その人にとって恐ろしいものも、不安な想いもないのであります。p13

皆さんは、ご自分の生活に不安をもったり、運命を恐れたりすることはありません。日々瞬々世界平和の祈りを祈り続けて行きさえすれば、あなた自体がいつの間にか光明化し、未来に来たるべき悪い運命も、自ずと消え去ってゆくものであります。守護の神霊方がその光明で消し去って下さるのです。p16

もっと自分を掘り下げよう

何事も神の力なくして成し得ないという深い信仰に立って、そこから、神と人間との関係がわかってくるのであります。しれが真実の宗教心というものであって、貧乏を直して貰う、病気を治して貰うというだけの宗教入りとは、その根底の考えが違っているのです。p.34

悟った人という者は、すべては神のみ心の現れであり、この現象世界は進歩向上しながら変滅してゆく世界であることをはっきり知っていますので、咄嗟に消えてゆく姿なのだと、光明心の中に入れることが出来るのです。p.39

運命をひらく

人類は一度、人間の本質である汚れなき生命の世界、大光明波動の神の世界に、すべての想念行為をお還ししなければ、もはやこれ以上の運命の進化は望めず、滅亡一路の道に突き進んでゆくことになるのです。p.50

そのことがはっきり分かっていながら、どうにもならないことがあるということは、肉体人間としては、どうにもならないのだという罪悪深重の凡夫観が必然的に生まれてこなければならないのです。そのような考えにならないのは、真剣に生きていない証拠なのです。p56

人間が立派になる四つの大事なこと

この肉体身が自分のものであると思っている限りは、真の勇気は湧いてまいりません。この肉体身も霊身もすべて神様のものであって、大神様のみ心のままにして頂ければよいのだという深い信の心が、真実の勇気を湧き上がらせる源泉になるのです。p.73

真に生きる

私が祈っていますと、私の生母と同じように、守護の神霊の明るいお迎えを受けて天に昇っていったのです。二人の母(祖母)とも、特に秀れた人でも、社会のために駆けずり廻って働いた人でもないのですが、ただ私にすがっていれば楽に昇天できることを信じて疑わない信の心と、一生律儀に生きた真面目さが、その成果を現したのであります。p.78

生まれ出ると言うことと、死ぬと言うことについて、人類はもっと真剣に探求してつづけならないのです。こういう重大な二つの問題をないがしろにして、枝葉の問題とも言うべき諸々のことに血道をあげているのが世界の現状のような気がしてなりません。p.88

日々瞬々刻々の善き道をゆく習慣づけこそ、顕在意識と潜在意識との調和を成し遂げてゆくものでありまして、消えてゆく姿で世界平和の祈りによる光明思想を、自己の全人格として生きてゆくことが大事なのであります。p.93

生かされているのだ

簡単にいえば、守護神のみ心のまま、直霊のみ心のままに生かされきってゆくことが一番賢明な生き方になってくるわけです。しかし、この生き方を常に邪魔しているものがあるのです。それは何かといいますと、肉体自我による様々な感情想念や、その行為なのです。・・・私はそれを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に、すべての想念行為を投入しつつ生活する方法をすすめているわけなのです。法然親鸞の一向専念念仏の生き方の現代版なわけです。p.96

もちろん喀血そのものは、しかし私のこの場合には、それは当然最後的なものであった。もはや絶体絶命である、心身から一切の自分というものの力が抜け去って、無力の極点に立たされた私は、もはや焦ろうにも焦ることの出来ぬ、土壇場に窮しきって、身も心に、ただもうも運命のなすのがままに投げ出して、うち任せる他には、何の道もなかったのである。
私はここで、しみじみと生命の神秘を思わずににはいれない。私が自己の無力に徹しきったこの時こそ、実に救いにあずかる、最大の機縁となったのである。あの極点に達した迷いと悩みこそ、悟りと法悦に入る、大道であたのである。p.100

苦しみや不幸は、そのまま苦しみや不幸ではない。魂を浄め魂を鍛え、魂を大飛躍させるスプリングボードだ。くの苦しみが過ぎれば、魂は大飛躍するのだ。p106

そのままの生き方

自己の大半定まっているような運命を、最大に開運し得る方法があるのです。それは、常に自己の全想念を神のみ心の中に投入して世界平和の祈り一念で生活することなのであります。神の光明に幽体に蓄積されている業想念が浄められますと、そこに新しいその人の神のみ心そのものの運命が開かれてくるのです。p.126

善も悪も、この世における種々様々な想念行為をすべて消えてゆく姿として、世界平和の祈り言を、神のみ心に昇るエレベーターとして生活してゆくことが、取りも直さず、自然法爾の生活であり、本体そのままの生き方であると説いているのであります。p.128

人間らしい生き方

人類誕生以来今日まで、生存しつづけ、発展しつづけたのは、自己保存の本能があったからではありますが、人間の悲劇も常にこの自己保存本能によって起こっているのです。ですから、この自己保存の本能を、単なる肉体的なもの、物質的なものとせず、永遠の生命自体のものとして、昇華させてゆかぬ限りは、人類の存在は次第に危うくなってゆくのであります。p.132

自分の運命は自分自らがつくるものであって、地球人類の運命は地球人類そのものがつくるものであります。幸せになるのも不幸になるもの、すべて自らの生き方いかんによるのです。その生き方の答えは、動物性を超えた真の人間になれ、ということなのであります。p.136

世界平和の祈りは、そのままが神のみ心であり、神の子人間の心でもありますから、神の光明が心の中に充満してゆき、業が急速に消されてゆき、汚れた水がいつも間にか綺麗な水に入れ代わってゆくのであります。・・・こういう方法を取れば、現世利益を願いながらも、祈りがそのまま天への道につながっていって、いつの間にか、本心が開発され、真人の姿が現れてくるのです。・・・現世利益の道がそのまま、宗教の奥義の道となり、精神純化が自然になされてゆくのであります。p.142

天命をその立場において生かせ

人類がこの業想念に踊らされて動いている限りは、神のみ心の力がそのまま、この世の在り方としては現れませんで、動物と同じような、自己保存の本能的な生き方がつづけられまして、争い事や不調和な出来事がつづいていくのであります。p.148

この世は弱肉強食の世界であるといわれていますが、これは神のみ心の現れとしてそのようにあるのではなく、神のみ心がそのままはっきり現れ切らないために、そのような状態になっているのです。p.150

道というのは、神の道、つまり祈りの道なのであります。祈りとは、神にすべてを託して自己の本心を開発する方法です。そうしますと祈りによって自然と道は開かれてゆきます。そういう生き方をしていますと、その場その時々その一瞬一瞬がその人にとっては、天命を完うしていることになってゆくのです。p.153

神の存在を肯定し、神の愛を信じる信仰心というものは、神が大調和であるということが基本になっておりまして、大調和である神のみ心が、やがては必ずこの地球界に現れるのだという確信によって起こっているのですから、世界平和、地上天国というものは、単なる夢ではなく、やがて現実になる理想なのであります。p.156

この日本国に一番必要なのは、真の宗教と、平和を生み出す科学であります。現世利益だけ謳う宗教や、うっかりすると宗教戦争でも起こしそうな宗教などは日本に不要です。p.157

宗教者は医師のように、病気という現象を癒やしてその人を救うというより、あらゆる現象の不幸災に捉われぬ心を開かせるというところに重点があるのでして、それが一歩進むと、病気も不幸災難もその人に出てこないという深い心になりうる道も開き得る程になれるわけですから、この天職にある人は、余程に自分自身の心に磨きに磨いておかねばならぬわけです。p.158

業想念波動である小我を、すべて神のみ心にお還しして、神の御心のままを自分の想念行為にしていくというくらいになっていないと、なかなか人々の本心を開発させ、安心立命の道に導き入れることはむずかしいのです。「運命を恐れるな」p.159

救われと救い

現世利益を土台に入った宗教の道であっても、あなたの守護の神霊は、あなたの本心の開発を願っているのだから、嫌応なしに現世の利益を超えた生命の自由自在の働きのできる宗教の悟りの道にあなたを引っ張っていってしまう。真実の信心にならぬ限りは、現世における不安恐怖の想念の波があなたに蔽い被さってくるのだから、どうしても本心開発の道に進まなければいけなくなると説いているのであります。p.163

宗教の根本というものは、この世の生死を超える心、つまり永遠の生命を、今ここに生きている自分と全く一つにつなげきってしまう道、永遠の生命と融合してしてしまって、永遠の生命を自己のものにしてしまう道を説いているのでありまして、その根本に入ってしまうと、その他のことは皆枝葉のことになり、心が自由自在になり何の把われもなくなってしまうのであります。p.163

浄土門易行道といいますと他力行でお任せで、自分で努力したり修業したりすることのいらない道であると思い違えている人もありましょうが、生死の大事を乗り越える心に成り切る悟りへの道を、自己のものとするのに、何の努力や修業のもいらないなどどと思うのは、実にうかつな考えであります。p164

阿弥陀仏にすくい取られるというからには、阿弥陀仏にすべてをお任せしきらなければなりません。お任せもしないで、この世の不安恐怖、それに伴う欲望、あの世のことへの不安恐怖を持ちながらでは、南無阿弥陀仏と御仏にすがりきっていく意義が薄れてしまいます。このお任せする努力、全託への修業ということは、どうしてもやらなければいけない重大事です。p165

自分を業の中に多く置いておくか、神仏の中に大きく置いておくかによって、その人の救われが大きくもなれば小さくもなるもので、自己の想念波動の在り方によって、その人の救われ方も決まるわけです。p167

この世の人々は、親鸞のいうように、いずれも罪悪深重の凡夫であります。この罪悪深重の凡夫は、いくらたっても仏子にも神の子にもなりません。この罪悪深重の凡夫を、どこかに無くしてしまわなければ、神の子、仏子は出てまいりません。浄土門ではこれを南無阿弥陀仏の中に無くしてしまおうとする。私のところでは、世界平和の祈りの中に入れて、救世の大光明波動で消し去って貰うのであります。p169

自己一人が救われる南無阿弥陀仏ではなく、自己が救われると同時に世界人類が救われるという南無阿弥陀仏でなければならないのです。浄土門と法華経が一つに結ばれ、往相(救われる姿)と還相(ゲンソウ救っていく姿)とが全く一つに融け合って行為とならなければならぬのです。p171

個人でも人類でも同じでありますが、その業因縁の消えてゆく姿として起こってくる、悪いこと、不幸なこと、その消えてゆく姿を掴んで、歎いたり怒ったり、不安になったり恨んだりしていたのでは、その業因縁は消えはしないのですから、それは潜在意識に溜まっていた業想念行為が、神のみ光によって今消し去られようとしてるのだ、と言う真理を知ることが大事なのです。p.173

如何なる業因縁も、神の光明を蔽うことは出来ないのですから、必ず消え去っていくのです。その消え去っていったものを、再び掴み取る愚かしいことをしないことが肝心です。p174

肉体身の自分の想念行為を、すべて神のみ心の中に入れきってしまって、神のみ心の中から改めて自分の運命を頂きなおすという風になりますと、自分の肉体生活を自分で守るのではなくて、神の力によって自分の肉体生活がなされてゆくという自覚が出て来ます。p175

消えてゆく姿で世界平和の祈り、それでいいのです。世界平和の祈りをしたらその時その人は救世の大光明の一員として大神業をそのままやっているわけなのであります。p174

悪や不幸を超える生活

時代がどんなに悪そうな暗い時代であっても、神の大愛を信じて、すべてを善くなるための修練と思っていたら、その人は幸せなのです。p197

常識的には悪い環境に済んでいるように見えても、その悪い環境がかえって本人のためには、より広い善い環境に入りうる場となることがあるので、自分を暗い想いのほうに引き込んでしまって、ダメだとか不幸だとか言っているのは、全くつまらないことです。p197

神は大親様であり、人間は神の子である、人間の運命のすべては、神の御心の現れとしてあるのであって、悪や不幸のように現れている場合でも、より大きな広い善の立場に、その人を進化させるためのものであるというように、神の大愛を信ずるようにすることが大事なのです。p203

全くこの世における一挙手一投足を、善だ悪だ善だ悪だと考えて生きていたら、どんなに神経の太い人でも、心が暗くなってしまうし、頭が疲れてしまいます。善悪などはいちいち考えて行動するのではなく、自然に行為されてゆくものなのです。p207

肉体人間の内部に働いている神の力と、外面的に働いている神の力とを一つに結びあわせてこそ、真実の人類社会、平和で文明文化の開花している人類社会がつくりあげられてゆくのです。p211

全託について

生命の本源は神と名付けられている絶対者なのですから、神はまず最初に、自己自身と一つの者であるということに思い至らねばならないのです。それをどうも、自己自身から神を外部に遠ざけようとする信仰態度が、いつのまにか生まれ出てきてしまったのであります。p216

業想念的な自己を無くすことは、神の御心そのものの全知全能の世界が出現してくることは、非常に得なことであり、幸せな喜ばしいことなのであります。

神は大調和の実体なのです。そして人類は神の生命の現れなのです。その人類が、不調和の状態にあるとすれば、それは、神の全き御心が現れる過程の一時期の状態であって、そんな不調和な状態が、永遠に続くものではない、ということを私たちは知っているのであります。p220

全託の境地というとどういう境地かと申しますと、すべては自分でするのではない、神仏のほうからさせて頂くのだ、ということになるのです。頂く、という境地になってきますと、全生活に不平不満がなくなってきて、ただ、有難いという感謝の気持だけが残ってくるのです。p221

もし不幸災難があれば、それは過去生からの業因縁が消えてゆく姿であって、同時に自己の神性が開いてゆく有難いことであるということが、力まずに自然に思えて来るのであります。真実の妙好人の人たちは、皆この境地になっていた人のようであります。p221

私なども自分の力でしていることは、何一つとしてないことをはっきり知っているので、すべてのことがらを、ふんわりと、自然方爾に処しているわけなので、力んでやったり、気張ったり、気取ったりすることはありません。p222

すぐに全託の境地になれる人などは、なかなかいないのですから、自己にまつわる様々なカルマの波を、守護神、守護霊に消滅させてもらいながら、自己の生命の本源に入って行くことが、容易で危険の無い方法なのです。その方法の最も端的で、しかも容易に出来るのが世界平和の祈りなのであります。p223

神様という者は、お願いしたから何でも願い通りにして下さるというものではなく、神様の大愛を信じて生活していれば、自然と神と一体の心境になり、心身共に平安な気持ちになりうるのです。p226

願わかなくとも、神様のほうでその人に必要なものをご存じなので、いちいち細かいことを神様に願わなくとも、い自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っておれば、自分が思っている以上の事物が与えられたりするのです。
p226

私の方では、どんな小さな家でもよいと思っていたのに、神様の方では、五万や十万の家ではお前にふさわしくない、というので、遠慮している私の気持ちなど問題にせず、敷地百坪という家を私の住居にして下さったのです。私のやり方は、すべてその方式で、神の御心の現れるままの生活をしているわけで、こんな暢気な生き方はないのです。p227

神様の世界というのは、実に調和した明るい楽しいなのです。この地球界の現象的な風光のいかなる美しさも、神の世界の美しい響きには及びもつきません。この現象界は、神の美しさのほんの一つの現れにしか過ぎません。p228



五井先生のみ教え