親鸞和讃を詠もう


                                                                                        山越阿弥陀図

 親鸞上人は、法然上人に帰依して、浄土門易行道を確立しました。法然上人は布教に忙しく、口頭で弟子に書き取らした「選択本願念仏集」があるだけでした。教団の迫害があり、親鸞上人は、、越後に流されてましたが、その地で法然上人のみ教えを布教しました。親鸞上人は、あくまでも法然上人の教えを宣布し、確立する為に尽力されました。親鸞上人を浄土真宗の開祖とするのは、後の時代のことです。

その後関東に行き、東国で布教に努めるかたわら、浄土門の教えが正統な仏教であることを証した大著「教行信証」を書き上げました。「教行信証」は、当時の宗教界の共通語であった漢文で書かれています。浄土門がインドから中国、日本に伝わって来たことを説明し、浄土門が仏教の正統な教えであることを証明しました。

晩年になり、生まれ故郷の京都に帰り、著述に没頭しました。著述の中でも中心になったのが和讃でした。和讃は、七五調のひらがなに漢字を交えた詩歌で、漢文の読めない大衆のために、親鸞上人があえて作ったものです。漢字には読み方や意味が書かれていて、誰でもが読めるような工夫がしてあります。

親鸞上人は、生涯に和讃を五百四十首余り書いたと言われています。和讃は、親鸞上人の思想を書いた「教行信証」を分かり易く、ひらがな交じりの歌で表したものであると言われています。これらの和讃を詠めば、親鸞上人の教えが分かるようになっています。

このコーナーでは、五井先生のみ教えを含みながら、親鸞上人の和讃を味わっていこうと考えています。さらに、親鸞上人の和讃や唯円の書いた「歎異抄」は、日本語でも美しい文章とされており、新潮社の「新潮日本古典集成」の中に載せられています。和讃は宗教的な内容と伴に、文学的にも格調の高い詩歌であると言えます。

参考文献 

「親鸞和讃」 板東性純 NHKライブラリ 1997

「親鸞和讃集」名畑應順 岩波文庫ワイド版 2001




五十
無碍光如来の 名号と
かの光明智相とは
無明長夜の 闇を破し
衆生の志願を 満て給ふ
「高僧和讃」

阿弥陀如来の御名と光明は、この世の無明長夜の闇を破り、人々の救われたいという願いを満たすものです。(阿弥陀如来により煩悩具足のままで救って頂いた喜びで、御名を誉め頌え、常にみ仏の尊い光明を想い続けていれば、知らず知らずの内に罪障は滅消し、必ず幸福になることが出来ます)


四十九
罪障功徳の 体となる
氷と水の ごとくにて
氷多きに 水多し
障り多きに 徳多し
「高僧和讃」

罪障が多いと、それが消えてゆく時、その人は一層浄められます。罪障と徳は氷と水のようで、罪障が多くても、それが赦されて救われた時の感動は大きいのです。そして、み仏の慈悲を一層讃美するようになり、信仰は一層深まっていきます。



四十八
無碍光の 利益より
威徳広大の 信を得て
かならず煩悩の 氷とけ
すなわち菩提の 水となる
「高僧和讃」

阿弥陀如来の利益により、威徳広大な信心を得ていれば、必ず煩悩の氷は溶けて行き、人間に本来にある菩薩の姿に変えられていきます。(み仏の本願を信じて感謝していれば、業は次第に消えてゆき、人間本来の菩薩の姿が現れてきます)


四十七
弥陀の回向 成就して
往相環相[ゲンソウ] 二つなり
これらの回向に よりてこそ
心行ともに 得しむなれ
「高僧和讃」

阿弥陀如来の救いの船は、己だけではなく、すべての人を伴に載せて救済します。阿弥陀如来の本願他力は、己が救われる(往相)と同時に、すべての人を救いに導く(環相)働きをします。(念仏は、個人を救うと同時に、人類すべてを光明波動で浄め、人類を救う働きをします。個人人類同時成道の祈りです)


四十六
願作仏の心はこれ
度衆生の 心なり
度衆生の 心はこれ
利他真実の 信心なり
「高僧和讃」

仏になろうとする心は、人々のすべてを救おうとする心です。人々のすべてを救おうとする心は、み仏の本願(煩悩具足のすべての凡夫をそのまま救うこと)を信じる心です。
(真実の信心は、自分が救われると伴に、すべての人を救おうとする心でもあります)

四十五
龍樹大士 世にいでて
難行易行の 道おしへ
流転輪廻の われらをば
弘誓[グセイ]の船に のせたまふ
「高僧和讃」

龍樹大師は、救いの道には難行と易行の二つの道を説かれました。そして、輪廻転生から脱することの出来ない煩悩具足の凡夫を、阿弥陀如来の救いの船にお乗せになりました。(阿弥陀如来の悲願は、自力では救われがたい煩悩具足の凡夫を救うことを目的とされました。ですから、み仏にすがれば、どのような罪悪深重の凡夫であっても、浄土行きの救いの船に乗ることが出来るのです。)



四十四
山家の伝教大師は
国土人民を あはれみて
七難消滅の 誦文[ジュモン]には
南無阿弥陀仏を となえしむ
「現世利益和讃」

比叡山の伝教大師は、国土人民を憐れんで、国のすべての人の平和を願い、南無阿弥陀仏を称えることを命じられました。(み仏の悲願はすべての人を救おうとするものであって、個人を救うと伴にすべての人を救おうとするのもです。したがって、み仏の御名を頌えることは、個人が救われると伴に、すべての人の救われを願うことでもあります)


四十三
恆沙塵数[ゴウジャヂンジュ]の如来は
万行の少善 嫌ひつつ
名号不思議の 信心を
ひとしくひとへに すすめしむ
「浄土和讃」

すべての神々やみ仏は、自力の善行による救いをさしおいて、阿弥陀如来の本願他力の救いを、みんな一様にすすめられます。(凡夫の力は五十歩百歩であるが、阿弥陀如来の本願力は、信じる者を大きく変える力があります。そして、臨終の時、業想念のすべてを浄めて、天国浄土へ導きます)

四十二
仏慧[ブツエ]功徳を 誉めしめて
十方の有縁[ウエン]に 聞かしめん
信心すでに 得んひとは
常に仏恩 報ずべし
「阿弥陀和讃」

すべての人を救おうとする、み仏の智慧や悲願を頌えよう。そして、み仏の救いをすべての人に伝えよう。み仏を信じて信心を得ている人は、この世でもあの世でも幸福になることが決まっている人なので、常にみ仏への感謝行を致しましょう。(念仏は感謝の祈りでもあります)

四十一
子の母をおもふが ごとくにて
衆生仏を 憶すれば
現前當来[トウライ] とをからず
如来を拝見 うたがわず
「浄土和讃」

子供が母親を想うように、人々が救い主のみ仏を崇めれば、業の雲が晴れてゆき、今から将来のいつかに、如来のお姿を拝見することが出来るでしょう。(救って下さったみ仏をいつも讃美していれば、業が消されて心が浄まり、神の子、菩薩に変えられていきます)

四十
南無阿弥陀仏を となふれば
この世の利益 きわもなし
流転輪廻の つみきへて
定業中夭[ジョウゴウチュウヨウ]のぞかりぬ
「現世利益和讃」

み仏の救いを頌える念仏を称えていれば、業が消されていき、運命は好転して必ず幸福になることが出来ます。若死にするような運命の人でも、そのような因縁が消されて長生きが出来るようになります。また、輪廻転生の苦しみから解放されて、永遠の天国浄土に往生できます。


三十九
久遠実成 阿弥陀仏
五濁の凡愚を あはれみて
釈迦牟尼仏と しめしてぞ
迦耶城には 応現する
「浄土和讃」

永遠の仏である阿弥陀如来が、濁りきった人類を救おうとして、
お釈迦様の姿になって、迦耶城にお生まれになりました。(阿弥陀如来は永遠の生命である大宇宙神です。その絶対神が、インドにお釈迦様として現れて、人々に救いの道を説いたのです。すべての神仏は絶対神である阿弥陀如来の分身なのです。)


三十八
聖道権仮[ショウドウゴンケ]の 方便に
衆生ひさしく とどまりて
諸有[ショウ]に流転の 身とぞなる
悲願の一乗 帰命せよ
「浄土和讃」

自力で悟ろうとする方便の教えに人々はとらわれて、輪廻転生から逃れることが出来ませんでした。阿弥陀如来の悲願による救いの信心に帰依致しましょう。(煩悩具足の私たちは、引き上げて下さる神仏(守護の神霊)を信仰しなければ、救われることも、真の悟りも得ることが出来ないのです。)



三十七
念仏成仏 これ真宗
万行諸善 これ仮門
権実真仮[ゴンジツシンケ]を 分かずして
自然の浄土を えぞ知らね
「浄土和讃」

阿弥陀如来の悲願を信じて念仏成仏するのが真の教えです。善行により救われを説くのは仮の教えにすぎません。真実と方便との区別をしなければ、本当の天国浄土に往くことは出来ません。(どんな困難があっても信じ続ける信仰こそ、人を天に導くのです。)


三十六
阿弥陀仏の 御名をきき
歓喜讃仰 せしむれば
功徳の宝を 具足して
一念大利 無上なり
「阿弥陀和讃」

阿弥陀仏の御名を聞き、み仏の(信ずる者をすべて救う)悲願を知り、信仰に目覚めた者は、感謝の心が湧き上がり、念仏により罪障は滅消され、無上の幸福に導かれていきます。


三十五
煩悩にまなこ さへられて
摂取の光明 みざれども
大悲ものうき ことなくて
つねにわが身を てらすなり
「高僧和讃」

煩悩に目を遮られて、救い取って下さっている光は見えませんが、阿弥陀如来の母のように優しい慈悲は、常に我が身を見守って下さっています。


三十四
尽十方 無碍光の
大悲大願の 海水に
煩悩の衆流 帰しぬれば
知恵のうしおに 一味なり
「高僧和讃」

光明を放つ阿弥陀如来の海のように深く大きな悲願に、人間の煩悩が流れ込めば、煩悩は融け込んで消えてしまい、み仏と一つになって行きます。(常にみ仏の悲願を想い祈っておりますと、人間の業は、み仏の光明のなかに消されてしまい、悟りへ導かれて行くのです。)


三十三
尽十方の 無碍光は
無明のやみを てらしつつ
一念歓喜する人を
かならず滅度に いたらしむ
「高僧和讃」

阿弥陀如来の光明は、この世の闇を照らす希望の灯火です。み仏の悲願に、ひとえに有り難さを感じる人の罪障を阿弥陀仏が背負い消滅して、必ず天国浄土へ導いて下さるからです。

三十二
恩愛はなはだ たちがたく
生死はなはだ つきがたし
念仏三昧 行じてぞ
罪障を滅し 度脱せし
「浄土和讃」

情愛に執着し、生死を超えることが出来ないのが煩悩具足の凡夫です。み仏の悲願を信じて念仏を称え続けていれば、阿弥陀様の光により罪障はことごとく滅消して、天国浄土に渡ることが出来るのです。


三十一
真実信心 うるひとは
すなわち定聚[ジョウジュ]の かずにいる
不退のくらいに いりぬれば
かならず滅度に いたらしむ
「浄土和讃」

阿弥陀如来の悲願に心打たれて信心している人は
、すでに救われは決定しています。その人の罪業は阿弥陀仏が背負って下さるので、必ず滅消して輪廻転生から脱して天国浄土に渡ることが出来るのです。


三十
無慚無愧[ムザンムキ]の この身にて
まことのこころは なかれども
弥陀の回向の 御名なれば
功徳は十方に みちたまふ
「愚禿悲歎述懐」

恥じることさへ出来ないような、傲慢な身ではあるけども、阿弥陀如来の救いの悲願をひたすら信じ、御名を称えれば、み仏のみ恵み(業が消えてゆき、運命が好転していくこと)を頂くことが出来、なんとありがたいことでしょうか。

二十九
弥陀大悲の 誓願を
深く信ぜん 人はみな
ねてもさめても へだてなく
南無阿弥陀仏を となふべし
「正像末和讃」

阿弥陀如来のすべての人を救おうとする悲願を、深く信じる人はみな、寝ても覚めても日夜朝暮に念仏を称えましょう。(どんな煩悩が蔽って来ても、念仏を称え続けていれば、煩悩の全てを阿弥陀仏が背負って下さるので必ず煩悩は滅消して天国浄土に往生出来るのです。)


二十八
他力の信心 うるひとを
うやまいおおきに よろこべば
すなわちわが親友とぞ
教主世尊は ほめたまふ
「正像末和讃」

み仏の悲願を信じる人を、敬い賛美すれば、私の親友であると、教主釈尊は喜んで仰りました。


二十七
願力無窮に ましませば
罪業深重も おもからず
仏智無辺に ましませば
散乱放逸も すてられず
「正像末和讃」

阿弥陀如来の悲願はあまりにも大きく極まりがないので、罪業の深い者でも、み仏の救いを妨げるような悪はありません。み仏の知恵は限りがないので、どんなに救われがたい者でも、救い取って下さります。


二十六
釈迦弥陀の 慈悲よりぞ
願作仏心は 得しめたる
信心の知恵に いりてこそ
仏恩報ずる 身とはなれ
「正像末和讃」

み仏の(すべての人を救わんとする)悲願を知ればこそ、仏にして頂こうとする心が起きてきます。このような他力の救いを思えばこそ、み仏にご恩返しをしようとする心が湧いて来るものです。

二十五
自力聖道の 菩提心
こころもことばも およばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起 せしむべし
「正像末和讃」

自力で仏になろうとする発心とは、煩悩具足の凡夫には、どのようなものであるか想像も出来ません。輪廻転生に沈んできた業の深い凡夫に、どのように発心しろと言うのでしょうか。(み仏の悲願を信じ、救いの船に乗せて頂くほか、私たちの仏になる道はありません。)



二十四
末法第五の 五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を 信ぜずば
出離その期は なかるべし
「正像末和讃」

世も末の行き詰まった時、すべての人々は阿弥陀如来の悲願を信じなければ、輪廻転生する悪循環から、抜け出すことは不可能です。


二十三
五濁悪世の有情の
選択本願 信ずれば
不可称不可説 不可思議の
功徳は行者の 身にみてり
「正像末和讃」

濁りきった世も末の時、人々が阿弥陀如来の悲願を信じれば、み仏から限りないみ恵みを得ることができ、それは言葉で言い表すことが出来ないほどです。(み仏の悲願に応じて得られた他力の信心なので、み仏のすべての徳が信ずる者に与えられるのです。)

二十二
信は願より 生ずれば
念仏成仏 自然なり
自然はすなわち 報土なり
証大涅槃 うたがはず
「高僧和讃」

まず、阿弥陀如来が、御名を呼ぶ者をすべて救おうと仰せになりました。それに応じて、私たちの心に、み仏の救いを信じる信仰が生まれました。したがって、阿弥陀如来の御名を称えれば、救われるのは当然です。必ず天国浄土に往生して、本当の悟りを開くことが出来ます。


二十一

本師道綽[ドウシャク]禅師は
聖道万行 さしおきて
唯有浄土一門を
通入すべき みちととく
「高僧和讃」

我らの道綽禅師は、聖道門[ショウドウモン]のあらゆる修行をさしおいて、ただ浄土門一つを通るべき道であるとお説きになりました。(阿弥陀如来の悲願による救いを説く浄土門
を、煩悩具足の凡夫が救われる唯一の道であるとお勧めになりました)

二十
天親論主は 一心に
無碍光に帰命す
本願力に 乗ずれば
報土にいたると のべたまふ
「高僧和讃」

天親先生は、一心に無碍光如来(阿弥陀如来)に帰依されました。阿弥陀如来の救いの船に乗ってしまえば、後は天国浄土に往くだけであると仰りました。



弥陀の回向 成就して
往相環相[ゲンソウ] ふたつなり
これらの回向に よりてこそ
心行ともに得しむなれ
「高僧和讃」

阿弥陀如来のはからいにより、己が救われることと、すべての人を救うことの二つが成就します。み仏の(すべての人を救おうとする)悲願を知ることにより、私たちは尊い信心に目覚めさせて頂きました。
そして、み仏の御名を称えて、自らが救われたように、すべての人が救われるように祈っています。


十八
四論の講説 さしおきて
本願他力を ときたまひ
具縛の凡衆を みちびきて
涅槃の門にぞ いらしめし
「高僧和讃」

難しい議論はさしおいて、曇鸞[ドンラン]和尚は、阿弥陀如来の悲願による他力の救いをお説きになり、煩悩具足の凡夫を導いて、罪業滅消の門をお開きになりました。


十七
本願力に あいぬれば
むなしくすぐる ひとぞなき
功徳の宝海 みちみちて
煩悩の濁水 へだてなし

「高僧和讃」

阿弥陀如来のすべての人を救おうとする悲願を知った時、み仏の御名によりて救われていることが分かって来ます。そして、御名を称える尊い信心が起こります。み仏の慈悲の光は限りなく、私たちの煩悩の濁りは、み仏の光に融け込んでしまい、いつしか消えてしまいます。そして、み仏と私たちは一体になって行きます。

十六
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめる われらをば
弥陀弘誓[グセイ]の 船のみぞ
のせてかならず 渡しける
「高僧和讃」

輪廻転生している苦しい世界には限りがありません。苦しい世界に沈んでいる私たちが救われるのは、み仏の救いの船以外にはありません。み仏の悲願(本願)を信じ、その御名を称える者を、み仏は無量の慈悲で救って下さるのです。


十五
本師龍樹菩薩の
おしへをつたへ きかんひと
本願こころに かけしめて
常に弥陀を 称すべし
「高僧和讃」

私たちの師である龍樹菩薩の易行道の道を行こうとする人は、阿弥陀如来の(すべての人を救おうとする)悲願(本願)を心に留めて、常に阿弥陀如来の御名を称えることが大切です。

十四
南無阿弥陀仏を となふれば
観音勢至は もろともに
恒沙塵数[ゴウジャジンジュ]の菩薩と
かげのごとくに 身にそえり
「現世利益和讃」

大宇宙神である阿弥陀如来を念ずる人は、あらゆる神仏とあらゆる守護の神霊が守って下さいます。


十三
願力不思議の 信心は
大菩薩心 なりければ
天地にみてる 悪鬼神
みなことごとく おそるなり
「現世利益和讃」

阿弥陀如来の(すべての人を救おうとする)悲願(本願)に、目覚めて起きた信心は、とりもなおさず、内なる仏性の現れです。ですからどんな魔も、念仏の信心を侵すことは出来ません。

十二
南無阿弥陀仏を となふれば
梵王帝釈帰敬す
諸天善神 ことごとく
よるひるつねに まもるなり
「現世利益和讃」

念仏を称えれば、阿弥陀如来は「救世の大光明」ですから、あらゆる守護の神霊につながります。また、個人を守る守護霊、守護神は昼夜を問わず守って、私たちの業を消して下さいます。

十一
一切功徳に すぐれたる
南無阿弥陀仏を となふれば
三世の重障 みなながら
かならず転じて 軽微[キョウミ]なり

「現世利益和讃」

念仏を称えれば、阿弥陀如来の光明により、過去、現在、未来の業や障りは消されていき、それに従い運命も改善され、必ず幸福になっていきます。


五濁[ゴジョク]悪事 悪世界
濁悪邪見の 衆生には
弥陀の名号 あたへてぞ
恒沙
[ガシャ]の諸仏 すすめたる
「弥陀経和讃」

戦争と不幸の場となってしまったこの世で、自己中心でしか考えることの出来ない人間に、あらゆる神仏は、阿弥陀仏の御名を称えることを勧めておられます。念仏こそ、業の深い人間が救われる道だからです。



信心喜ぶ その人を
如来とひとしと ときたまう
大信心は 仏性なり
仏性すなはち 如来なり
「諸経和讃」

信心を喜んでいる人は、間違いなく成仏するので、如来に等しいと説かれています。如来の本願を信楽[シンギョウ]して興った大信心は、人間に内在する仏性の顕れです。ですから、大信心は仏性でもあるのです。如来を信じて受け入れた人には、阿弥陀如来が内にましますのです。



十方微塵世界の
念仏の衆生を みそなはし
摂取して すてざれば
阿弥陀となずけ たてまつる

「弥陀経和讃」

どの様なところにいる人であっても、念仏を称えている人々を、救い取ったら、決してお見捨てになることがないので、その様なみ仏を、阿弥陀(無量慈悲)如来と申し上げております。


たとへ大千世界に
みてらん火をも すぎゆきて
仏の御名を 聞く人は
ながく不退に かなふなり

「阿弥陀和讃」

たとえ世界が火に蔽われても、火の中をくぐって、人々の苦難を救おうとする阿弥陀如来の御名を聞く人は、永遠に救われる位の人たちです。(どんな苦難に遭おうとも、救世主阿弥陀如来の御名を称える人は、永遠に救われます。)



弥陀の浄土に 帰しぬれば
すなわち諸仏に 帰するなり
一心をもちて 一仏を
ほむるは無碍人を ほむるなり

「阿弥陀和讃」

大宇宙神である阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依することになります。一心に阿弥陀如来を誉め讃えれば、真理を悟ったすべての人を賛美することになります。



清浄光明 ならびなし
遇斯光[グシコウ]の ゆえなれば
一切の業繋[ゴウケ]も のぞこりぬ
畢竟依[ヒッキョウエ]を 帰命せよ
「阿弥陀和讃」


阿弥陀如来の光は清らかで、並ぶものがないほどです。この光を念仏しながら想っていれば、次第に業は消されてゆき人生は光明化していきます。そして、臨終の時に、この光に照らされれば、一切の業は浄められて、天国浄土に往生できます。最後の拠り所であり救い主である阿弥陀如来に帰依致しましょう。


弥陀成仏の このかたは
いまに十劫を へたまへり
法身の光輪 きわもなく
世の盲冥を てらすなり

「阿弥陀和讃」

法蔵菩薩が本願を成就して阿弥陀如来になられたのは、十劫という気の遠くなるような昔でした。ですから、阿弥陀如来は久遠のみ仏です。阿弥陀如来の光明は限りがなく、すべてを救おうとする、み仏の本願は、この世の闇を照らす大きな希望です。


無明長夜の 灯炬[トウコ]なり
智眼[チゲン]ぐらしと かなしむな
生死[ショウジ]大海の 船筏[センバツ]なり
罪障おもしと なげかざれ
「正像末和讃」

阿弥陀如来の本願は、迷いの夜の灯火です。知恵の眼が暗いと悲しむことはありません。み仏の救いは、この世を渡る船であり、筏です。罪障が重いと嘆くことはありません。偉大な守護神である阿弥陀如来を帰依している人は、どんな罪障があろうとも、弥陀の願船に乗せられており、この船に乗せられていれば、一切の罪障は浄められ天国浄土に必ず行き着きます。



弥陀の名号 となえつつ
信心まことに うるひとは
憶念の心 つねにして
仏恩報ずる おもいあり

「浄土和讃」より


阿弥陀如来の御名を称えつつ、み仏の本願(煩悩具足のすべての人を救おうという)を想い、本当の信心を得ている人は、常にみ仏の慈悲に、ご恩を感じています。



小慈小悲も なき身にて
有情利益は おもうまじ
如来の願船 いまさずば
苦海をいかでか わたるべき
「愚禿悲歎述懐」より

気配りも満足に出来ず、人々を助けるような人徳もありません。阿弥陀如来の救いの船がなければ、このつらい人生を生きていけるでしょうか。阿弥陀如来の救いの船に乗せて頂いていることに感謝して、み仏の深い慈悲をひたすら信じて生き抜いて参りましょう。


                            ホームページ