私と公
本心と消えてゆく姿

五井先生は、人間の魂魄を、実体である本心と消えてゆく姿として現れる業想念に分けておられます。本心は、神の子であり菩薩である霊性です。業想念は、肉体を通して現れる神の御心にかなわない念ということになります。そして、我々の魂魄は、善悪混交しているともいわれています。では、心の働きのどのような性質が本心であり、業想念なのでしょうか。

吉田松陰の人間論

山岡荘八の「吉田松陰」には、吉田松陰は、肉体を私として、精神を公としてとらえ、私があえて公に捧げるのが義であると説いています。また、人間は神の分身であり、日本では、天皇が神の象徴として尊重されて来たわけで、これは日本民族独自の国体であるとも述べています。つまり、五井先生風に言えば本心は公で、業想念は私的な想念ということが出来ると思います。この吉田松陰の解釈は、幕末の日本で活躍した志士の姿の本質を見事にとらえています。松陰も、西郷も、坂本も、勝も、その他の志士の多くが、私欲を顧みず、日本国と民のことのみを想い行動しています。その様な生き方が、現代人に感銘を与えてるのです。

私と公

業想念の私は、私個人の利だけを考えます。しかし、本心の公は、つねに、社会、国家更には全世界の人々の幸福を考えています。したがって、業想念の私は小さな自分独りだけのことを考えています。それに対して、本心は、すべての人の幸福を考えています。私の我は一人だけの利を求めるだけなので、小我といえます。対して、公に尽くしている精神(人間の本心)は無数の人の大きな幸福を考えているので大我と呼ぶことが出来ます。小我と大我というのは、禅宗の発想ですが、私と公としてとらえると分かり易いと思います。最大の大我は、宇宙の大生命であり、宇宙の大生命に目覚めた人の心を大我といっています。

私の自己は、小さな自分だけの自己です。しかし、すべての人の幸福や救いを考え行動している人は、遙かに大きな自己に生きています。そして、宇宙の大生命を悟った人は宇宙全体が自己になるわけです。

神の子であり菩薩

人間が自分独りの利のみを考えて居る時は、肉体人間になっていますから、業想念のにとらわれています。それが、組織や社会、更には国家、そして世界の平和と幸福を考えている時は、大きな幸福と救済を考えているほど、その人の魂は、神の子であり菩薩に近づいているといえます。

だから、努めて公の幸福や平和について考え、行動している人は、神の子であり菩薩であると考えてもよいでしょう。私は最後でよいのです。すべての人が幸福になれば、私も幸福になるからです。公を先にし、私を後にする、これが、神の子であり菩薩である生き方といえるでしょう。よく銘記しておくべきことだと思います。

世界平和の祈りで、神の子であり菩薩となる

「世界人類が平和でありますように」という祈りは、まさに、公の立場で、すべての人々の幸福と救いを祈願しているわけですから、神の子であり菩薩の心になっているわけです。つまり、平和の祈りを常に想っている人は、神の子であり菩薩であると五井先生は述べておられます。過去世のカルマや人類のカルマがかかってきても、それを消えてゆく姿と断じて、平和の祈りをしていれば、その人は、煩悩の波をかぶっていても、神の子であり菩薩であり、救済されているわけです。この尊い五井先生のみ教えを奉り、煩悩をかぶりながらも救われていることに感謝しましょう。今の貴方は世界平和の祈りを祈る神の子であり菩薩なのです。


すでにもふ 救はれたりと 説き給ふ 平和の祈り 祈るよろこび



グルックのオペラ

エウリディーチェを失ったときのオルフェオのアリア

 

オルフェオは、このように亡きエウリディーチェを慕い歌う

私は、愛する人をこのように呼んでいる

朝、日が昇るときにも

夕べに日が沈むときにも

おお、だが、私の苦しみはむだなのだ

私の心の愛の偶像は

私に答えてくれない………

太陽が一日を金色に彩っても

波間に沈んでも、私は

愛しい人を想って泣く

小川もささやきながら

私に答えてくれる………


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