人類の救済

人類は神の分霊

人類は神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているものである。これが五井先生の教義の根本です。これを、もう少し分かり易い言葉でいえば、人間は神の子であり、初めから救済の神により救われているということです。

神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだあなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」

「私のような浅はかな者が、私のような力のない人間が、私のような業の深い人間が、
世界平和の祈りをしても、神様と一つになれっこない、なんていう想いは業の想いです。
なぜならば、人間の本体は神様なんだから。自分が神様じゃないと想っちゃって、神様でない
行いをしたから神様から離れているだけであって、神様と同じ祈りをすれば神様になるんです。」

人間というものは、あくまで神の子です。絶体絶命神の子です。神の子でなければ、この世は
滅びるんです。神の子だから神様とすがれるんですよ。

神の子で、救われていると思っている人は、ほとんどいない

それは何故かというと、みんな煩悩に翻弄され、罪の意識のようなものがあって、とても自分を神の子であるとは思えないからです。むしろ、人間というのは煩悩があるから人間らしんだと思っている人の方が多いでしょう。しかし、人間の煩悩や罪意識は、すべて消えてゆく姿で、人間の本質とは無関係なのです。この真実を分かり易く教えて下さったのが五井先生です。

「人間というものは罪無き者なのですよ。いいですか、人間は霊として罪ある者じゃない、
罪は何もないんです。あるものは肉体の迷いなんです。物質的な迷いだけで、それは
迷いであって人間じゃない。人間と迷いとは別なんです。人間は神の子であって、迷いは
別物です。」


「ところが本当は神様は親なんだから、自分の子供はいつでも可愛い、早く私のもとへ
帰っておいで、もう罪なんてものは無いんだよ、帰ってくればいいんだよ、そういってるんです」


救済の神の救い

しかし、いくら自分だけで神の子であり仏であると思っても、救済の神(守護霊・守護神、主イエス、阿弥陀仏・・・)の救いがなければ、とうてい、自分の煩悩や罪意識をなくすことはできません。この地球人類の中に渦巻いている業想念は、人間の力だけで祓えるものではないのです。これは、五井先生の「天と地をつなぐ者」にも体験として語られています。

「押し寄せてくる波をみんな祓ってくれた。分霊の力で祓ったんじゃなくて、
後ろの守護神・守護神が祓ってくれたことがハッキリ分かったんです。」


「私が救ってあげますよ。と言う時には、皆さんの業をひっかぶったことなのです。それは何かというと、皆さんの守護霊・守護神が引き受けた、と言うことと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神様自体が、ハイお前たちを無罪放免する、ということと同じことなのです。」『私に荷物を預けなさい』

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。」


五井先生の教義の説明
(本サイトの「五井先生の教義」を参照)

人類の過去世から今日までに至るまでの誤てる想念、と教義にありますのは、このことでありまして、この業想念波動を超えて、真実の神の子人間をこの世においてもあの世においても現しうるのは、先ほどから申しておりますように、真実の人間の在り方である、守護の神霊との完全なる一体化がなされなければ、到底だめなのであります。

何故かと申しますと、分霊魂泊の人間だけでは、激しく渦巻いている業想念波動の壁を突っ切って、高次元の微妙な波動の世界の自由性を現すことは出来ないからなのです。神の子の本質は、その本住の地である、高次元波動の世界(神の国)から、絶え間ない、光明波動を流入してもらっていなければ、現し得ないのです。

そこで、人間は凡夫なのだから、阿弥陀仏の御名を唱え、阿弥陀仏のみ心の中から改めて真実の人間の生き方を頂き直すという唱名念仏の教えが生まれたのです。また、肉体人間では何事もなしえない、イエスの御名をとおして神につながるのだ、というキリスト教の教えがあるのであります。

何故一念の念仏で救われるのか

親鸞や一遍は、一念の念仏で救われると説いています。それは、親鸞や一遍が、人間は本来、仏であることをよく識っていたからです。しかし、煩悩が暗雲のようにたれこめて、自分が仏であると思っている者はいなかったのです。そこで、親鸞や一遍が、人間は本来仏であるから、阿弥陀仏(救済の神)を信じたら救われることを、確信をもって説いたのです。

一遍聖人の十一不二頌(本サイトの「一遍の場合」を参照)

十業に正覚する衆生界 一念に往生する弥陀国 十と一とは不二にして無生を証し 国と界とは平等にして
大会(たいえ)に座す 

宝蔵菩薩は、十業という途方もない昔に、すべての衆生を救う悲願を達成して阿弥陀仏になられた。したがって、すべての衆生は本来救われているのである。しかし、衆生は迷っていて、そのことを自覚していない。そこで、改めて一念の念仏で救われを確認して弥陀国の民になることが出来る。すべての衆生は、実は阿弥陀仏と一体なのであり、その本体は仏である。阿弥陀仏を通して、弥陀国に人間界はつながって等しくなり、一念の念仏により、我々は阿弥国で共に座すことができる。

一遍聖人の悟りを物語っています

主イエスの十字架の意味

主イエスは、人間には原罪はなく、本来は神の子であり、神により救われていると考えていたと、五井先生は述べておられます。しかし、当時のユダヤ教は厳しい戒律を説き、人間を罪の子と考えていました。そこで、主イエスは、自らが十字架にかかり、人間の罪悪感を消し、信じる者をすべて神の子として救ったのです。

「イエスさんが十字架にかかったのは、人類の原罪を身代わりに背負ったことなのです。
私がみんなの代わりになって原罪を背負ったんだから、あなた方は罪の観念を捨てなさい。
罪汚れは私が引き受けたんだから、あなた方は、私の名を呼べば助けてあげる。といって
十字架にかかったんです。」

「キリストは旧約聖書を本当に解釈して教えようと思ったのです。あのままでは
間違っているのだから。そのためにはアダムとイブの原罪、人間は罪の子だと
いう観念を一度抹殺しなければならないでしょう。それでキリストが出てきて
サア、あなたがたに変わって私が十字架にかかって、あなた方の罪をみんな消したんだから
私を思いなさい、そうすれば皆救われるんだと、とこう言ったわけです。

イエスがせっかく、十字架にかかって、あなたがたは罪がないんだよ、私が代わりに背負って
やったんだから、のうのうと明るく、みんな愛し合ったらいいじゃないか、というのに
やっぱり自分は罪があるような気がして、自分が自分で守らななきゃならないような
きがしている。イエスさんに任しちゃえばいいのよ。私に任せなさいと言って十字架に
かかったんだから「さあ、イエスさんにお任せします」と苦労もみんなイエスさんに
まかせていまえばみんな罪を赦されちゃうんですよ。」


貴方もすべての人類もすでに救われている

貴方も人類も、すべても神の子であり、神仏により、すでに救われています。しかし、人類は、自らの無知と煩悩で、神の愛により救われていることを知らないだけなのです。今こそ、人類のすべてが神の子であり、神の愛により救われていることを、世界中の人々に述べ伝える時が来ました。神の愛により救われていることが分かれば、神を愛し、神の御心を尊重するでしょう。今の人類の混乱は、本当の神の愛を知らないところから来ています。我々は、五井先生の福音を、微力ながらでも人々に伝えるなければいけないと思います。

世界人類が平和でありますように

五井先生ありごうございます


救世主 五井先生の 御心よ 無量の慈悲で すべて救はん

すでにもふ 神の子なりと 言ひ給ふ 無量の慈悲を ほめ称へんや

人は皆 神の御子なり 愛しの子 信じる者を すべて救はん

煩悩の かたまりなりし 吾なれど すべてを救ふ 神ぞ嬉しき



B.G.M

ハイドンの「天地創造」 第2部の最終の合唱

            ロザリオを与える聖ドミニクス          ティエポロ



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