信じる心
歎異抄の心親鸞は、み仏の慈悲による救われの道を説いています。
「しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死を、はなるることあるべからざるを、あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人(自分はとりわけ業が深くて、み仏にすがるしか救いはないと思っている人)成仏ためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。」(歎異抄第三条)
み仏の慈悲は限りなく深く、煩悩が深ければ深いほど、人間を憐れんで下さります。だから、業が深いから、み仏にすがるしか救われる道はないと思っている人を真っ先に救って下さるのです。つまり、み仏の慈悲を信じる人は、どんなに業の深い人でも救われているのです。
五井先生は、同じことを次のような言葉で説いておられます。
「神様は愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪もないんだ。皆この形の世に現れてくるものは、消えていゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本当の地上天国がここに出来るんだよ。」
主イエスの言葉
主イエスは、弟子達にこのように言っています。
「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である」ヨハネ15.5
主イエスを信じる者は、葡萄の木とその枝のごとく結ばれています。信じることは、一つに結ばれることです。だから、主イエスやみ仏を信じる人は、主イエスやみ仏と一つに結ばれています。だから救われているのです。自分の心に主イエスやみ仏がましますから救われているのです。五井先生は、同じように次のように言われています。
「魂の救われといものは、必ず最後まで神様を思うものの上に輝く。
神様を想うということは神様と一つになるということなんです。
守護霊様守護神様ありがとうございます、と言うことは、
守護霊守護神、宇宙神と一つになることです。」
煩悩具足
み仏は、人間を煩悩を持ったままで救って下さります。煩悩がなくならなければ救われないのなら、誰も救いにあずかることはないでしょう。煩悩を持ったままで救われるから、すべての人が差別なく救われるのです。これこそが真の福音です。聖人君子にならなければ救われなければ、誰も救われることはないでしょう。
「自分が悪いから神様に救ってもらえない、と思ったら間違えです。
その間違った想いがあるままで妬みの想いがあるままで、恨みの
あるままで救ってもらえるんです。それでなかったら、本当の信仰に
なりません。」
「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」
信じる心は神の子
それでは、み仏を信じている煩悩具足の人間は、煩悩の子なのでしょうか?
五井先生は、人間の心を二つの部分に区別しています。一つは、神から分かれてきた心で「本心」、もう一つは、過去世からの因縁による業想念(煩悩)。
信じる心は「本心」の働きです。業想念は、初めから神仏を信じようとしません。また、神仏による救いも認めようとしません。み仏の慈悲を信じて、救われるのは「本心」の働きなのです。
「本心」は神の分生命であり、「神の子」でもあります。み仏の慈悲を信じているのは「神の子」の心なのです。決して業想念の心ではありません。み仏の慈悲で、煩悩を持ったままで救われている人間は、「神の子」であり、決して煩悩の子ではありません。
煩悩は消えてゆく姿
「神の子」の心は、神から分かれてきた命ですから、永遠に実在します。しかし、業想念(煩悩)は、太陽にかかる雲のように実体はなく、しばらくすれば、消えていってしまします。そして、太陽は永遠に輝いています。
だが時として、業想念(煩悩)は暗雲のように心にたれ込めて、太陽である「神の子」の心を、おおうように見えることがあります。
しかし、それで「神の子」が無くなったわけではありません。業想念(煩悩)はいずれ消え去り、「神の子」の命は永遠であることを「神の子」はよく知っているのです。そして、神を信じれば救われることを知っているのも、「神の子」なのです。
「人間というものは、あくまで神の子です。絶体絶命神の子です。神の子でなければ、この世は
滅びるんです。神の子だから神様とすがれるんですよ。」
「自分を罪深い者と思い、駄目な者と思ってはいけません。自分は神から来た者であることを、
一心をこめて知らなければいけません。駄目なのは、あなたが肉体だけを自分だと思っているからで
あなたの本体は神から来ているのですから、本体は神の子なのです。駄目な自分はすべて消えてゆく
姿で、自分の本体ではありません。その真理を信じて、自分を赦し人を赦し、守護の神霊への感謝を
つづけ、世界平和の祈りに明け暮れるようにしてごらんなさい。必ずあなたに夜明けが訪れます。」
「人間というものは罪無き者なのですよ。いいですか、人間は霊として罪ある者じゃない、
罪は何もないんです。あるものは肉体の迷いなんです。物質的な迷いだけで、それは
迷いであって人間じゃない。人間と迷いとは別なんです。人間は神の子であって、迷いは
別物です。」
神の子人間
守護の神霊は、常に人間の業想念を消して下さっています。いずれ、必ず守護の神霊により、業想念は消し去られてなくなります。そして、人間本来の「神の子」の心が完全に現れて来ます。今は、業想念が厚くて、「神の子」の心は一部しか見えていないのです。しかし、業想念の消えてゆくにしたがって、「神の子」の心がより大きく現れてきます。ですから、人間の本体は、「神の子」です。業想念(煩悩)は消滅する運命にあるのです。
「神の子」の心
み仏の慈悲を信じる心、主イエスを信じる心、五井先生(守護の神霊)を信じる心。このような信じる心が、人を救います。人間の心の中でいちばん純真な信じるこころ、これが「神の子」の心です。み仏の慈悲を信じる時、心はみ仏の慈悲になっているのです。信じる心があるから、心の中に神仏が現れるのです。信じる心がある限り、その人は神の子であり菩薩です。従って救われていることにもなるのです。神の子、菩薩であり、救われていることに感謝致しましょう。
親鸞の和讃
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり(阿弥陀如来の本願を信じる心は仏性である)
仏性はすなわち如来なり
雲厚く 煩悩具足の 身なれども 救ひ賜る 弥陀ぞ尊き
み仏の 無量の慈悲に 救はれし 信じる心 菩薩なりけり
煩悩の 雲流るれど こうこうと 真如の月は 永遠に照りたり
この世での すべてのことは 消へゆかん 神の子のみぞ 真なりけり
み仏の 無量の慈悲に 救はれし 後は何をか 求め願はん
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B.G.M.
ガルッピのクラヴサン協奏曲
変奏曲 竹宮恵子
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