(2)パウロの場合
パウロについて
パウロは、ユダヤ人であるとともにローマの市民権をもっていた人で、当時の共通語である古代ギリシア語が分かり、相当な学識があった。彼は、最初ユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害していたが、キリストの声を聞き、劇的な改心をして、熱心なキリスト教徒になり、キリストの福音を各地に広めていく。各地の教会に多くの手紙を書き、その手紙の多くは、新約聖書に載せられている。彼は、ローマの市民権を持つ人として、異邦人にも分かるような論理的な言葉で、キリストの福音を述べ伝えた。
ローマ人への手紙
ローマ人の手紙は、キリストの福音を論理的に分かり易く述べており、キリストの福音の核になる手紙である。
行いでは神の前では義とされない
戒律を行うことによっては、人間は神の前で義とされない。かえって戒律により罪の自覚が生じるだけである。人間は弱い存在であり、神の戒律を完全に行うことが出来ない。それでは、どうしたら人間は神の前で義とされて救われるのか?
信仰義認説
イエス・キリストを信じる信仰が義とされる。人間は行いの法則では救われない。信仰の法則により救われる。
キリスト贖罪説
すべての人間は、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、人間は、キリスト・イエスによる十字架のあがないによって義とされる。
行い・働きがなくして救われる
人間が救われるのは、行いや働きによるのではなく、信仰によってである。
すべての罪をキリストの十字架はあがなっている
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。罪を主に認められない人は幸いである」
義人は信仰に生きる
主イエス・キリストを信じることにより義とされ救われている。どんな罪があっても、キリストの十字架によりあがなわれている。一切は赦されており、裁かれることはない。行いが無くても、働きが無くても信仰の法則で救われている。永遠の命(神の命)を得ており、天国の住人になることは保証されている。神に感謝し、永遠の天国に希望をもとう。
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