(3)親鸞の場合


親鸞聖人

9歳で比叡山に登り、修行僧として仏典を学び、厳しい修行を20年近く続けたが、確信が得られず、進退が窮まれるような時に、都の法然聖人のうわさを耳にした。自力で悟ることに疑問を感じていた親鸞は、法然聖人の阿弥陀仏の本願を信じて、念仏するだけで、すべての人が救われるという教えにひかれたが、叡山を降りるかどうかの決心がつかなかった。そこで、日頃から尊敬していた聖徳太子に判断を仰ごうと、京都の六角堂に百日間籠もって祈り続けた。すると、九十五日目の暁、聖徳太子より夢のお告げがあり、東山の吉水の法然聖人を訪れることを決心した。

自力から他力本願へ

自力で悟ろうとする修行を捨て、阿弥陀仏の本願を信じて、念仏により救われる道をといた。

凡人は自力では悟ることは出来ない

人間の煩悩は、自力でなくすことは出来ない。自力で修行しても悟ることは出来ない。したがって、自力で修行しても救いを得ることはできない。

煩悩具足のまま、一念の念仏で救われる

阿弥陀仏は、無限の生命であり光であり慈悲である。そして、すべての人間を救おうとされている(本願)。だから、どんな煩悩があっても、煩悩をもったままで、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱えれば、どんな人間でも救われて、天国浄土に往生することが出来る。阿弥陀仏の本願を信じれば、一念の念仏で既に救われている。後の念仏は、救われたことへの感謝の念仏である。

どんな罪業も阿弥陀仏の救いを妨げることはできない

阿弥陀仏の無量の慈悲と光明により、救われない者は誰一人としていない。

歎異抄

親鸞聖人亡き後、一部の弟子が親鸞聖人の教えと異なる説を唱えて、親鸞聖人の教えが誤解されているのを憂えて、高弟の唯円が、改めて親鸞聖人の正しい教えを書き記したもの

歎異抄第三条 悪人正機

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。(出来のよい人でも極楽浄土に往生出来るのだから、出来が悪くて、阿弥陀仏にすがるしかないと思っている人は、いっそう確実に救われるだろう)
しかるを世の人常に曰く、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をやと。
この条、そのいわれ有るに至れども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。(なぜならば、自力で悟ろうとする人は、阿弥陀仏にすがろうとする心が欠けているので、阿弥陀仏の救いを受けることができない)
しかれども、自力の心をひるがえして、他力を頼み奉れば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足の我らは、いずれの(自力)行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、(煩悩から離れることのない私たちは、どのような(自力)行をしても救われることがないのをお憐れみになって、)
願をおこし給う本意、悪人成仏のためならば、(阿弥陀仏のすべての人を救おうとする願いは、出来の悪い人間を救って成仏させるためのものなので)
他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり。(阿弥陀仏にすがるしか救いようのない出来の悪い人間こそ、極楽浄土に真っ先に導かれる人である。
よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。(よって善人も往生するのだから、出来の悪い人間は阿弥陀仏にすがる気持ちが強いので必ず往生すると、親鸞聖人は仰せになった。)

親鸞和讃

罪業もとよりかたちなし

妄想転倒のなせるなり

心性もとより清けれど

この世はまことの人ぞなき

(人間の罪業は本来存在しているものではない。妄想転倒のなせる業である。人間の心性は仏性であり清らかなものである。しかし、末法の人間は罪業に覆われてしまっていて、まことの人間はいない)
親鸞は、人間を罪悪深重の凡夫と呼んでいるが、性悪説ではない。人間の心性は仏性であることを当然知っていた。だからこそ、一念の念仏で救われると言い切れたのである。親鸞は、み仏の絶対的な慈悲で、すべての人が救われることを知っていたのである。



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