(4)一遍の場合

一遍聖人

鎌倉時代の元寇があったころ、諸国を巡り、人々に念仏札を配り、唱名念仏によるすくいを説いた。

念々の念仏は、念仏が念仏を申なり。・・・我よく念仏して往生せんと思ふは、自力我執が失せざるなり。(念仏とは、内なる仏が、外にまします仏に称えている。内なる仏が、阿弥陀仏=外なる仏の計らいで極楽浄土に往生する。全ては他力であり、自力我執のなせる技ではない)

「心品のさばくりあるべからず。この心は、よき時もあしき時も迷ひなるゆえに、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が

往生する也」と云々。我この時より自力の意楽をば捨てたり。
(内なる仏=南無阿弥陀仏が往生する。迷っている心は煩悩であるから、往生の原因にはならない。自力で心を煩わせても往生には何の役にもたたない)

このゆえに往生は心品によらず、名号によりて往生するなり。(いつも迷っている心は往生の原因にはならない。南無阿弥陀仏という唱名念仏が往生するのだ)

本願に任せて念仏したまうべし。念仏は安心して申しても、安心せずして申しても、他力超世の本願にたがうことなし。

このほかに、さのみ何事をか用心して申すべき。ただ、愚かなる者の心に立ちかえりて念仏したまふべし。
(信・不信、安心・不安は迷っている心の作用である。そのような心が往生するのではない。阿弥陀仏の本願の計らいにより、内なる仏である南無阿弥陀仏が往生するのである。あとは何も考えることなく愚か者のように念仏をすべきである)

十一不二頌

十業に正覚する衆生界 一念に往生する弥陀国 十と一とは不二にして無生を証し 国と界とは平等にして
大会
(たいえ)に座す 

宝蔵菩薩は、十業という途方もない昔に、すべての衆生を救う悲願を達成して阿弥陀仏になられた。したがって、すべての衆生は本来救われているのである。しかし、衆生は迷っていて、そのことを自覚していない。そこで、改めて一念の念仏で救われを確認して弥陀国の民になることが出来る。すべての衆生は、実は阿弥陀仏と一体なのであり、その本体は仏である。阿弥陀仏を通して、弥陀国に人間界はつながって等しくなり、一念の念仏により、我々は阿弥国で共に座すことができる。

親鸞とパウロ

親鸞とパウロは信の一字に救いを見いだした。信とは行に対する言葉である。人は、行いによりては救われない。神仏への信仰によりて救済される。行いがなくても、信じるだけで救われるのである。

一遍の場合

ところが、一遍は、信にも疑問を投げかける。薄い信仰もあれば、高い信仰もある。そうすると、どのような信仰であれば救われるのか?これは、誰にも分からない。信・不信も安心・不安と同じように不確かで変わりやすい。つまり煩悩の要素があるともいえる。では、一体、何で救われるのか、それは阿弥陀仏の本願と内なる仏である南無阿弥陀仏であると考える。そこで、一遍は、一念の信仰よりも、一念の名号に重きを置いた。名号を唱えること、これが最も確かな救いの条件と一遍は考えた。これで、信・不信のべつなく唱名念仏で、総ての人が救われることになる。



五井先生の場合                                               トップページ