五井先生の教義

人間と真実の生き方

 人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって
守られているものである。
 この世の中のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現れて消えてゆく時に起こる姿である。
 いかなる苦悩といえども現れれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難のなかに
あっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真(まこと)と赦しの言行を
なしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。

世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように

日本(祖国)が平和でありますように

私たちの天命が完うされますように

守護霊様

守護神様

(五井先生)

ありがとうございます

この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りのをするところに
必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、
大調和に絶大なる力を発揮するのです。


人間と真実の生き方の解説
(「神は沈黙していない」の「人間と真実の生き方」より)

人間は本来神の分霊であって業生ではない

これから、人間と真実の生き方について解説してゆきたいと思います。

先ず最初の、人間は本来神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているものである、ということから説いて参りましょう。

人間は一体、神の子なのか業生なのか、という問題は、古来から哲学的な論点となっているところなのです。これを、性善説、性悪説ともいっております。人間は神の子であってその性は善なのであろうか、それともまた、業(カルマ)の子であって、その性は悪なのであろうか、という両者の考えは方は、いずれも一理ありまして、こちらが正しい考えなのだ、と言い切りますと、必ず反論が返ってきまして、その説明できない個所をつかれます。

人間は神の子であって、性は善なるものである、ということを唱えなすと、人間が神の子であって、性が善なるものであるなら、何故こんな欲望に満ちた、争いに満ちた、悪いことが多い世の中ができているのだ、といってきます。神はオールマイティー(全能)であって何でも出来ないことはないはずである、そうした全能なる完全な力をもった神の子である人間が、自分の生活を守るために、他人を損ねたり、自国を守るために他国の損害を顧みなかったり、常に自分や自分の者の利益のためには、他の損害を顧みるいとまのないような生き方をしている。それはたまには、自分を犠牲にして他を救うような立派な人もいるけれど、それはほんの稀な存在であって、一般の人々はまず自分自身を守ることに汲々としている、というのが現実の姿ではありませんか、そんな生き方しかできない人間が、何で神の子であったり、善なる存在でありましょう。

そのように反論してくるのです。成る程その通りなところが充分にあるのです。こういわれますと、この反論者に満足のいくような答はなかなか出て来ません。現在の人間は、神の子としては、あまりに低次元な精神生活しかしておりません。まず自分を守るということが本能的に行われてしまいます。そしてその自分を守ということが、この相対的な世界ではどうしても相手の損とか不利益ということに関連しがちです。

夫婦の間、親子の間、兄弟姉妹の間においてすら、そういう自己本位の生き方が行われていて、相手を傷つけやすいのですから、まして、他人との間、特に遠い他国の人との利害関係などは、相手の損害などはほとんど気にかからぬのが一般人の想いのようです。

自国を守るためには、他国人の死などは問題ではありません。戦争などはそういう心理から生まれてくるので、人間の性は善なり、という根本思想が崩れかねません。台風襲来の場合でも、日本本土に来るか他国の方に行くかなどというところへきますと、どうぞ日本本土が襲われませんようにと、自然に想われます。そして他国の方に行ってしまうと、ああよかった、これで助かった、というように他国の損害の方には想いがゆかず、我が身の安穏を感謝する気持ちだけが強くでて参ります。

こういう気持が自然に出てくるところなどは、完全円満である神から生まれた神の子の同一観からは実に外れている、というより仕方がありません。

こういう風に神の子説、性善説の欠点のようなところを反論されますと、よほど徹底した思想の持ち主でないと、それもそうだな、神の子説、性善説は理想論かなあ、と思ったりしてしまいます。

ところが今度は性悪説について、神の子論者から反論すれば、どんな人にも良心というものがある、悪いこと、人間の道に外れたようなことをすれば、誰でも良心が痛むものである。狂人か極悪非道者以外は誰でも良心の痛みはあるのだ、人間はすべて、悪を厭い善を求めている、悪行為には眉をひそめ、善行には感謝感激する。これが人間の本質である。だから人間の性は善である、というのだ、というのであります。

実際この世において、悪を賛美する人は変質者以外にはないと思います。とすると、人間の性は本来善である、ということが出来るわけですが、これがまた、そう簡単に言い切れぬほど人間は複雑に出来ております。

一般の人々というのは、自分や自分の周囲の者と関わりのない善意とか利害関係には、無関心か或いは善意の方に味方しますが、いざその渦中に自分が入ってしまいますと、自己に立っている側を善なり、と思いこもうとします。そしてひたすら自分側の立場の有利になるために、相手の損得を考えようともせず行為するわけです。これは特別優れた人格者ではない限りは、その差はありますが、大同小異のところです。

そう致しますと、こういう行為が自然と出てくる人間という者が、果たして簡単に善なりと言い切れるものではありません。まして、神の子なり、と大きく見得を切るわけにもゆきません。

私共の説いているところは、性善説の側であることは明らかでありますが、ただ単に人間は神の子だ、実相完全円満だ、悪はない、不幸はない、などというのではありません。人間神の子であり、本来善であることは、私(五井先生)の霊体験、霊覚によって明らかなのですが、この現象世界の様相は善悪混交でありまして、悪や不幸の方がより際だって見えております。その最もなるものが、戦争状態であり、国と国のいがみ合いであります。個人集団の小さな悪行為は数限りなくあるようです。そして、より強い悪の方が勝利を収めているようなところもあります。

人間は神の分霊であり、神の子であるけれど、分霊としての自分一個人、肉体人間一人の存在として生きている限りは、この世において、神の子の姿を、はっきり現すことはできない。少しぐらいの善意は、この世界の激しい業想念の波の中ではすぐに蔽われてしまう。人間は業生でないといっても、真実の生き方を知らないでは、業の子と同じように、悪行為をしないでは、生きてゆかれないようなことになってしまう、と考えるのであります。

守護霊守護神に守られているものである

そこで、真実の人間は肉体の個人が自分そのものではなく、先祖の悟った霊魂つまり霊魂の親である守護霊と霊としての親である(言い換えれば、守護霊の親、肉体人間の分霊魂にとっては祖父母に当たる)守護神との完全なるつながりによって、はじめて神の子人間の真実の姿をこの世において現しうるものであると説いているのであります。

守護霊守護神とのつながりを無視して、人間神の子といっても、人間性は善なりといっても、それは極めて微弱なる善意であって、少し業想念の波動がかかってくれば、すぐにもぐらついてしまう程のものなのです。

宇宙神としての神は、絶対者であり、一なる者であります。この一なる大生命が、この地球界に肉体的人間として生活して行くには、一なる大生命としてでは生活していくわけにはいきません。大生命が種種様々に変化して、分生命(分霊)として、この地球界に、一人一人の人間として生まれて来るわけです。

これはどういう変化をしてきてるかと申しますと、「神と人間」に詳しく書いてありますが、一なる宇宙神は、一が二に二が四にというように、その働きを分けまして、天地創造を成し遂げ、人類世界を創ったのであります。人類の最初の出発点と致しまして、そこに直霊という光明源・生命源を七つに分けて存在せしめたのであります。この七つの直霊が、あらゆる人類(あらゆる人類とは、地球ばかりではなく、宇宙のあらゆる星々にすむ人類という意味であります)の世界を創る根本の力となっているわけであります。

この七つの直霊が、それぞれ縦横に働きを分けまして、横には各守護神となり、縦にはずうっと肉体界まで下って肉体人間になり、その間には各守護霊が存在しているのであります。

宇宙神―直霊→分霊―魂魄
       ↓     ↑
     守護神→守護霊

このようにして、一人の人間が出来上がっているのであります。これは只簡単に説明しただけで、事実はもっと複雑なのですが、ここでは簡単な説明にとどめておきます。

宇宙子波動学でも説明されていますが、すべての生物、すべての存在は、七の数の変化が根幹になっておおります。ですから七の数が完成を意味する数というのも、真実なのです。宇宙子波動学を研究しておりますと、いままで宗教的にだけ説明されていたことが、すべて科学的な裏付けがあることだったと、今更のように思えるのであります。

宗教的には、神は唯一神であるとか、多神であるとか、意見が二つに分かれている向きもありますが、神は一神であって多神でもあるわけで、人間は一神から生まれた多神の末でもあるわけです。

そこで次は、どうして神の末である人間が善悪混交の人間に成り下がってしまったのでしょうか、そういう説明から、教義の解説をして参りましょう。

過去世からの誤てる想念とは

宗教の道に足を踏み入れて見て、一番強く感じることは、多くの人々が神に救いを求めながら、実際に安心立命している人、神の子としての真実の姿を出し切っている人が何人あるだろうか、ということです。大方が自分の思いをごまかして、神の子だ、神の子だ、と自分に言い聞かせては、その時々を過ごしているのですが、その人々の行為は神の子の姿を現しきっているとはいえないのです。

まして、神も仏も無い人たちにとっては、救いとか救われとかは問題ではなく、その場、その時々の自我欲望の満足感に、その一生をかけているわけなのであります。

こうした地球界における人類に、神の子の姿が真実に現れるには、一体どうしたらよいのでしょうか。

神の子の姿を現しきる道はなかなか厳しいのです。それはどうしてかといいますと、この地球界は物質世界でありまして、荒い波動の世界、低い次元の世界であります。ところが霊なる人間、直霊から分かれた分霊としての人間は、光明波動そのものでありまして、微妙な波動の自由自在に活動しうる存在者なのです。

この微妙な波動をもった高次元の存在者が、低次元の物質波動を身にまとって生活しなければならないのですから、その不自由さは推して知るべしです。

この不自由さの中で、霊なる人間は、次第に物質波動になれていってしまい、自己の本質から離れていってしまったのです。いわば、肉体波動、物質波動に同化していって、微妙な霊波動、自由自在なる心が、いつの間にか、低次元の波動におおわれていったのであります。このギャップが業波動となって、今日までの人類世界を善悪混交の世界にしているわけなのです。

人間の過去世から今日までに至るまでの誤てる想念、と教義にありますのは、このことでありまして、この業想念波動を超えて、真実の神の子人間をこの世においてもあの世においても現しうるのは、先ほどから申しておりますように、真実の人間の在り方である、守護の神霊との完全なる一体化がなされなければ、到底だめなのであります。

何故かと申しますと、分霊魂泊の人間だけでは、激しく渦巻いている業想念波動の壁を突っ切って、高次元の微妙な波動の世界の自由性を現すことは出来ないからなのです。神の子の本質は、その本住の地である、高次元波動の世界(神の国)から、絶え間ない、光明波動を流入してもらっていなければ、現し得ないのです。

いかなる苦悩といえども現れれば必ず消えるもの

そこで、人間は凡夫なのだから、阿弥陀仏の御名を唱え、阿弥陀仏のみ心の中から改めて真実の人間の生き方を頂き直すという唱名念仏の教えが生まれたのです。また、肉体人間では何事もなしえない、イエスの御名をとおして神につながるのだ、というキリスト教の教えがあるのであります。

私の教えは、阿弥陀仏、イエスというところを、人間一人一人に関係深い、祖先の悟った霊である守護霊と直霊の救済面の現れである守護神という、何教の人でも受け入れやすい名にして、守護霊守護神の御名により、人間が救われるとともに、神の子の真実の姿を現す道を説いているのです。

守護霊守護神というのは、前から申しておりますように、自分自身の本質的な存在なのですから、、切っても切れない仲なのでありますから、こちらが少しでも想いを向ければ、向こうからは光の波動を流しやすくなるのです。それを常に守護霊守護神への感謝をし続けているような態度で生活していれば、これはなおさら守りやすくなり、神の子の姿を早く現しうるようになるのです。

守護の神霊の一体化の姿が、真実の人間の姿なのですから、そういう心でいさえすれば神の子の姿が現れないではおかないものなのです。

しかし、過去世から現在に至るまでの業想念の消えてゆく姿としての、苦悩や不幸災難、嫌な想いがあるのですが、これはすべて、人間の真実の姿が現れるための消えてゆく姿であって、必ず消え去ってゆくものなのです。

この消えてゆく姿という教えに徹しませんと、人間神の子という真実の教えもごまかしになってしまうのです。みんな消えてゆく姿なのだなと、力みなく世界平和の中に入ってゆき、守護神霊への感謝をしていますと、業想念が消えてゆき、人間神の子の姿が現れてくるのです。

人間神の子といっても、この身このまま極楽浄土と言っても、現象世界にはやはり、悪や不幸災難が満ちておりますし、自分の思いの中にも嫌だなという想念もあるのですから、ここは素直に消えてゆく姿という言葉に徹して、すべてを世界平和の祈りの中に入れきって、世界人類の平和を念願するような日常生活を続けてゆくことが良いと思うのです。

そう致しますと、業想念である悪を肯定している性悪説も、世界平和の祈りの中に消えてしまって、自他を責め裁く想いも、次第になくなってしまうのです。

人間は神の分霊であり神の子、業想念(悪や不幸、煩悩)は消えてゆく姿

人間は神の分霊であり神の子であることを自覚した人は、救われているのです。ところが、業想念を人間であると見なし、業想念の現れである悪や不幸にとらわれて、世の中は悪い不幸な世界だ、というように思い続けている人は、救いから遠い人といえます。そのような人から神の子人間は現れてきません。

人間はこの現象世界を、そのまま素直にありのまま、善は善、悪は悪とみ、不幸は不幸と見てよいのです。悪を悪とみまいとし、人間の自然な想いをねじ曲げるようでは、真実の光明思想というわけにはゆきません。

人間は神の分霊であることは間違いないことなのですから、みたまま、味わったまま、現れてくるものすべてを消えてゆく姿として、神様のみ心の中に送り込んでしまえばよいのです。実際にすべては消えてゆく姿に相違ないのですから。

諸行無常、すべてが変化変滅してゆくのがこの世の自然の姿です。ただ常住なるものは何か、といいますと、神のみ心そのものだけなのです。ですから人間は、すべては消えてゆく姿として、神のみ心の中に、すべての想念行為、現象を入れきってしまえばよいわけなのです。

世界平和の祈りという、人類の大調和世界顕現を願う祈り言を、日常生活の時々の間に実行していくのであります。このような日常生活をしていますと、自然に、悪や不幸や自他の誤ちにとらわれなくなってしまい、いつのまにか、真実の光明思想の生活になってしまうのです。肉体人間や物質人間観が、自然に神霊人間観になってしまう易行道が消えてゆく姿で世界平和の祈りなのであります。

どんな困難の中にあっても自分を赦し人を赦す

ここで教義の中の、自分を赦し、人を赦しということについてお話致しましょう。

人を赦し、というということは誰でも申しますが、自分を赦し、ということはあまり申しません。宗教の世界では、かえって自分を責め、たしなめることを善しと思っております。私が自分を赦し、ということを教義にされたのは、人間は完全円満なる神の子である、という根本を知っておりますため、神の子である自分を責め裁くのは、他を責め裁くのと等しく、神を責め裁くことになります。肉体にまつわる想念で、どうして神の生命そのもである自分や他人を責め裁くことができましょうか。

この責め裁く想いが、この世にある限りは、この世に完全平和は訪れません。それでは、自己の悪や誤ちも、他人の悪や誤ちもそのままにしておけるのか、という疑問が出てくると思います。

そのままにしておけとは言ってないのです。責め裁く代わりに、消えてゆく姿という想いで、すべての悪や誤ちを、世界平和の祈りに託して、神のみ心の中に入れきってしまおうとするのです。神は愛そのものであり、大調和そのものですから、神のみ心の中に入れきった業想念である悪や誤ちは、神の大光明波動の中で、見事に消え去ってしまうのであります。

徹頭徹尾消えてゆく姿で世界平和の祈り

消えてゆく姿で世界平和の祈りをする人々を通して、神の大光明波動が、その人々の中に入ってきて、その人々が光り輝いて来るのです。煩悩即菩提という仏教の教えが、そのまま生きてくるのであります。

ところが、自分の誤ちや他人の悪を見て、それをそのまま消えてゆく姿と見ることの出来ない時もあるわけです。その時には、気持の落ち着いた時でよいから、改めて、今のことはすべて消えてゆく姿だったのだな、世界人類が平和でありますように、私たちの天命が、あの人々の天命が完うされますようにという祈りをします。そして、祈りの中に今までのことをすべて入れきって、守護の神霊へ感謝をすればいいのであります。

失敗したら、何度でもよいから、その度ごとに反省して、消えてゆく姿として世界平和の祈りをつづければよいのです。

このように、徹底した消えてゆく姿で世界平和の祈りの行でないと、なかなか個人や人類を浄めるわけにはいきません。

人を責め、他国を責める想念をそのままにしておいて、いくら平和、平和を叫んでも、とうてい世界平和どころか、自分自身の平和な環境さえ生まれては来ません。

私たちは、倦まずたゆまず、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という光明思想の行為をなしつづけてゆかねばなりません。徹頭徹尾消えてゆく姿で世界平和の祈りの日常行をつづけてゆくことが、そのまま自分を救い、人類に世界平和を導き出すことになるのです。どうぞ皆さん、ますます大らかに明るく世界平和の祈りを続けてゆこうではありませんか。



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