5.五井先生の道と筆者

家庭環境

思春期に入り、家庭に会話がほとんどなく、心の奥で孤独感に悩んでいた。

キリスト教に傾倒

しだいに、哲学や宗教に関心をもつようになっていた。ある時、書店で聖書を見ていると、そこに「神は愛なり」という言葉が目についた。この言葉が私の心をとらえ、プロテスタントの教会に行くようになった。毎週欠かさず日曜礼拝に行き、高校生会にも出て友達も出来た。自分の心に愛を与えてくれるのは聖書だと思い、新約聖書を繰り返し読んだ。聖書には、信仰による救いと信者の在るべき姿が書いてある。次第に詳しく読んでいくにつれて、「信仰によって義とされる」ということと「神の子は罪を犯してはいけない」というメッセージに矛盾を感じて、信仰の意味が分からなくなってしまった。洗礼を受ければ聖霊が下り、真理が分かるだろうと思い、洗礼を受けたが、結局、信仰とは何かというところで行き詰まってしまった。

哲学に進む

大学進学を目前にして、キリスト教的な発想を捨て、哲学的に人生を考えることにした。プラトンを読んで対話の重要性を痛感し、大学で西洋哲学を専攻した。哲学的な発想は自分を大らかに解放して、自由な発想で真実を求めることに意義を感じていた。古代人の智慧と芸術に関心をもった。私は人間の理性と進歩を信じていた。しかし、後に理性の限界を痛感させられることになろうとは、その時は夢にも思わぬことであった。

教職に就く

就職浪人をしてやっと中学校の教師になった。しかし、現場は予想以上に厳しく、思春期の子供の気持ちをつかむのは容易ではなかった。それでも地道に勉強を重ね、まともな授業も出来るようになり、教師としての生き甲斐も幾らか感じられるようになっていた。結婚もして一児をもうけた。仕事に自信も出来、役職もつくようになった。家庭も円満であった。

うつの徴候 五井先生との出会い

中年に入り、なんとなく仕事をする気力が湧かず、医者に行くと軽いうつと診断された。そして、なんとなく、仕事への自信に不安を感じるようになった。書店で東洋哲学の本を見ている内に五井昌久の書籍に出会った。五井先生が高い霊覚で書物を書かれていると思い、書店に行くと五井昌久の本をよく買うようになった。

うつ病になり休職する

それから数年して、学校がまたもや、ひどく荒れ、夏休みに入りホッとしたとき気分が落ち込んで仕事をする気がしなくなった。新学期に学校へ行ったが、仕事が手につかず、身体がしんどく、空き時間は寝るばかりしていた。ジョギングをしたりしてみたが、軽い発作があってやめてしまった。体重がどんどん減り人相が変わるほどだった。新年度になったが、気が度々転倒するようになり年休が増え、結局休職を余儀なくされた。休職と同時に、妻が子供を連れて里に帰り、そのまま縁が切れてしまった。

五井先生の本を本気で読む

妻子が去ってからしばらくして、以前からひかれていた五井先生の本を読むようになる。前に比べ、五井先生の言葉の一言一言が身にしみて感じるようになっていた。少しづつ読み進み、主な本はほとんど読んでしまった。そして、なんとか五井先生の教えに救いを見いだそうと懸命に努力した。繰り返し繰り返し読み、付箋をして真意とくみ取ることに努力した。白光真宏会の人ともあって話を聞いたりして、五井先生の教えを理解することに努めた。

阿弥陀信仰、福音的なキリスト教

高校生の時には分からなかった、信仰のみによって救われる、ということが五井先生の本を読んでいる内に分かるようになった。親鸞や一遍の阿弥陀信仰と、ヨハネ伝やパウロの福音的なキリスト教とが本質的には同一であることが、五井先生の本から理解できるようになった。.

信仰によってすべての人が救われる

「魂の救われといものは、必ず最後まで神様を思うものの上に輝く。
神様を思うということは神様と一つになるということなんです。
守護霊様守護神様ありがとうございます、と言うことは、
守護霊守護神、宇宙神と一つになることです。」

五井昌久講話集3」 p115


「神様を思っている方は、本当は神様の国に住んでいるんです。神様を思わない人は
神様の国に住めません。」
「五井昌久講話集5」p131

主イエスは、弟子に「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15.5)といっておられます。主イエスを信じる者は、イエスとつながり一つであると言われるのです。例えば、信じ合っている夫婦、師弟、同志は一体であるといわれます。信じ合うことにより、心と心が結びつくからです。

信仰も全く同じであって、主イエスを信じることは、主イエスと心が一つになっています。
「葡萄の木と枝」のように。五井先生を信じる人も五井先生と一つになっています。阿弥陀仏を信じる人は、阿弥陀仏と一つになっています。元来南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰命することだから、命において阿弥陀仏と一つになることです。信仰により主イエスや五井先生、阿弥陀仏と一つであることは、心の中に主イエスや五井先生、阿弥陀仏の命がましますことだから、救われています。パウロは、それを「信仰により義とされる」という言い方をしました。

神仏を信じていれば、
「願わずとも必要なものは与えられる」「運命を恐れるな」p226

 
「神様というものは、お願いしたら、なんでも願い通りにして下さるというものではなく、神様の
大愛を信じて生活していれば、自然と、神と一体の心境になり、心身共に平安の境地になりうるのです。・・・
願わなくとも、神様のほうではその人に必要なものを、ご存知なので、いちいち細かいことを神様に
願わなくとも、自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っていれば、自分が思っている以上の
物事が与えられたりするものです。」
「運命を恐れるな」p226

「他の祈りはなんにもいらないから、『世界人類が平和でありますように』とやっていますと
自分の個人的な願い事もその中で叶えられるのです」
「五井昌久講話集2」 p112

「病気は世界平和の祈りの中にもっていっちゃいなさい。迷いも世界平和の祈りの中に
もっていっちゃいなさい。それで足りなかったら、五井先生と言えばいい。私が引き受けます。
貧乏でも病気でもみんな引き受けます、と言っているんだから、こんな楽なことはないですね。」

「私に荷物を預けなさい」p175

私に荷物を預けなさい


宇宙の法則から言えば、本来は自ら為したカルマ(業)は自ら償わなければいけません。自由意志が与えられている人間は、自分の言動にすべての責任が与えられています。まず自分のカルマの償いを潔く受けようとする覚悟をもたなければいけません。

しかし、もしそれだけであるとするならば、人間はいつになったら救われるのでしょうか。善行を積み続けていけばいつかは悪業は尽きるかも知れません。しかし末世といわれるこの世で、善行だけを積み続けることが可能でしょうか。地球には業想念の渦が巻いています。地球人類である以上どんな人でもその中で生きていかなければなりません。過去生からのカルマは大きな層をなしています。それを消し去る時はいつ来るのでしょうか。今生だけで可能でしょうか。来世を含めていつ救われる時が来るのでしょうか。誰も断言出来る人はいないでしょう。

現在の境遇が順調で、自分は悪いことなど何一つしていない、心も落ち着いていると言える方がおられるかも知れません。しかしそれが永久に続くのでしょうか。苦難に見舞われないと断言できる人がいるのでしょうか。むしろ、内に潜んでいるカルマが本当に解消される時は、苦しみや悲しみを伴う時であると言われます。そうであるならば、自らのカルマが滅消し去る時には、何らかの試練が待ち受けていると考えた方がよいでしょう。

病気、失業、家庭の崩壊などの苦難に遭遇した時、霊的に道徳的に法的に心理的に迷うことなく行動できると断言出来る人がどれほどおられるでしょうか。むしろ、歳を経て様々な労苦を重ねる内に、自らの業の深さを痛感することの方が多いのではないでしょうか。

五井先生は、因果報応、信賞必罰だけが宇宙の法則であれば、人間が救われる可能性は甚だ少なく、人類の歴史が証明しているように、苦悩多く幸少なき人生が大部分で、人間に生まれたことがまことに不幸であり、神仏の存在価値もなくなってしまうとも仰っています。「神と人間」p18

また、神は「法則の神」としても働いているけれども、「救済の神」としても働いていると仰っています。そして、神の本質は限りない愛であるとも言われています。であるが故に、神は守護神守護霊を遣わして、人間のカルマを日夜消して、人間を救いに導いていると同時に、守護霊守護神は人間の罪業を引き受け、常に人間を救おうとしておられるとも説いておいでです。

人間は本来自ら為した罪業は自ら刈り取らなければいけません。しかし、もし神仏のすべてを救おうとする慈悲を信じるならば、状況は大きく変わり、神仏は人間の罪業を引き受けて、救いに導いて下さいます。それには、信じる心さえあればよいのです。神仏の限りない慈悲により救われない者は誰もいません。ただ、救いを現世利益的に捉えてはいけません。神仏は、人間の魂を浄めることにより救おうとされます。ですから、しばらくは試練は続くかも知れませんが、人生は必ず光明に転じます。なぜなら、神仏を信じる人は天とつながっているからです。そして、神仏はすべての罪業を浄めて天国浄土(神界)に導いて下さいます。これは五井先生の堅い約束です。

このように、主イエスや阿弥陀如来、五井先生は、信じる者の罪業を引き受けて下さいます。神仏の無量の慈悲で救われない者は誰もいません。主イエスの十字架の贖罪のために。阿弥陀如来の本願のために。救世の大光明(五井先生)の働きのゆえに。この三者は違うように見えますが、実は神仏の救済活動をそれぞれの立場で語っているわけです。神仏の救済活動の本質はすべてを救はんとする限りない慈悲(愛)にほかありません。

「イエスは、人間の原罪をその一身に背負って、人類の身代わりとして十字架にかかった人であり、
阿弥陀如来すなわち法蔵菩薩は、四十八願をたてて、自己の名を呼ぶ人間すべてが救われなければ
仏にならない、と宣言して仏になった人ですから、伴に人類救済の大悲願をもつ神の救済面の働きを
人格化して現しているわけです。」
「宗教問答正編」p162

運命から逃れようとせず、出てくるものは潔く受けようという一大勇気と、出てくるものは必ず消えるんだ、これでよくなるんだ、守護霊・守護神さんが加護して、必ず消して下さる、と強い信念をもつことが大切なんです。「五井昌久講話集1」p.91

用水の中へ落ちゃったら「助けてくれ!」云えばいいものを、「自分でやる、やる」と云うんです。「自分でやったことは自分の責任だから」とやろうとする。それは非常に結構なようだけど、実は結構じゃないんですね。自分をいじめてしまうんです。助けてもらっていいんですよ。「助けて下さい!」と素直に言えばいいんです。

「お前が悪いんだから、それは自分ではらわなければならない。自分で出した行いは
自分で償え、それじゃ、宗教家が出た意味がない。サアその悪いのを私に下さい。私がみんな
もらってあげましょう、というんです。」
「五井昌久講話集3」p12

「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けました」という言葉は
大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、
と言う時には法蔵菩薩(阿弥陀仏)と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。
もし違約すれば私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私は
いつまでたったって悟れないことになりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも
千人にも万人にも、私が救ってあげますよ、と言うときには、皆さんの業を全部ひっかぶった
ことなのです
。何百何千何万何十万という業を全部ひっかぶったことなのですよ。それはなにか
というと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、ということと同じなのです。
「私に荷物を預けなさい」p38

ここで話をしているのは、皆さんの先祖の先祖の大先祖といえば、守護霊も守護神も
ひっくるめた元の元が話をしている。その元の元が「お前たちの運命は私が引き受けている、
心配するなよ、救ったんだよ」と言っているのです。それが、この場所である五井先生という
肉体を通してしゃべる。それを霊的にみれば、ここに光り輝く大光明がある。キリストや仏陀が
立ったり、白髪の老翁が立ったりするのだけれども、それはみんなこの中(自分を指す)にある。
それは今に分かる。必ず分かるのです。
「私に荷物を預けなさい」p39

「イエスさんが十字架にかかったのは、人類の原罪を身代わりに背負ったことなのです。
私がみんなの代わりになって原罪を背負ったんだから、あなた方は罪の観念を捨てなさい。
罪汚れは私が引き受けたんだから、あなた方は、私の名を呼べば助けてあげる。といって
十字架にかかったんです。

キリストは旧約聖書を本当に解釈して教えようと思ったのです。あのままでは
間違っているのだから。そのためにはアダムとイブの原罪、人間は罪の子だと
いう観念を一度抹殺しなければならないでしょう。それでキリストが出てきて
サア、あなたがたに変わって私が十字架にかかって、あなた方の罪をみんな消したんだから
私を思いなさい、そうすれば皆救われるんだと、とこう言ったわけです。

イエスがせっかく、十字架にかかって、あなたがたは罪がないんだよ、私が代わりに背負って
やったんだから、のうのうと明るく、みんな愛し合ったらいいじゃないか、というのに
やっぱり自分は罪があるような気がして、自分が自分で守らななきゃならないような
きがしている。イエスさんにまかしちゃえばいいのよ。私にまかせなさいと言って十字架に
かかったんだから「さあ、イエスさんにおまかせします」と苦労もみんなイエスさんに
まかせてしまえばみんな罪を赦されちゃうんですよ。」

「私に荷物を預けなさい」p151

「あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊、守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーっと一遍にきれいにしてしまうんです。きれいにしてあの世にゆくのです。そうすると人間というものが全然変わってしまうんです。」
「永遠のいのち」p132

人間本来神の子

さらに、真理を単刀直入に語れば、人間は本来神の子であり、罪業は現象としてはあるように思えますが、実体はなく消え去ってゆくもの(消えてゆく姿)です。真に実在するものは神の子人間だけです。罪業は月(神の子)を覆っているいる雲のようなもので、いずれは消え去ってしまいます。罪業が実在するように想うから迷うのであり、消えてゆく姿であると認識できれば、自分が神の子であることを知ることが出来ます。

「自分を罪深い者と思い、駄目な者と思ってはいけません。自分は神から来た者であることを、
一心をこめて知らなければいけません。駄目なのは、あなたが肉体だけを自分だと思っているからで
あなたの本体は神から来ているのですから、本体は神の子なのです。
駄目な自分はすべて消えてゆく
姿で、自分の本体ではありません。
その真理を信じて、自分を赦し人を赦し、守護の神霊への感謝を
つづけ、世界平和の祈りに明け暮れるようにしてごらんなさい。必ずあなたに夜明けが訪れます。」
「武産合気」p25

信仰と救い

とはいえ、苦悩が激しくなると、消えてゆく姿と思いにくい。苦痛は感じるので消えてゆくと思いにくい。そのような時は、
信仰により、ひたすら五井先生(主イエス・阿弥陀如来・・・)の深い慈悲により天とつながり、救われていることを思いましょう。

自分はなんて情けないのだろうと思いだしたら、五井先生(主イエス・阿弥陀如来・・・)の深い慈悲により
天とつながっており、救われていることを思いましょう。そうすれば、他人と比べて引け目を感じることはないはずです。

「私を想いなさいと言っている私は、肉体の五井昌久ではなくて、神界の五井昌久なんです。
神様の世界にいる人なんです、そうすると五井昌久という肉体が梯子になりまして、梯子を
通してスーっと上っていく。そうすると一遍に神界へ行っちゃう。」
「五井昌久講話集3」p41

また、このように業の深い者を救うためにこそ、み仏の願(すべての人を救おうとする悲願)があることを思い、救いを賜る御仏の無量の慈悲に感謝致しましょう。どんな悪業もみ仏の無量の慈悲の光を妨げることは出来ません。

ダメならダメでいいのです。それも消えてゆく姿です。ダメな者を救うためにみ仏の願があるのです「念仏は神様の人類救済宣言なのです。」「五井昌久講話集2」p113 ダメな自分はほって置いて、すべてを救わんとするみ仏の願(慈悲)を思いましょう。そして、み仏の願(慈悲)により救われていることをよくよく思いましょう。み仏の慈悲により救われている人は、み仏と一つであり永遠の命を持ち天国浄土の民でもあります。

「守護霊の導きに従って悪いことが現れた時、動揺してはいけません。これで業が消えてゆく、これで必ずよくなると、その信仰をあくまで堅持することです。これが天とつながる道なのです。失敗しようが、人に悪口をいわれようが、ただただ守護霊(神仏)を信じ切ることです。信ずるより他にはないのです。」「五井昌久講話集1」p48

「宗教の極意というものは、おまえの心を直せ、おまえの我が儘を直せという風に教えるもんじゃなくて
神様は愛なんだから、神様にすがりさえすればいいんだ、と教えるんです」
「五井昌久講話集2」p16

「煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこし給う本意、悪人
(業の深い者)成仏のためならば、他力を頼み奉る悪人は、もとも往生の正因なり」歎異抄第三条

「一度世界平和の祈りを唱えた人は、もはや光のエレベーターに乗っているのですから、神様のみ心から離れようがないのです。」
「宗教問答続編」p42

「世界平和の祈りを唱えている人は、天国行きの
救いの船に乗っているのです。何もしないでも上げてもらえるのですよ。優雅ですなーといって乗っていればいいのです。」
法話のテープ「愛なる神々」

真の福音

人間の本質は神の子です。ただ過去世からの業(煩悩)の暗雲が
おおっていて、神の子の姿の一部しか見えてないので駄目なように見えているだけなのです。
その業は心の迷いで実在するものではないのですが、人間だけの力で簡単に消せるものではないのです。
それを引き受け消して下さるのが守護霊守護神・五井先生(神仏)なのです。
最終的には守護霊守護神・五井先生(神仏)がすべての責任を負い、
すべての業を消して、天国浄土(神界)へつれていって下さいます。
したがって、守護霊守護神(神仏)、もしくは五井先生を信じた時(世界平和の祈りを唱えた時)、天につながり救われます。
この世の幸せも、守護霊守護神・五井先生(神仏)を信じていれば、
「必要なものは願わずとも与えられます」
そして
「いかなる困難な事態がその人の前に起ころうと、守護霊の守りを信じうる人は、必ず、その事態は
光明に転じます」
「神と人間」p56
守護霊守護神・五井先生(神仏)の救いを信じている人(世界平和の祈りを唱えている人)は、天とつながっており、天国浄土(神界)に必ず往生します。そしてこの世でも人生は必ず光明化します。これが真の福音です。

「神と人間について私の言うことを、そのまま素直に実行して下されば、その人が幸福になるのは間違いない。
その点、私は、難しい行を少しも説かず、すぐその場で実行にうつせる祈りや行いを書いているのである」
「神と人間」p99

「皆さんの運命は私が引き受けた!この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念で
やりなさい。私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。
どうぞそのつもりで。」
「魂が大きく開く時」p77

助けて下さいとすがりつくのではないんですよ。あなた方はもう救われているのです。人間の
本体は光明燦然たる神様なのです。それがあなた方の本体なんです。肉体はその道具なんです。
その真理を知って、人類と世界を救いたいという大菩薩心を興して、守護霊・守護神につながり
世界と日本の平和をひたすら祈ることです。
「五井昌久講話集1」p.138

老人が最後に「神霊の守護の下に他界において、新たな神の使命に入ってゆけるのだ。有難うございます。」と思って息を引き取れば、潜在意識は浄化されて、神の栄光を如実に現す立場に自己を置くことが出来るようになります。
「霊性の開発」p58

信仰告白

肉体人間は 煩悩具足の凡夫なり
煩悩具足の凡夫に 何をか求めんや
よって神仏を信ずとき、天につながり救はれん
神仏こそ 限りなき慈悲にて
すべてを 受け入れ
すべてを 赦し
すべてを 救ひ給ふべし

故に 吾らも
すべてを 受け入れ
すべてを 赦し
すべて 愛さんや

救ひ賜る神仏を 誉め讃へ
感謝の祈りを 捧げんや
更にすべての人の 救はれんことを願ひ
世界平和の祈りを 奉まつらんや

祈りの 中にて
神仏は 吾らを浄め給ふ
而して 凡愚なる吾が消えし時
悟りを 得んや
急ぐべからず

凡愚なる吾を 頼るべからず
神仏の慈悲を 心より信じ
神仏に 託すとき
神仏の御心 現れて
悟りを 得るべし


世界平和の祈り

神仏の限りない慈悲により天とつながり、救われていることに感謝致しましょう。

守護霊様
守護神様
五井先生
有り難うございます


さらに、自分が救われるだけではなく、すべての人が救われるように

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように

と菩薩の祈りを捧げましょう。


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