(6)宗教問答(正編)

                                                        宗教問答正編

 五井先生の主著ともいってよい著作で、続編を含めて、人生や宇宙の哲学的問いから日常的な問いまで150の問いに対して、五井先生が自らの霊覚をもって、明確に答えておられるもの。人生と宇宙の疑問は、ほとんどこの宗教問答に解答を見いだすことができる。内容は実に深く広いもので、ここで詳しく書くことは不可能なので、ぜひ手にして読んで頂きたい。ここでは、150の問いの内容と、解答の中で特に銘記すべきみ言葉を書き記すことにした。難解な箇所は( )で筆者補注をつけました。

問1 神秘力と宗教とはどんな関係がありますか。

神秘力には、二通りあります。

一つは、神我一体になりきり正覚(大悟)を得ることから来た神通力で、これが真の神秘力です。キリストや釈迦のような神通力をいいます。

もう一つは、神我一体になりきり、正覚(大悟)を得ているわけではないのに、他界の想念の波を受けやすい人が、他界の生物に感応して、知らないことが分かったり、相手の病気を治したりする霊能で、大部分の行者や霊能者がこれにあたります。このような霊能は、真の神通力ではありません。

宗教とは、人間の真の姿を知らせて、安心立命を得させるものです。それに反するような霊能は、真の宗教ではなく、真の神通力ではありません。

真の神通力は、自己の神性開発によって開けてゆくのもであって、宗教と深い関係がありますが、自己の神性開発(愛と真と美)に関係のない霊能は宗教とはなんら関係はありません。つまり邪道であるわけです。


問2 全託(神様にすべてを託すこと)の心はどうしたら出来ますか。

一に、神は愛そのものであり、人間を損なうものではないことを信じること。
(どんな困難にあっても、それは、(人類の)過去世の業の消えてゆく姿であり、また人間を高めるための試練です。しただって、どんな困難なことがあっても絶対によい方向へ行っていることを信じることが、そのまま全託につながっていきます)筆者補注

二に、すべての宇宙万有は神様がお造りになり、神様の深い深い智慧により動かされていることを知りましょう。
(この世で起こることは、すべて何らかの意味があります。その時は不都合なことに思えても、長い年月をかけて見れば、人間の進歩につながって行きます。神様のそのような大きな御心を信じ、どんな運命であっても潔く受け入れ、最後まで神様を信じ切って行けば、それがそのまま全託になっていきます。)筆者補注

三に、神様は一人として無駄に人間をお造りになることはありません。ですから、すべての人は天命をもって生まれてきています。そのことを信じ、今置かれた境遇の中で最善をを尽くして行けば、全託につながっていきます。

(全託というと、何か自分のすべてを献身しなければいけないようで、とても凡人には出来ないように思えます。そのように理屈で考えるから余計難しく思えてしまうだけです。神様にすがりさえすれば救われるんだ、後はすべて神様が変えて下さるんだ、神様有難うございます、よろしくお願いします、と祈っていれば、それがそのまま全託の境地につながっていきます。なんら難しいことではありません。子供でも出来ることです。ただ神様にすがるだけです。それしか神様は要求はされていません。後は全能の神様の方ですべて図って下さるのです。)筆者補注


問3 どんな病気でも信仰で治りますか。

どんな病気でも、それが最後の定命であれば、お迎えが来て他界します。

しかし、運命的な危機があっても、信仰生活をしていれば、信仰により病気の業が消されていき病気を乗り越えて長生きをすることができます。

信仰生活をしていれば、第一、第二なりの生命の危機を乗り越え、定命まで生ききることができます。無信仰生活より、信仰生活に入っている人の方が、この世の生活を長引かせることも出来、安心して生活することが出来ます。また、たとえ病気になっても、信仰生活をしていれば、身心が浄められて、病気が次第に善くなり、必ず人生は光明化していゆきます。


問4 信仰すれば商売が繁盛するようになりますか。

直接は関係ありません。
しかし、神を信じて、人々の幸せを祈り、明るい心で誠心誠意尽くしていれば、それが神様や人々に伝わり、商売はよい方向へ向いていきます。

その逆に、ただ儲かりたいだけで、神社仏閣詣でをしても、低級霊にひっかかると、初めは低級霊にひきつけられて客足が伸びても、低級霊には人に災難を与えても人を助ける気持はないので、今以上に欲どおしくなり、最後は低級霊の思いのままに災難にあって大きな損をしていまうことになります。

商売繁盛の秘訣は、奉仕の精神と明朗さであって、神社仏閣詣でではありません。


問5 先生の教えを受けたら、他の宗教は皆止めなければいけませんか。

宗教の根本目的は、人間の真実の姿である本心の開発というところにあるので、たとえ現世利益を得させるにしても、その根本を知らせるための一つの道順でしかありません。宗教が現世利益だけを目的にしているようでは、これは宗教の道からはずれています。真実な宗教は常に、神仏と人間との関係を説き、人間の本質である神性、仏性の開発に寄与するものでなければいけません。

ですから、そうした道に違わぬ教えならば、他のどの宗教家に話を聞いても一向差し支えないと思います。ただし、あなたの素質が自力信仰に適していないのに、自力信仰の話を聞くと、「ああこうしなければいけない。こんなことでは駄目だ」というように、自分に自信を失って自分を責めてしまうと、返って生きる勇気を失ったりします。他力信仰では、神様にすがり、想い、信じていれば、神様(守護の神霊)が、その人に一番適切な方法でその人の神性を開発できるようにして下さります。自分が自力に向いているか、いないかをまず確かめて、どちらかの道に専念することが、人間の神性の開発をする上で重要な点になります。


問6 真の宗教は、常識をはずれずに常識を越えねばならぬとは、どんなことですか。

真の宗教、正しい宗教的な行為とは、人間は常に神の力で活かされていて、すべて神の使命をはたさんがためにこの世に生まれているのであり、愛と真心に満ちた行為をなし続けている人の行為であります。

平常は常識人でありながら、「永遠の生命」を信じているが故に、病んでも傷ついても心乱さず、貧富の生活の波にも心騒がず、自己の職責を果たしている人、自己の力を挙げて人の救済に当たりうるような人、さらには、国家社会人類のために、自己をなげうって働き得る人。これらは、常識を根本にして、しかも、常識を超えたる超人的な行為であります。

こうした人を多くを作り出すことこそ、宗教者の役目というべきでありましょう。


問7 家庭平和の秘訣を教えて下さい。

貴方がもし悪妻をもち、貴女が低級な夫をもったとするならば、それは、貴方や貴女が、過去世において、そうした妻であり、夫であった証しであり、その負債を今生ににおいて払っているのであることを、知らねばなりません。

悪い家庭環境であれば、まず、諦めてしまうことが肝心です。そして、神様にすべてをおまかせするのです。「どうぞ、神様の一番いいように私の運命をお導びき下さい」と、朝昼晩と祈り続けて下さい。そうすると、心が落ち着いて来て、態度も変わってきます。そこで、家族の守護の神霊に感謝の祈りを始めます。そのような祈りを続けていますと、自然に家庭が明るくなり、平和になってきます。

神の愛を信じ、自己に都合の悪いような出方、自己を困らせ嫌がらせるような言行をしてきた場合は、すべて自分の過去世からの誤った想念行為が、そうした形になって消え去っていき、やがては家庭が円満になっていくことを信じて、相手を責めることを止めることです。

神は愛あって全能なのですから、神に運命を任せている人間を不幸のまま置くわけがないのです。p14

問8 素直になるにはどいしたらよいでしょう。

素直とは、あくまで天(神)の真理に素直であるべきなので、相手の曲がった行為や、邪な行為に従うものではなく、夫(上司)の本性(神性)が現れるように、愛と智慧とを働かせてその欠点を補い補いして、伴に一対の調和を計ってゆくところにあるのです。

こうした素直さにはどうしたらなれるかというと、やはり自分を守り、夫(上司)を守って下さっている守護の神霊に共々の天命が完う出来ますように、祈り続けることです。そう祈ることによって、神の愛と智慧がその夫(上司)に働きかけてゆくのです。

ところが、何が真理であるかということは、大きな立場から見ないと分からないことがおうおうとしてあります。そのような時は、一度は、ます相手(上司)の立場を尊重して従順に相手の言葉を拝聴すべきです。そして不審な点があれば、穏やかな態度で自分の考えを述べ、進言してみる勇気が必要です。それでも、相手(上司)が受け入れなければ、その時はそのまま引き下がり、、真理に導いて下さるように繰り返し神に祈るべきです。そして、伴に天命が果たされるように祈っていれば、必ずよい方向へ物事は進んでいくものです。


問9 成長の家の教えと、先生の教えの相違点をご説明下さい。

生長の家では、人間の実相(本来の姿)は神の子であり、物質も肉体もない、したがって、病気も不幸もないと説きます。
それでは、病気や不幸や争いは何故あるのかというと、人間の心の持ち方が悪いから、病気や不幸があるのだと説きます。そうすると、病気になるのは、今の心がけが悪いのだと言うことになり、病人を責めてしまうことになります。今の心が悪いからと説くと、人間に罪悪を認めることになり、人間神の子であるという真理を曇らせてしまったのです。

そこで、五井先生は、人間は徹頭徹尾神の子であるが、人間の病気や不幸、争いは、過去世からの業(カルマ)の消えてゆく姿であり、まるで月の周りの群雲のようにいずれは消えて無くなってしまうわけです。過去世のカルマが病気や不幸という姿になって現れているわけで、今の自分には何ら責任はないわけです。まして、今神を信じ祈っている人は、どんなに困っていても、神の子であり菩薩でもあるのです。

実在するのは、神と神の子人間だけです。後の、病気や貧乏、不幸や災難は、すべて過去世からのカルマが消えていっているわけで、カルマは本来消えてゆくもので、実在するものではありません。

ですから、私の教えには、私が悪いも貴方が悪いもなく、
悪いものはすべて過去世からの業の消えてゆく姿となり、在るものは、
光明燦然たる実相身、み仏ばかり、ということになるのであって、そうした本質の世界が次第に
現れて来ることになるのであります。


問10 どうして戦後に新興宗教が多くなったのですか。並びに、その良否をお伺いします。

既成宗教の他に新しい宗教が起こってきたのは、既成という呼ばれる宗教が、あまりに高遠な人格の完成に導こうとして、この現世の生活状態を問題にせず、また、現世利益をはなから問題にしないような導きをしていたことが大きな原因にあります。そこで、現世利益を与えつつ、知らず知らずの内に業にふりまわされる生活から抜け出て、神仏の御心を心して生きてゆけるような導き方をする真の宗教が生まれて来たのです。

ただし、迷える人の弱みにつけこんで、現世利益だけを説き、献金(お布施)と称して多額の金品を要求したりして、神仏の名を利用して現世利益だけを求めるような宗教は、やはり邪であり、新しく興った宗教の対面を汚していると言われても仕方がありません。このような宗教が旨い利益や権力だけを得ようとしていると、幽界の低級霊にもてあそばれて、返って災難を大きくするような結果になってしまいます。ですから、正しい宗教の在り方をよくよく考えなければいけません。



問11 世界平和の祈りの最中に雑念が出て困るのですが、これでも良いのでしょうか。
     
それでよいのです。祈ろうとする時、もうすでに自分というものが、神仏の中に一体となっています。このことをまず信じなければいけません。自己というものは、本来神仏の中に本住の地があるので、真実の自我は、神仏の心であるわけです。これが宗教の根本なのであって、この真理をはずれては宗教が成り立ちませんし、人間はすくわれないのです。

祈りとは、五感、六感の束縛の中から、自己を神仏の世界、人間の本住の地に昇華することなのです。自分の本住の地に帰ることなのであります。祈りの目的は業想念から離れて、本心の世界、神仏の世界に、自我を帰一させることであります。

世界平和の祈りは、自分が神仏の世界に帰ると同時に、逆に神仏の世界から肉体人間の世界が平和であるように、神仏の光明を肉体世界に放射している祈りなのであります。


ですから、世界平和の祈りをしようとした時、もうその人は光明の世界、神仏の世界に一歩足を踏み入れてるのですから、そのまま祈りを続けていればいいのです。その時いくら雑念がわきあがってきても、業想念の消えてゆく姿なのですから、祈りには一向影響しません。これでよいのかしらと思う想いも、業想念の消えてゆく姿なのです。消えてゆく姿なのであって、真実の人間の心、祈りの心は、どんな雑念の中にあっても光り輝いて、世界を照らしているのです。



問12 人間の運命は変えられますか。

運命は変えられます、変わります。運命を変えるにはその人が、現在までのものの考え方、行い方などの
習性を改めなければなりません。そこで、宗教の必要性が起こってくるのです。宗教とは、現在のその人の
習慣的な想念行為を超えて神仏のみ心を現すことが出来るからです。

運命を変えるには、まず私たちは、自分自身で生きているものではなく、何か大きな力に生かされているも
のである、という謙虚な心になることが第一であります。今、私たちが置かれている不幸な環境は、過去生か
ら現在までの誤った想念行為、神仏と離れていた想念行為が、現れて消えていっているわけです。消えてゆ
けばゆくほど、業想念は浄められて、私たちの心はより善良になっています。ですから、私たちの思いや行い
も改善されているわけです。このことを信じ、私たちの業想念を背負い消して下さっている守護の神霊に感謝
を続けるのです。

たとへ逆境にあっても、守護の神霊は私たちを守り、導き、そしてその人の罪業を背負って消して下さいます。
この守護の神霊の働きがなくては、人間は真実の救いに至ることは出来ません。守護の神霊(五井先生、主
イエス、阿弥陀如来など)の働きによって救われているのです。ですから、私たちを救って下さっている守護の
神霊にいつも感謝いたしましょう。そうすれば、魂が救われると同時に、運命はどんどんよい方向へ変わってい
きます。



問13 煩悩即菩提という言葉がありますが、これはどういう意味でしょう。

人間は神の分身ですが、地球人類は進化の過程にあり、完全円満な神の子の姿を現してはいません。
完全円満な神の子の姿を現すためには、人間がもってしまった業想念を浄めていかなければいけません。
そこで、業想念が溜まると自壊作用が起こり、煩悩(怒り、妬み、ひがみ、不満、不安等)となって消えてゆ
きます。

だから、苦悩が深ければ深いほど、多くの業想念が消えていっているわけです。そして、神の姿が現れ
て来ているのです。人間は、苦悩の方ばかりを見るので悲観したりしますが、本当は、苦悩により業想念
が消えてゆき、魂は浄化されて行っているわけです。煩悩は業想念の消えてゆく姿であり、切りくずのよ
うなものです。切りくずが多ければ多いほど、彫刻は完成に近づいています。それと同じように、消えてゆく
姿(苦悩、煩悩)が多ければ多いほど、魂は浄められて、神の子の姿に近づいているのです。

煩悩はみ仏(五井先生)にお委せしましょう。み仏(五井先生)がすべて処分して下さいます。私たちは、
み仏(五井先生)により救われていることを想い感謝していればいいのです。その感謝の念が深ければ
深いほど、神の子に近づいているのです。

み仏の本願により煩悩をもったままで救われていることを想い常に感謝しているだけでいいのです。後は
すべて、み仏(五井先生)が導いてくださいます。


問14 お浄めをして頂くと、どうして運命や病気が良くなるのですか。

人間の本体は神霊体ですが、現実的には、肉体(顕在意識)と神霊体(神意識)の間にある幽体
(潜在意識)に業想念が溜まっており、人間本来の神霊の力が肉体に及ばず、それが不運や病気
というような不都合な現象を引き起こしているわけです。

幽体の業想念を浄めてしまえば、神霊の力が肉体意識に及び神我一体の聖者になり得るのです。
しかし、幽体の業想念を浄め尽くすことは容易ではなく、聖者と言われる人は今でもほんの少数しか
存在し得ないのです。

聖者と言われる人は、神霊の力を直接発揮できる人ですから、そのような聖者に浄めてもらえば
直接大きな浄めを受けることが出来ます。キリストや釈尊は、そのような意味で、偉大な宗教家で
あったわけです。

五井先生も、守護の神霊の導きにより、神我一体になり神霊の力を体現されました。ですから、五井
先生に浄めて頂ければ、幽体の汚れを大きく浄めることが出来、悟りに大きく近づくことが出来たのです。

神霊(天)と肉体(地)を結びつけるのは愛だけであります。神霊の光は愛そのものであり、その
愛を受け入れた時、人間は、神霊とつながり得るのです。聖者の役割は、神霊の慈愛を人間に取り
次ぐことであり、お浄めは、神霊の光を取り次いで人間の業想念を浄めることに他ありません。

この世界は、諸神善霊によって守護されつつ、真実の肉体人間の完成の道を、
突き進んでいるものであることを知った時の喜びは、筆舌には尽くし得ないものでありました。



問15 私たち先生の信徒として菩薩行をするには、どんな心がけで、どんな行いをしたらよいのでしょう。

菩薩行とは、一口にいうと、人間を真の救済に役立つ行でありますから、人間の内でも一番身近で
ある自分を神仏の世界に住まわせることこそ、最も重要なことであります。

人間を神仏の世界に引き上げて下さるのは、守護の神霊です。守護の神霊は人間を守りつつ天へと
導いて下さるのです。そのような守護の神霊の働きに対して、私たちは守護霊、守護神に常に感謝を
捧げなければいけません。守護霊に常に感謝をしていれば、守護の神霊と肉体人間の想念が接近して、
守護の神霊は、いっそう人間を導きやすくなります。

守護の神霊はあらゆる方法で、人間の業想念を消して下さっていますが、業想念が消え去る時に私たちに
とっては、様々な苦悩や煩悩の姿になって消えてゆきます。どんな苦悩や煩悩であっても、それは、過去世
からの業想念が消えていっているのであって、今の自分が悪いのではありません。業想念が消えてゆけば
ゆくほど、幽体は浄められて、人間の実体である神の子の姿が現れてきます。

業想念が消えてゆく時、どんなつらい目にあっても、今の自分や人を責めず、これで、業想念が消えてゆき、
自分は一層浄められて、神の子の姿になっているのだと思って、守護の神霊に感謝致しましょう。

守護の神霊に感謝することを根底において、自分や人を責めることなく、消えてゆく姿を行じてゆけば、
私たちは、次第に浄められて、神の子であり菩薩である姿を現す時がやってきます。


問16 死後の生活を分かり易く説明して下さい。先生の信徒が死んだら・・・唯物論者が死んだら・・・

死んでしまったらもう終わりだという考え方が多い世の中ではありますが、死後の世界は、この世以上に
はっきりした存在であることは、私の体験からしても明らかであります。

死後の世界は、その人の思いが、非常に早くその人の環境として現れる世界に居住することになります。
その人の習慣性となっている想念の世界に、まず住まなければならないことになります。

神仏の存在を否定している人は、神を感じない世界、愛のない、暗い、不完全、不満な、不調和な世界に
自らを置いてしまいます。そして、神仏が存在しないことが、いかに不幸であり、不調和であるかを、思いの
中から感じさせられるのです。

ところが、神の大愛、み仏の慈悲を信じ、守護の神霊の存在を信じている人は、死後に、神仏や
守護の神霊の救いや守りを受けることが出来ます。そうしたわけで、私(五井先生)の教えの通りに行じて
おられる方、まして、「世界平和の祈り」を真剣にしておられる方は、そのまま菩薩行としてのものですから、
霊界の上位、神界まで到達することができます。これは、私の霊覚ではっきり認識していることであります。

身近な守護霊と想いが一つなれば守護霊は守護神のもとに想いを交流させているのですから、
肉体身、守護霊、守護神と想いが繋がり、やがて自分の本体、直霊(親神様)の光明がはっきりと
現れて来るのであります。



問17 私は小児麻痺の子を持つ親ですが、手足はきかず、ものも良くしゃべれぬその子のために、
思い悩んで数々の宗教団体にも入りましたが、成人になった今日までも良くなる傾向がありません。
私はこの先、一体どういう想いで生きてゆけばいいのでしょうか。また、無邪気な清らかな子供が
どうしてこのような体で生まれついて来たのでしょうか。


病気の原因には、肉体的な原因、精神的な原因、霊的な原因の三つの要因があります。霊的な原因が強い
場合、現代医学では治療の手だてないために、治りにくいことがあります。

人間は、誰でもが過去世からの業想念を抱いています。その業想念の波が身体の働きを妨げると、病気と
いう現象になって現れます。その波に祖先の迷った想念や地球に渦巻いている業想念が感応して来ると、
現代医学では治療の手だてのない難しい病気になることがあります。

しかし、そのように祖先や人類の業想念を受けて苦しむ場合は、多数の人の業想念を肉体に受けて浄めて
いるわけですから、大変な菩薩行をしていることになります。多くの人を救うために、その人が犠牲になって
いるからです。

これは、取りも直さず、貴女の小児麻痺のご子息が、そのような運命を引き受けて生まれて来たわけで、
天使のような純粋な魂であることを証明しています。私たちは、そのような不自由な方を大切にしなければ
いけません。そのような方がおられるが為に、地球人類の混乱が防がれているからです。

神はいつまでもそのような状態を見逃しておられるわけではありません。神は守護霊、守護神をご子息に
派遣しておられます。守護霊、守護神は、先祖や人類の業想念を懸命に浄めてくれています。ただし、
貴女があまりにも焦りすぎると想念が乱れ、守護霊、守護神の活動を妨げてしまします。ですから、焦る想いを
守護霊、守護神に感謝する祈りに切り替えて下さい。そうすれば、貴女自身も楽になり、ご子息の霊魂も
昇華されて行くことを私(五井先生)が保証致します。



問18 現代の心ある人は個人の救済に満足せず、大きく社会・国家の救済幸福を要求していますが
それには、やはり政治が良くならなければと思われます。宗教と政治について先生はどのように
考えられておられるのでしょうか。


どのような制度に政治の形を変えようとも、政治家の心が神の叡智を受け入れうるようでなくては、到底
国家を安泰にし、世界を真の平和に導くことは出来ません。

施政者の心が、神の叡智を受け入れるまでに清まれば、政治の形や制度は自ずから定まってくるものです。
このような政治こそ揺るぎない政治に成りうるのであって、その場の利害得失のみで動く政治は、一時は
如何によく見えようとも、失敗に陥りかねません。

神の叡智が画いている政治というものは、現在何処の国にも現れていない政治方式であって、神権政治と
いいましょうか、肉体人間の上に神霊を置いての政治であります。この具体的な方法は、まだ神からはっきり
示されてはおりませんが、ただひたすら「世界平和の祈り」をなせ、「世界平和の祈り」と「守護の神霊への
感謝」を成し続けよ、さすれば、想像を超えた方法で、世界平和を生み出す政治が実現しうる、ということは、
はっきり示されております。

そこで、私たち神霊界と肉体界とに働いている者が、お互いの祈りによって、神と人間とを隔絶させている
業想念の波を、払い浄め続けているのです。自我欲望の業想念が人類に満ち、そうした業想念によって
各国の政治が行われている以上、地球世界の完全平和は望めそうにないからです。


問19 自然法爾という言葉の意味をお教え下さい。

自然法爾とは、神仏の御心のままという意味です。

神と人間との真実の関係を知らなければ、自然法爾の生活は出来ません。自然法爾の生活に
入る第一歩は、人間は神の分身であるから、神の御心のままに行動していれば、自ずと自分の
天命が果たされてゆくものであるである、ということを信じることであります。

第二に、すべての人間は神の分生命であるから、命の親である神が、人間に結論的に悪いように
するはずがない、と信じることであります。

第三に、神は絶対の権能力をもつものであり、神の他に実在するものはないことを信じることであり
ます。

もしかして、神が罰をあてはしないだろうか、神の他に悪魔というものがあって、その悪魔の方が
神より強いのではなかろうか、などと思ったりしていては、とても自然法爾の境地に近づくことは
出来ません。

自然法爾の心境になる一番の近道は、
自分を守り導いて下さり、人間を救済して下さる守護の神霊にたゆみない感謝をすることです。
そして、すべての悪も不幸も皆時がたてば消え去ってゆくのだ、病気だ不幸だと想う想念も
今日まで蓄積されていた迷いの消え去ってゆく姿なのだ、と思い続けるのです。そうすれば
業想念が浄められ神仏の御心が現れてきます。

ただ、消え去らぬのはそれは神なのであります。神を具体的に説明するなら、愛、光明、誠実、
真実の美と幸福、大調和の姿でありまして、その中に、悪や不幸の姿は絶対にないのであります。
愛と慈悲である神の御心を信じていれば、試練に負けることなく、すべてを神の御心と自然に
思うことが出来るようになるのです。


問20 「まかせる」ということでは、人間世界に進歩がないのではないか、と青年層の人々に
     常に質問されますが、この点についてお教えて下さい。


神から来ている命なのだから、神様のご自由にお使い下さいという意味のおまかせなのであります。
真の祈りは、神にすべてをおまかせすることでもあります。

神は人間の生みの親であり、今の地球人類は神の幼子のようなものです。ですから、神に手をとって
導いてもらうことが人間には最善なのです。ですから、常に神の御心にまかせていくことが最も賢明な
生き方になります。

神は限りない愛であり慈悲でもあります。ですから、神を信じている者に罰を当てるようなことは絶対に
ありません。ですから、たとえ外見では自分に不都合な出来事でも、それは大きな目で見れば必ず
自分にプラスになることなのです。ですから、どんなことが起こっても、神の御心と受け取るだけの信仰が
必要です。

ですから、神仏の実在を信じ、神仏から与えられた何らかの天命があることを信じて、自己の置かれた
立場で真剣な努力を払う、というのが私たちに出来るおまかせであると思います。

真実は、世界平和の祈りの中から、あなた方の運命も世界の運命も、すべての運命が進展していくので
あって、この祈りが、神へのおまかせの祈りでもあるのです。


問21 救いとか救われとかいいますが、真実の救い、真実の救われの状態とは、どんな
状態をいうのでしょうか。


宗教的救いとは、真実の人間とは何か、真実の人間の生き方とは何か、と言うことを知ることです。
つまり、人間の中に実在する神仏の心を現し、神仏の心を人間の生活に生かしてゆくことです。

言いかえますと、真実の救いとは、精神的、霊的な救いであり、永遠の生命(神の命)を人間生活に生かし
ていける心の状態を言うのであります。

神様は、特定の人々のみを救おうと想っているのではなく、人間のすべてを救い上げようと思って
いらっしゃるのです。何も難しい理論や、出来がたい行をしなければ救われないと云うものでは
ありません。そのために救いの使者として、守護神、守護霊を一人一人に配置して下さって
いるのです。真実の救われに入るためになさねばならぬことは、私たちを救って下さる守護の
神霊(神仏)に感謝することだけなのであります。



問22 気が弱い、短気等という性質は直りますか。心大きく勇気のある人間になりたいのですが。

気が弱い、短気とかいった短所は、厳密に言えば、「性格」ではなく「性癖」です。「性癖」は、人間が過去世から
身につけて来た悪癖で、いずれ消えてゆくものです。「性格」は、神の分身である人間の尊い個性のことです。
個性は永遠に不滅であり、人間の美点でもあります。

人間の短所のことをいっている「性癖」は、人間の本質的な性格ではなく、いずれは必ず消え去る
運命にあります。しかし、このような性癖は、長い過去世から身につけた癖のため、自分の力だけでは
容易に消すことは出来ません。やはり業(カルマ)の一つになっています。このような性癖は、自分で消そう
とせず、普段の信仰生活の中で、神様に消して頂くように祈るべきです。時間はかかりますが、神様の
浄めの光により徐々にですが必ず消えてゆきます。

大きく人類の救いと幸福を祈る「世界平和の祈り」を称えていれば、自らの心も大きくなり、自分の小さな
癖は次第に消えてゆくものです。今、地球界には守護神、天使の群団が天下ってきて、地球人類の救いの
ために大きな浄化が行われています。人間の業や性癖も大きく浄められています。必ず消える時が来る
ことを信じて、守護の神霊への感謝と世界平和の祈りを続けて参りましょう。


問23 救世主の現れる前に、天変地異、戦争などがあり、人類は悲しみに覆われるだろう、
と預言されていますが、はたして真実でしょうか。


人類の激しい悪業の想念波動を見ていると、そのような状態が起こるかのように、いつの時代の予言者
にも思われた来ました。

神は、人間の魂の親であり、人間は神の子です。ですから、人類が追いつめられた時に備えて、
各人間に守護の神霊を配置して、人類を滅亡から救うことを決めておられました。そして、守護の神霊方は
救世の大光明になり、人類救済の活動を大きく始めました。守護の神霊による業想念の大きな浄めによって
地球上には、その何分の一の異常しか現れないことになっています。

私たちのぐっすり寝ている時も、守護の神霊方は休みなく地球人類救済のために、大浄化活動をつづけて
おられます。私は(五井先生)それを誰よりもはっきり知っています。知れば知るほど、守護の神霊方への
感謝で一杯になってくるのです。こうした守護の神霊がなければ、人類は滅びの憂き目に遭うかも知れません。

また、地球を破滅から救いたいと過去世から思い続けていた幾多の人々(地涌の菩薩)が、現代に生まれ
守護の神霊の元で世界平和を求めて救済活動を開始しています。私たちの世界平和の祈りが、深ければ
深いほど、大勢であるほど、地球世界は傷つくことなく救われてゆきます。世界平和の祈りから祈りに至る
生活の中にこそ、世界人類の恒久平和の道が開かれてゆくのです。


問24 自己の内部に神が在るのだから、他の人にお浄めなどしてもらう必要はないのではないか、
    と云う人がありますが、この点についてご説明下さい。


自己の内部に神が生き生きと存在し、自らの行動が、その神のうちもようしのままに成されている人は、現在
の世の中には殆どいないでしょう。

そこで、先覚者の空になった人の肉体から、流れ出る神の光明を浴びるるわけです。これがお浄めの状態に
なります。そうした姿を霊眼の開けた人が見ると、釈尊や主イエスなどの神々の姿が見えたりするのです。

絶対神の人間への働きとして、内部の直霊・分霊と、身近に守護している守護の神霊の二つの面があることを
忘れてはいけません。そして、あなたを守り導いているのは、守護の神霊であると改めて認識して下さい。
直霊・分霊は過去世からの業想念に蔽われていて、その光明を肉体生活に現すことが非常に困難になっています。
そこで、守護の神霊が、様々の先覚者のもとに連れて行って、業想念を祓ってもらうようにしてくれていることを
忘れてはいけません。人間救済の光は守護の神霊から来るのであることを銘記しなければいけません。


問25 いつも先生のことを思っていれば、先生の処へ行かなくてもよいのか、
先生の処には数多く伺った方がよいのかお教え下さい。

想いは常に波状になって流れているので、私を想えば、その想いは私のところへ必ず達します。
信者の人が私を想う場合には、常に個人の五井昌久を想うのではなく、神の器として、あるいは
神の場所としての五井昌久を想うに相違ありません。ですから私を(五井先生)を想っていさえすれば
肉体の私に会わなくてもよいことになります。

私の役目は、一人でも多くの人が一日も早く、真実に救われること、つまり、人間は神の子であって
不幸や不運などというものは過去世から現在に至るまでの神から離れていた想念が消えてゆく姿であり、
神の子人間の姿が現れるための過程であることを教えることです。

そして、そのために人間には守護の神霊が、常にその人の業想念を消す働きをしていて下さること、
そして、いつでも守護の神霊に感謝の想いを抱いていることが大切であることを知らせることにあります。

また、真実の世界人類の平和達成のために、「世界平和の祈り」を多くの人々に祈ってもらう
運動でもあるのです。

私の運動は一宗一派とか、一教団とかはまるで問題にしていないのですから、どこの
宗教団体に属そうと、どこの宗旨を信奉していようと、それは問題ではありません。


ただただ、地球人類を救い、個々の人々の運命を一日も早く改善させたい、という大神様の
大慈悲を、お取り次ぎしているのが私の使命であるのです。


問26 生活と宗教がちぐはぐになりがちですが、生活即宗教となる秘訣を教えて下さい。

私は、宗教とは面倒で煩わしいものではないと信じておりますし、そうした考えを実行に移して
皆さんに対しています。

宗教とは、人間が絶対者の分生命であることを知ることであり、自分を救って下さる神に対して
限りない、たゆみない感謝をつづけることなのであります。それは、日常生活そのままに、
誰でもが差し障りなく出来ることです。

ですが、逆境にあって神に感謝するのが難しい人には、今ある逆境は、過去世からの業の消えてゆく
姿であり、いづれ、人間の本質である神の子が現れてくる時が来るので、その業を消して下さる守護の
神霊への感謝をしていることを説いているのです。その感謝行には何の形式もいらないのです。
人間を救い、業を消して下さる守護の神霊に、ただ「有難うございます」と想ってさえいればよいのです。

宗教とは、信仰により救って下さる神仏に、素直に素朴に感謝を捧げることであります。これが、
生活即宗教の秘訣なのです。


問27 世界平和の祈りをしているうちに、次の言葉につまったりしますが、祈りは先生の書かれた
順序道理に唱えた方がよいのでしょうか。

世界平和の祈りは、文字に書いてある言葉通り唱えなければいけないとか、順序を取り違えたら
いけないとか、いうものではないのです。それは、文字以前の言葉、言葉以前の想念にあるからです。

ですから、世界人類が平和で・・・と、その人の想いが、その言葉の中に一歩飛び込めば、もうその人の
想いは、救世の大光明(人類救済の神々)につながり、その人の身体を通して、この地上界に燦然と
輝いています。この大光明は、その人自身を救うと伴に、その人の周囲の人々の業想念をも浄めて
います。
それは誰が祈ろうとも、そうなるのであって、特定の個人に限ることはありません。

救われると伴に、直ちに救いの光明になって世界を照らす祈りであることが、やがて広く人々に認識される
ことを私は確信しております。



問28 自己反省と「自分を赦し」という先生の教えとの関係をお教え下さい。

自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、というように、教義に自分という文字を入れておりますのは
自分というものは、自分にとってはもちろん、世界人類にとっても、一番大事な存在であるから、自分と
いうものを根底にして、すべての生き方を考えていかなければ、他の人のことを心から考え、思いやる
ことは出来ないと私は思っているからです。

良心的な人は自分を責めがちです。良心というのは、人間の本心(神)から出ている心なので、本心から
見ると、業想念は邪魔なもの、嫌なものになります。良心的なひとは、そうした不調和の状態にある自分に
対して、自己嫌悪をいだき、自分を責めてしまいがちです。良心的でない人は、業想念で良心が隠れて
しまっているので、業想念と本心の不調和を、あまり感じることが出来ないのです。

業想念とは今の自分から出て来ているのではなく、過去世からの誤った想念の積み重なったものである
という真理を認識しないと、良心的な人が、自分を赦したり、他人を赦せるようにはなりません。
このような真理を知った人が、自分や人の過ちを赦し得るのです。自分の悪をつかみ、人の悪を握って
いるうちは、この人類に、世界平和、神の国の出来ようはずはありません。


問29 ある新興宗教に入っている友人に、希望する物事を強く思って祈れば、必ずそれは与えられるのだ、
それが祈りだからあなたもそのように祈りなさい、と勧められましたが、祈りとはそんなものではないと
思うのですが、いかがでしょうか。


その人のいうことは、祈りではなくて念力です。一つの事柄、事物を強く想いつづけていれば、そのことが
起こりやすくなることがあります。しかし、それはその人の業想念の念力でありまして、神の御心がその人に
応えられたのではないのです。自分の欲するものを与えられることが、神の目からみれば、必ずしもその人の
真の幸福になるとは限りません。自己の我が儘が通ることにより、返ってその人が不幸になることがあります。

自分の願望を祈りにまで高めるには、神様にその事柄をおまかせしてしまうのです。祈りは願望を求めるのでは
なく、神様によきに計らって頂けるように、おまかせするのが真の祈りなのです。

霊性を開発することが、結果的に自己に必要なことを成就させることにつながります。霊性を開発する一番の近道は、
神様に守られ、救われていることを心から感謝することです。人間は神様を信じるだけで救われています。そして
この世でも、あの世でも幸福なることが約束されているのです。

そのことをよくよく思い、感謝の念をもちつづけるのです。感謝の想いは相手に同化する心なのです。ですから、
感謝すれば、神様の御心が自己の心に流れて来ることになります。神様の御心に満たされれば、自己に必要なことは
必ず成就します。そのように神様の御心により成就したことが、真の幸福をもたらすことはいうまでもありません。

祈りとは、自己の想念をすべて神様にお委せすることであり、その深い浅いはあるのですが、念力の願望とは
全く違うことを深く認識して下さるように願います。ですから、自己の願い事を「世界平和の祈り」の中に包含して
しまうと、その願望が、真に必要であれば必ず叶えられます。念力による願望成就ではなく、真の祈りによる
天命達成によらなければ、個人も世界も真の幸福をつかむことはできません。

祈りとは、自己の想念を、すべて神におまかせすることで、その深い浅いはあるのですが、念力の
願い事とまったく違うのであることを、皆さんが深く認識して下さるように願います。



問30 絶えず世界平和の祈りをしていなさいと教えられて祈っているのですが、口先ばかりの
空念仏のようになってしまって、よいものなのでしょうか。


世界平和の祈りを実行している人は、その祈りの根底に提唱者であり私(五井先生)を意識しています。
その人が私の存在を意識した時には、必ず神の許につながります。

「世界平和の祈り」と心にその想いを思い浮かべた時、私を通して神につながり、あなたの神の分霊の
心は、神の世界、世界平和の祈りの根源の世界へつながっていきます。

あなたが、自分の祈りを空念仏のように思おうとも、あなたの神につながった心は、神界の光明と合体して、
あなたの肉体身にその光明を送り込んで来るのです。その光明は、あなた自身の業想念など問題にせず、
あなたの肉体、幽体、つまり潜在意識を光明化していきます。

そうしますと、いつの間にかあなたは、信仰心が強まり、世界平和の祈りにより心の平安が生まれてきて
こんどは、理屈なしに、世界平和の祈りがつづけてゆかれるようになります。しかも、自己が知る知らずに
関わらず、あなたの肉体心を通して、神の光明があなたの周囲の人々に伝わっていくのであります。


問31 忍耐は人間徳性の最大なるものの一つであると云われていますが、先生はどうお考えですか。

忍耐は人間生活にとって、非常に重要なことであると思います。忍耐という理性の働きがあることによって
この世の生活秩序が保たれているからです。

しかし、心に抑圧された感情想念は、時を経れば必ず現れてきます。押さえていればそのまま消えてゆくような
ものではありません。押さえられた感情想念は、潜在意識から顕在意識へと回転してぐるぐると巡って、
心に現れ出ようとします。あまり抑圧すると、病気や不幸などの原因になってしまいます。

それでは、抑圧された感情想念はどうしたらよいのでしょうか?その様な感情想念は神の存在を知らなかった
自己中心的な想念の積み重なったものであることを理解して、神を信じ神におまかせして祈ってゆけば、神の
光明により、そのような業想念(感情想念)は消えていきます。

抑圧された感情想念は実在しているものではありません。神を信じることにより消えてゆきます。そのことを理解した
上での忍耐であれば、徳として生きてきます。いずれ、業想念のすべては消えてゆく運命にあります。その上での
忍耐であれば、信仰により上手に処することが可能になります。


問32 この世のすべては因縁因果の輪廻によって現れているので、因縁因果に支配されぬものはない、
と宗教的にはいわれていますが、人間は因縁にがんじがらめに縛られているものなのでしょうか。

ちょうど自然界が、科学的な因果法則に則っているように、人間の言動も倫理的な因果法則に従っています。
それでは、人間の運命は定まって変えることは出来ないのでしょうか。もしそうであれば、すべては宿命であり
人間は救われないのでしょうか。

実はそのような因縁因果を超えてゆくのが宗教信仰の道なのです。
ですから、この世は因縁因果の
波動であって、人間は因縁因果の束縛を逃れることが出来ないと思っているのは、真実の宗教を知らない
無知から来るのです。

そこで真の宗教観の確立が急がれることになります。人間の本質は神から分かれてきた神の子です。
しかし、肉体をまとい地球上で生きているうちに、いつの間にか人間は、神仏の心を離れてしまい、自分
勝手な想念を積み重ねてしまい、その業想念のおもむくままにしか生きてゆくことが出来なくなって
しまいました。その業想念が悪循環して因縁因果となり、不幸や災難を引き起こしているのです。

その業想念を消し去ってくれるのが神仏であり、守護の神霊とも言うべき存在であります。神仏を
信じる時、人は神と結ばれ救われると伴に、人を蔽っている業想念も祓われて行きます。そして、因縁因果を
超えて、光に乗せられて行くことになります。その終着点は神々の住み給う神界であります。神仏を信じる心
さえあれば
いいのです。私たちの唯一なすべきことは、神仏の愛を誉め讃えるだけなのです。


問33 先生は統一されると、肉体にはいらっしゃらないそうですが、先生の統一というのはどういうものですか。
    また先生が見えなくなってしまうということは、どういうことでしょうか。


問34 私は霊的能力が欲しいのですが、その方法をお教え下さい。

真の霊能力を求める人は、自分の肉体的な生命を捧げようというくらいの覚悟が必要です。そのような
覚悟をもってしても、幽界を抜け出して、霊界、神界に到達して真の神通力に至るまでには想像を絶する
ような神への強い信仰と勇気がなくてはならず、途中で挫折してしまうことの方が多いのです。

私(五井先生)は、そのような自力の行者ではなく、絶対他力の道をゆく者ですから、本心開発の道を
たどって行くうちに、自ずから霊能力を発揮していくことを望んでいます。

その道は、不都合な現象を消えてゆく姿であるとして打ち消して、人間を無条件で救済して下さる神仏の大慈悲に
ただひたすら感謝してゆく道であります。そのような感謝行のうちに、本心が日常生活の中に現れて、ものに
囚われない自由自在になっていくのが、真の神通力なのであります。


問35 いわゆる霊的な人とそうでない人がいますが、いったいどこがどう違うのですか。


問36 信仰するには思慮分別を捨てさらななければならぬということですが、分別を捨て去ったのでは
この日常生活がうまくいかぬと思いますが、一体どおゆうことなんでしょうか。

神仏は人間の五感にふれ得ぬもので、これだと手でつかみ目で確かめることの出来ないものですから
常識的な思慮分別を先に立てていては、信仰生活へ入ってゆくことは出来ないのです。

人間の思慮分別は、神仏の道に入るまでのものであって、神仏の道に一歩踏み入れたら絶対信の心で
行じてゆかなければなりません。それが誤って邪教の道であっても、その人が神仏に対する深い信があれば
その邪宗教さえも、そのひとの前にはプラスとなって現れてくるものなのです。

宗教信仰は本当に思慮分別を捨てると同時に、非常な勇気がいるのでありますが、それでは一般大衆の
救われる余地がなくなってしまいます。そこで、大衆の勇気の欠如や思慮分別の戸惑いはそのままでよいから
私(五井先生)にまかせて、私についていらっしゃい、私と一緒に初めは信じても信じなくてもよいから、私たちを
救い導いて下さる救世主である守護霊守護神への感謝をつづけてゆきなさい。そして、現れてくるすべての想念
行為や不幸な姿は、消えてゆく姿と思いなさいと私は説いているのです。


問37 個人の悪、社会悪、国の悪を、ただ消えてゆく姿であると見るだけでよいのでしょうか、
一切の悪は排除しなければいけないと思います。このような正義感は必要なのでしょうか。


正義感は大切であり尊い心です。一切の悪の排除も、真実の人間世界、神の国の建設には是非とも
なさねばならぬことです。真なる道、善なる道を貫いてゆこうとするなら、非常なる勇気がいることで、
生半可の気持では、その道を貫き通してゆくことは出来ません。ただ単なる正義感では、悪を排除するより
先に、自分がこの世界から消し去られてしまうほど、この地球世界は業想念に包まれてしまっているのです。

ですから、うかつに正義感を振り回すよりは、まず自己の深い洞察力を養い、勇気を養い、社会的にも
ひとかどの口をきけるだけの立場をつくっていることが第一であると思います。それと、悪行為をみて、
いたずらに興奮しないだけの宗教心を養って置かなければいけないと思います。

その宗教心とは、人間は神の分霊であり、あらゆる悪は消えてゆく姿であり、その悪に引きずり込まれ
なければ、その悪は必ず消え去ってゆくものであるという信念をもつようになることであります。

そうした神を信じ、神につながる人が増えてゆけば、社会の悪も減ってゆくことになるのです。真実の
正義感とは神につながることによって不退転になり、悪を消えてゆく姿とみることによって、あせったり
興奮することのない、冷静な判断力をもって的を得た正しい生き方が出来るようなるこであり、それが
力ある正義の行進となってゆくのであります。


問38 迷った霊魂を悟らせるのに、私たちに出来る方法をお教え下さい。

迷っている霊魂の氏名が分かれば、その霊魂の氏名を心の中で呼んで、守護霊さん、守護神さんどうぞ
この人をよろしくお願いします、と感謝の言葉を繰り返して置くのです。もし氏名の分かっていない場合は
やはり守護の神霊への感謝の言葉と伴に、我につながる親類縁者の霊魂をよろしくお願いします、と願って
おくのです。それと伴に世界平和の祈りを常に心の中で唱えていることです。

世界平和の祈りだけをしていれば、その人の周囲に、世界平和のために働いている救世の大光明が輝いて
いるわけですから、その人の周囲に集まっている親類縁者の霊魂は知らず知らずのうちに浄まってゆきます。

世界平和の祈りを根底にした生活をしていさえすれば、自己の生死の苦しみも、自己につながる霊魂の苦しみも
やがては消え去って、いずれも光明遍照の霊身に還るのであります。


問39 病気も業も消えてゆく姿だと知識ではわかるのですが、私自身も病人に対して
すっきり割り切れないのです。私は情にとらわれすぎているのでしょうか。どうすれば、
平静な、そして温かな態度で病人に接することが出来るでしょうか。


「病気はない、今すぐ立て」式のやり方は凡夫には危険です。あなたの病気は過去世から今生にかけての
悪想念の消えてゆくために現れている一つの症状なのだから、心をおびやかさず、ひたすら救世主である
守護の神霊への感謝行の方に、不安の想いを投入させて置きなさい。痛みが出ても、不安が出ても、懸命に
救世主である守護の神霊への感謝に自己の想念のすべてを投げ込みなさい。そのうちにあなたの完全性である
丈夫な身体が、内から現れて、やがて健康な身体に立ち返るのですよ、と説いて聞かせているのです。

その間、薬を飲もうと、注射を打とうと、それには一切口をはさまぬことにしているのです。その人がこの世に
まだ役目のある人ならば、守護の神霊は、必ずこの人の内部の力を引き出して、この人を癒し去ることを私は
知っているからです。注射や服薬が、時に病人の内部の治癒力を邪魔することもあるのですが、それさえも、
守護の神霊の癒しの力の前には問題ではなく、癒える時間が少し遅れるだけなのであります。

ですから病人を看護する時には、看護するその人が、病人の守護の神霊に対して、その人の病気が速やかに
治ることを想い、感謝を捧げてやればよいのです。上滑りしたような言葉で「病気は無い」とか「病気は業の消えて
ゆく姿だ」などど言って聞かせても、効果はなくかえって病人から冷たい人だと思われるぐらいがおちです。

言葉というものは、何も声を出さなければならないものではないので、消えてゆく姿という真理の言葉を、看護
しているあなた自身が、はっきり自分で思っていれば、そうしたあなたの信念が、相手の心に伝わって、病人の
生命力に力を与えてゆくのです。


問40 信仰の浅い深いによって、世界平和の祈りの効果が相違すると思いますが、私のような信じる心の
薄い者は、救世の大光明にしっかりつながることは不可能ではないでしょうか。


肉体人間には、天変地異を防ぐことはおろか、人間どうしの戦争でさえ防ぐことが出来ないということを
今日ほど身にしみて感じさせられる時はありません。そこで人間は、自分自身の力では、どうにも業想念の
回転を防ぐことは出来ないと諦めてしまうことが肝腎なのです。一度諦めてしまえば、そこから他力信仰の
世界が開けて来るのであり、信仰的にならざるを得なくなります。

あなたが世界平和の祈りをしようと思い立ったことで、すでにあなたは救われているのであり、救世の大光明
につながっているのです。それは、あなたがすでに肉体人間として自己の力に諦めを抱いた証しとしての祈りの
世界への突入だからです。

もうあなたの信仰が浅いとか薄いとかは問題外になっているのです。祈りの世界とはそういうところなのです。
祈ろうとあなたが想った時には、すでに神の世界からの光明が流れ込んで来ているので、あなたはその
時から業想念の世界の人ではないのです。(五井先生を信じて祈っている人は光明の世界にいる)ですから、
あなたは、そうした否定の想いが出たら、ああこれは私の過去からの習慣性(業想念)が消え去ってゆくために、
自分の脳裏に浮かび出たのだと思って、その想いを世界平和の祈りの方へ切り替えてゆけばよいのです。

だから、私はダメだとか、信仰が浅いからなどという想念も、すべて消えてゆく姿であって、念仏にも世界平和の
祈りの効果にもなんらの関係もないのです。ですから、どのような人であろうと、世界平和の祈りを唱えようと思った
時から、その人が口で唱えようと唱えまいと、世界平和の祈りという救世の大光明の光の中で、しっかりつながり
済みであるので、その人は世界平和を祈るみ使いということになるのです。


問41 姑さんと仲良く暮らせる方法を教えて下さい。

嫁となり姑となるのは前世からの深い縁があり、偶然にそのつながりが出来たわけではありません。大体に
おいて、嫁となっている人は、過去世において、姑になっている人に深い恩を受けていることが多いのです。
実母が今生における最大の恩人であることは、誰にでも分かりますが、姑が過去世での恩人であることは誰もが
思いにくいことです。

私たちのように過去世と今生との深いつながりを知っている者にとっては、お嫁さんは姑さんをそう言う意味の
恩人だと思って、恩返しのつもりで尽くしてあげなさいと言いたいのです。そうしていかないと、過去世からの
負債を、やがて何処かで無理に払わされる結果となって、未来で大きな心の痛手を受けてしまう可能性が
高いからです。

そういうことなしに、現在だけで考えても、愛情を注いで手塩にかけて育てた息子を、他の人に渡してしまうことは
その母にとってどれほどの気落ちになるか分かりません。それは、恋人を他人に取られてしまったこととほとんど
同じ感情なのです。そのような姑の感情を考えて、感情を少しでも和らげるような思いやりがあれば、きっと姑さん
との仲もうまくいくと思います。姑さんと仲良く出来るようなお嫁さんは、人間としてもできた人であり、神の祝福を
受ける人であると思います。


問42 先生はご指導に当たって、お前が悪い、お前の心を直せ等とは、絶対におっしゃらないのですが、
何故悪いところ指摘して直させるように指導なさらないのですか。

人間を肉体のみの存在者として考えている以上は、どんな科学的な研究をしても、どんな思想が生まれようとも
絶対に救われようがないのだと言うことを悟らなければいけません。だから肉体頭脳で自他を責めたり、あれが
悪いこれが悪いという考えを、一度すっかり捨てきってしまわなければいけない。肉体人間の能力だけでどのように
あがいたところで、個人も人類も真に救われることは出来ないのだから、肉体人間を遙かに超えた神様の能力に
一遍すっかり任せきってしまいなさい。個人の運命も、人類の運命も、すべて神様に一任してしまうのです。

人間が真実の救われに入るのは、どうしても霊的な力を肯定しなければなりません。肉体的な精神力などでは
世界人類の運命を変えるどころか、自分自身の悪い癖さえも直すことは容易ではありません。霊的な本源に
つながろうとするのに、肉体人間の想念行為を問題にしていてはいけないのです。

私たち宗教者は、ひたすら神仏の世界だけを自分に頼って来る人に知らせて、人の中にある神仏を引っ張り
出してやる助けをしてやればよいのです。それには、その人達の悪を指摘するような指導は、かえって悪の
存在をその人に再認識させるようなものです。人間はすべて神の子であります。悪とは神仏を離れたマイナスで
あって、その人の本心の中にあるのではありません。悪や不幸はすべて消えてゆくより仕方のないものなのです。

自分を責めるのではなく、神仏の慈悲にすがりさえすれば救われることを思い、神仏の慈悲を心から讃美していれば、
自ずと神仏と一つになり悟りの境地に導いてゆかれます。


問43 子供を育てるにはどのような心構えが必要でしょうか。

子供は神様からの預かりものである、と言うことを根本にして、子供の中に潜んでいる智慧や能力を引き出して
やらねばならぬ役目をもっていることです。子供を親の力で抑えつけて置くようでは、子供の内部から湧き上がって
くる生命力を妨げるようなもので、この子の天分を完うさせることは出来ません。

子供の教育に理屈はいりません。ただ、愛と感謝の想いが子供たちに通じるようにすればよいのです。愛と感謝に
満ちていれば、その人は自ずから柔和であり、美しくあるのです。その心が根本にあれば、後は時々の努力によって
子供をよりよく育てることは、非常に容易になるでしょう。

今のあなたのお子さんが間違った道を歩いているようでしたら、お子さんとあなたとの過去世の業因縁が、
今消え去ってゆくところなのだ、消えれば必ずよくなると思い、永遠の生命を与えてくださる守護の神霊
(救世の大光明)にひたすら感謝の祈りを捧げるとよいのであります。


問44 よく「私は見神した」ということを聞きますが、見神するということは、どういうことを言うのでしょうか。

見神とは、自分の本体(直霊)と一体になることを言います。真の見神とは、神我一体になりきった境地を
言うのですから、見神大悟したということであって、常に本心の中に住んでおり、業想念の波動には囚われ
なくなります。

私が言いたいことは、見神するとかしないかより先に、神は愛ですから、人類のすべてを救って下さることを
堅く信じることが第一であるということです。神がなぜ愛なのかと言えば、人間生命の生みの親であるからです。
人間の親でさえ子供を愛する想いは非常に強いのですから、神の御心が人間の迷いを浄め、人間が安心立命
するように願う想いは計り知れないものがあります。そこで、神は守護神という人間救済の働きに分かれて、
人類の本心を開発させようと、身近に働いておられるのです。

だから、救世主と現れた守護の神霊に感謝し続けていれば、いつの間にか見神と同じような状態になって、自己の
本体が自然と開発されてゆくことを私の体験を通して説き続けているのです。


問45 浄霊と徐霊の相違についてお教え下さい。

浄霊とは霊魂の曇り、妄念を浄めることを言いますが、この浄霊を致しますと、憑依している霊魂の妄念を
浄めると伴に憑依されている人の霊魂も浄まります。憑依していた霊魂の妄念も浄まるため再び他の人に
憑依して悪影響を及ぼすこともなくなります。私が日々行っているのは、この浄霊の方であります。

除霊とは憑依している霊魂を取り除くことで、憑依している霊魂の妄念を浄化したわけではないので、また他の
因縁のある人に憑依してしまいます。普通の行者は大体除霊をして頼みに来ている人だけを助けてやることが
多いのです。

浄霊の場合は、憑依している霊魂の妄念と憑依されている霊魂の双方を浄めて、一層高い境界に昇華させる
ので、非常に高い浄めの力がいるため、よほど高級な神霊が背後で働いていないと短時間で浄霊をすることは
出来ません。

病気も様々の不幸も、すべて過去世からの業想念の現れて消えてゆく姿ですから、その消えてゆこうとするものを
抑えても、その業想念が消えたわけではないので、その人が真実の救いの道に入ったわけではないのです。

こう考えて来ますと、短い時間で人間の苦痛を取り、その魂を浄めることが出来れば、それが最大の治癒であり
最大の愛の行為ということになります。その最もやさしく効果のある祈りが「世界平和の祈り」であるわけです。

世界平和の祈りこそ、自己が救われると同時に、自己の周囲、国家人類をも救う偉大な祈りというべきなので
あります。何故偉大なのかと言いますと、この祈りは肉体の私が提唱したのではなく、神界の救世の大光明から
私に提唱させている祈りであるからです。現代は観念的宗教理論などでは、どうにもならぬ時代になってきている
のですから、世界人類の業想念を大きく浄める「界平和の祈り」を宣布して、大いに広めなければいけないと切望
するものであります。


問46 信仰と医薬との関係を先生はどうお考えですか。

宗教信仰は純粋に精神の問題であり、霊的な問題なのですが、この世では精神と肉体とは離して考えることが
出来ないので、宗教信仰が、肉体の状態にも影響を与えることになってくるのです。

私の宗教は病気直しを看板にするような教えではありませんが、私の教えを実行しているうちに、いつのまにか
難病の治っていた人々も沢山あります。しかし、私は医者にかかってはいけぬとか、薬を服用してはいけないとか
いうことは一言も申しません。そうしたことは、宗教家の私の範疇ではないからです。

宗教者が医薬を疑い、「薬を飲めば薬害が体に入って私の治療が出来なくなる」と言って医薬を非難するのは、
平凡な信者に対して一種の脅迫になります。病気が治るどころかノイローゼになりかねません。

また一方で、医者の一部には、宗教信仰によって病気が治った事実を無視して、何ら探求もせず迷信扱いに
して、肉体的な治療にのみ専念しているのも、偏狭で良心的な態度とは言い難いと言いたいのです。

もう一歩進めて言えば、医学者は霊的な人間の研究をなすべきで、いたずらに肉体の症状を消し去る医薬
ばかりに依存していては、到底起こりうる様々な病気に対処することは出来なくなって来るであろうと言うことです。

医学者(科学者)と宗教者がお互いに人類救済のために助け合って行く時こそ、この世に病気や不幸がなくなって
行くのではないかと私は思っているのです。



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