宗教問答(正編)続き
個人指導中の五井先生
問47 世界平和なら、誰でも思っているし祈っている、という人がありますが、先生が世界平和の祈りとは、どう違うのでしょうか。
世界が平和であればよい、戦争がなければよい、みんなが幸福あればよいと思っている人はたくさんあると思います。しかし、そうした祈りと私の提唱している「世界平和の祈り」とは根底的にまるで違っているのです。
「世界平和の祈り」は、法然、親鸞が教えた念仏行のように、私と神界霊界を貫く救世の大光明との約束事であって、「世界平和の祈り」を祈ろうと想いさえすれば、人間の内部と救世の大光明とがつながり、自己が救われると伴に、人類の業想念も浄められて救われていくのです。
如何なる煩悩や苦悩があろうとも、「世界平和の祈り」を祈り始めれば、人間と救世の大光明(救済の神)がつながり、必ず救われるのです。これは私と救世の大光明との堅い約束なのです。
煩悩具足の人間の力では、自分も救われないし、世界もどうにもならぬという否定があって初めて、神仏の力により救われる「世界平和の祈り」が生まれたことをよくよく理解して頂きたいのです。
煩悩具足の凡夫の力に幾分でも依存した祈りでは、とても世界は救われないのです。全面的に神に委ねる
ことをしない人には、救世の大光明の力を全面的に受けることが出来ないからです。
煩悩具足の凡夫を捨て去り、神から素直に救いを頂こうとしている人ほど、救世の大光明の救いの力は
強まってきます。そのような神一筋の人々を一人でも多くつくるための祈りが「世界平和の祈り」なのです。
問48 世界人類の平和を祈るならば、まず自分が救われていなければならないと思います。自分が迷っていたり、病気をしていたりする不調和の状態で祈っては効果はないのではないでしょうか。
祈りとは、業想念の自分、つまり迷ったり、病気をしたりしている自分がするのではないのです。
祈りとは、人間内部の神性が、宇宙の中心者とつながって、光の交流をするためになされる
ものであります。
人間は本来神の子ですが、地球上で生まれ変わりしているうちに、業想念に汚され善悪混交のように
なっていまいました。地球人類は不幸災難に見舞われ、苦難の歴史が続いています。不幸災難や不満が
あるからこそ、余計に「世界平和の祈り」が必要になってくるのです。
そこで、不満の想念はそのままでよいから、世界平和の祈りをしてゆくのです。暗い部屋にいたら灯りを
つければよい。その灯りが祈りなのです。そうしますと、世界平和の祈りのもっている光明波動が、その人の
祈りの言葉の響きに乗って、その人の幽体、肉体に流れ込んできて、その人も気づかぬうちに、その不調和
の状態、不満の想念が消え去ってゆくのであります。
世界平和の祈りは、自己を光明化すると同時に、世界人類を光明化する祈りであって、往相(自分が救われる)と
還相(人々を救う)を同時に現すことになるのです。人間自身が安らかにならなければ、地球人類が平和にならない
ように、世界人類が真に平和にならなければ、個人の平和も成り立ちません。ですから、「世界平和の祈り」のような
人間自身の平和と世界平和とが、同じ祈りによって成就されるような祈りが必要になってくるのです。
問49 個人個人の守護霊さん、守護神さんが誰であるか、その名をしりたいという人がいますが知っていた方がよいのでしょうか。
この世での氏名とあの世でも氏名とは全く異なっているもので、守護霊が昔肉体人間としてこの世に存在して
いた時の氏名は、死後に幽界や霊界で保っているものではないのです。あの世に往ってからの霊的な修業
によって、守護霊になりうるような能力が備わってくるのです。ですから、この世の何の某と言われた人の人格と
霊界に於けるその人の霊格とでは、大きな差異が出来ており、まるで別人のような具合になっているのです。
こう考えてまいりますと、守護の神霊の方から、何らかの方法で自然に知らせられるまでは、守護の神霊の名前の
詮索などはせずに、守護霊様、守護神様という呼び名で感謝行をしていればよいと私は思っているのであります。
要するに、自己の内部の本心(仏性)を開発せしめてもらう援助者として、私たちの身近に働いて下さる守護の神霊は
、厳然として存在しているのだ、常に守り続けていて下さるのだ、と守護の神霊への感謝行を続けてゆくことが大事
なのであります。
守護の神霊(天使)は、人格的であって、光そのものでもあるのですから、そんなつもりで守護の神霊を考えて
もらいたいのです。
問50 前世がどんな人であったというせんさくは必要でしょうか。
特別の人以外には必要がないと思いますし、宗教の道とも直接関係はありません。しかし、あの世というものが
あるのだ、人間の霊魂は不滅であり、何度も生まれ変わるものであり、数々の経験を得て自己の神性を顕現して
ゆくものである、ということを悟るためには、ある人たちに過去世のことを教えて上げると、唯物論的な考え方を
なくするために意義があることと思います。
自然に知らされた時は、必要があって前世が知らされたのであり、それ以外の場合は、いたずらに詮索する
必要はありません。
問51 統一がよく出来た、出来なかったなどということをよく聞きますが、統一するということはどう
いうことなのですか、また、どうすれば統一がよく出来るのでしょうか。
統一とは、業想念(自我欲望)を超えるためにするのであり、業想念を超えれば自ずから神と一体となり、
神と一つであれば何もいらないといった境地に導かれます。業想念をなんら否定しないで、自己の念力で
統一しようとすることは非常に危険であります。
一度は必ず、自己の肉体想念(自我欲望)を消えてゆく姿として否定して、否定したところから統一に入ら
なければ、その統一はいつまでしても業想念世界の統一になってしまって、神の御心、本心開発には
役立たぬことになってしまいます。
そこで私は、人間を導き、救って下さる守護の神霊(救世主)への感謝を続けることを根底にした統一を
説いているのです。守護霊への感謝を人間側が続けていますと、人間が守護霊と一つになっていきます。
そして業想念を超えてゆき、真っ直ぐに神界(本心の世界)につながることが可能になります。
ですから、一定時間正座が出来なければ、日夜朝暮に守護の神霊への感謝と世界平和の祈りを続けて
いれば常に統一行と同じ効果を得ることが可能です。雑念は消えてゆく姿ですから、その雑念をあえて自力で
消そうとしないようにすることです。その様な精進努力をして参りますと、神我一体の境地になり、何ものにも
執着しない自由自在心になることが可能になってくるのです。
問52 念力と祈りの違いを教えて下さい。
念力は、自己自身の欲することに念に集中して、物事を得ようとすることです。神の御心はどうでもよく
神の力を借りてでも、自己の願いを実現しようとします。神は願望実現のために利用されているに過ぎません。
このような発想では、真実の救いや悟りに入ることは出来ません。かえってどん欲な低級霊の憑依を受けて
状況は悪化していきます。
真実の宗教心とは、ひたすら神仏を信じ、神仏の御心にお委せする心を言います。常に神仏の御心のごとくに
生きていこうとするものであります。つまり、人間が神仏と一つになることを目指しているのです。
祈りとは、神仏と一つになっていくそのものが祈りであります。その姿は、幼児が母親の膝に、「お母さん」と言って
すがりついてゆく姿なのです。ですから、真実の祈りには、念力が強いも弱いも、その人が偉いも偉くないも
ないわけで、ただ、神様阿弥陀様と言って、その御心にすがりついてゆくことが祈りなのであります。
問53 宗教に入り信仰している人に、不運や不幸なことが多く、そうでない無信仰人や、悪い人といわれる
人々の方が自由でのびのびしているのは、どういう訳でしょう。
真実の宗教の道を探り当てるまでは、さぐりあててもやや暫くの間は、不運とか不幸とかいう状態に他者の目に
みえることがあるのです。それは何故かといいますと、常に想念が何かに囚われているからであります。その
人々は、常に神仏の罰、心の誤り、行為の誤り、先祖の障り等々の教えに囚われてしまっていて、自分の心が
自由になれないでいるから、いつまでたっても、安定した姿が見られないのです。
宗教の道とは、本心と業想念とをはっきり区別して、業想念をすべて消えてゆく姿として突き放し、本心ひとすじに
神の心ひとすじに生きてゆく道であるのですから、日々現れる業想念の、怒りや妬みや恨み等々の波をいちいち
つかんで、自分が悪い、あの人が悪いなどと心を痛めつけていることは、およそ馬鹿げた反宗教的な生き方と
言うべきなのです。
神のみ心には悪も不幸も過ちもあるわけではないのですから、真善美と調和のみを自己のものとして生かし
他の如何なる想念行為も、過去世からの誤った生き方の波の消えてゆく姿と突き放し、囚われぬように
することです。そのためにこそ、「世界平和の祈り」の活用が大事な行になってくるのです。
問54 卑下や高慢はいずれも生命を汚すもの、というみ教えの歌がありますが、
この点を分かり易くお教え下さい。
卑下する気持は、実に高慢以上に神の御心にかなわぬ生命を汚す想念行為なのです。自分の心をへこませる
ことは、自分の生命の光つまり神の光を、自ら削り取ってゆくような想念であり行為であるのですから、神に対して
非常な不忠実になるのです。
神は生命そのものであり、本心そのもの、光そのものであって、自らの心を責め続けるような想念を喜び給うはずが
ないからであり、そうした暗い、悪をつかんだ行為を是とすることがあるべくもないからです。
卑下せんとする想いは業想念であり、卑下される想いも業想念であり、その心の底には、神の御心が常に明るく
素直に照り続けているのであり、それが人間の内にあって本心として輝いているのであります。そして、本心はただ
照り続けているのであり、本心そのものが、業想念をつかんでそれを責め裁いたり、痛めつけたりすることは絶対
にないのです。この真理を皆さんはよくよく知って頂きたいのです。
業想念の消えてゆく姿が現れた時、心が痛んだり、悩んだりするのは、あなたの本心が痛み悩むのではなく、
消え去ってゆこうとする業想念が、本心に照らされて自ずから痛み悩むのであります。そしてある時間を経過すれば
太陽の周りを過ぎゆく叢雲のごとく、いつしか消え去ってしまうのです。
問55 他の宗教にはお経をあげたり、正座観法をしたりする、いわゆる行があるが、先生のみ教えには
行がない、という人がいますが、どのように説明したらよいのでしょう。
私の教は行がないどころではない、行そのものの教なのであります。言い換えますと、信と行とが一つに融合して
神仏の姿をこの世に現してゆく道なのであって、日常生活そのままを道として生かしてゆく教なのであります。
まず、人間は本来神の分霊であって、業生ではなく常に守護霊、守護神によって守られていることを信じることで
あります。信じて初めて行にうつせるのであります。その行は何かといいますと、「世界平和の祈り」であります。
この祈りは信じるも信じないもなく、誰にでもウナズケテ、すぐ実行できる祈りであります。他の経文や観法などは、
その意味や方法などが、なかなか分かりにくかったり、行じにくかったりしますが、「世界平和の祈り」は、他のどんな
方法よりも分かりやすいものであります。
そして、消えてゆく姿で愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと伴に、救世主であり保護者である守護霊、守護神に
常に感謝をするように勧めているのであります。ですから、私の教は、信と行が離れ離れではなく、一つに融合されて
日常生活の中で、なにげなく実行されて、いつの間にか心が開発され、人類社会のために役立っている、ということに
なってくるのであります。
問56 キリスト教では人間は罪の子であるから、イエス・キリストに救いを求め、イエス・キリストに
よって救われには入らなければ救われない、と説いていますが、真実なのでしょうか。
イエスは、人間の原罪をその一身に背負って、人類の身代わりとして十字架にかかった人であり、
阿弥陀如来すなわち法蔵菩薩は、四十八願をたてて、自己の名を呼ぶ人間すべてが救われなければ
仏にならない、と宣言して仏になった人ですから、伴に人類救済の大悲願をもつ神の救済面の働きを
人格化して現しているわけです。
イエスの御名を称えることにより救われるのは当然ですが、イエス以外の神仏の御名による救いを邪教である
として否定するクリスチャンの態度には、私は断乎反対しているのであります。
真実のキリスト教は、天にまします(内在する)神を表面の想念行為に現すために、主イエスを呼び主イエスに
すがってゆくのであります。ですから、クリスチャンにとって、主イエスは天と地をつなぐ光の柱ということに
なるのです。
そこで、人間は肉体身としては罪の子であり、罪悪深重の凡夫、つまり業想念の所有者であるのだから、
肉体人間としての知識や能力だけで、いくらもがいても決して救われるものではない。救われるためには
肉体身以外の力、神(守護の神霊と本心)に祈りを捧げて、神仏の中に自己のすべてを投げ入れてしまえば、
自己にそのまま神の力が現れてきて救われるのである。人類すべての救いもその通りである。主イエスという
名の代わりに守護の神霊を救世主にしているのであります。
問57 み教えのとおり、現れて悪や不幸などを、消えていゆくと知っていますが、その後から
前と同じような悪いことや、悪い想いが起こってきます。本当に前の業は消えて行ったのでしょうか。
問58 写真でお浄めをするだけでも、その人の性格がよくなったり、病気が直ったりするのは
どういう訳ですか。それに五井先生と呼んだり、世界平和の祈りをするのと神様とただ呼ぶのとの
効果の違いも教えて下さい。
写真で浄めるより本人に直接会って浄める方が効果はありますが、写真でも本人のすべてがそこに現れて
いるので、神の光が私(五井先生)の肉体を通し写真に写っているその人の波動を経由して、その人自身の
業想念波動を浄めてゆくのであります。ですから原理としては同じことで、ただ複雑になるだけであります。
業想念波動を光の波で浄めれば、ちょうどクリーニングをしたようで、その人の心の響きがきれいになり、
病気も性質も直ってゆくに決まっているのです。私たちは魂のクリーニング屋であるわけです。
このような理であるのですから、本人も来られず写真もないときでも、ひたすらこちらに向かって想念を
集中していれば、こちらの光はその人の想念と波長を合わせてゆきますから、やはり効果はあるのであります。
真実、真心で神様を想えば必ず神の御心に通じます。しかし、普通の人は、疑念や恐れ、嘆きの中から神様を
想っているのでありますから、そうした業想念の中から神の御心に達するには、容易ではないのです。
そこで、キリスト教では、神と一体化したイエスを信じることを通して神の世界に飛び込ませるように説いているのです。
それはイエスを信じる方が神そのものを信じるよりも親しみがあり、より自然に信仰に入っていけるからです。
それは、私どもの場合も同じで、神我一体となった私(五井先生)がここに存在しているのですから、
より信じやすく受け入れやすいのであります。
問59 力みと勇気、怠惰とおまかせとの違いを分かり易くお教え下さい。
真の勇気とは、ただ単に肉体頭脳にある想念が力んでる状態とは全く違い、どのような状況にも耐え得る
不退転の心の力なのであります。
一般の人々がこのような勇気を得るにはどうしたらよいかと申しますと、自分の生命は神様から来ているもの
であり、自分の運命も神様の御心に従ってゆくものである。神様は絶対者であり大愛者であるから、自分の
子である人間のために悪いようにすることはないなのだ、ということを常に想い続けて生活していくことです。
自分が臆病な性格であれば、神は自分の中に光輝いて存在すると同時に、守護の神霊として守り救って下さる
ことを信じて世界平和の祈りを祈り続けていれば、必ずいつの間にか勇気ある人格に変わっているはずです。
ただ単に自己の責任を回避して、それがお委せであったとしたらとんでもない間違いです。この世はすべて
真剣に自己の生命を活かす者の勝利に帰するのです。真剣さのない好運などは、過去世の徳を消滅させて
いるだけで、決して真実の利得ではありません。
おまかせとは、神に一切の運命をおかえしすることです。み心の如くなさしめ給えという心境でもあります。
そのためには神を真剣に求める努力を払うことです。その一番の近道がたゆみなき世界平和の祈りなので
あります。
問60 先生は何故私たちの欠点を指摘して叱って下さらないのですか。
今日までの宗教家や修養家と称する人の指導の仕方は、こうしてはいけない、そんな心だから不幸になる
貧乏になる、家庭不和になる病気になる、というように、お説教ずくめで人を導こうとする形が多かったのです。
ところが実際問題としては、いくら心の持ち方を説教され、欠点を指摘されても、その時はそうだと思いは
するのですが、思うだけでその欠点がなくなるわけではないので、善良な人々は、なんとかその欠点を
外に出すまいとして、じっと耐えるようになり、そんなことの面倒な性質の強気の人は、何を面倒くさい、
という調子で、宗教や修養を離れていってしまう向きが多いのであります。
神様はそうした失敗をご覧になって、これではいけないと思し召しになり、今度は私に消えてゆく姿一本の
教えを説かせられたのです。悪も不幸も貧乏も病気も、すべては過去世から今日までの神を離れていた
想念の消えてゆく姿である、という教えの中には、今現在のその人の悪や過ちを掴んで責めたり叱ったり
する余地がまるでないのであります。
そうした業想念はすべて消えてゆくのだ、何故なら守護の神霊が人間一人ひとりについておられ、常に
そのような業想念を消して下さっているからであり、いつかはその人の本心が開発されて、神の子の道を
歩むようになるのだ、という単純明快な説き方をしているのであります。
この説明で、私が(五井先生が)何故人の欠点を指摘したり、悪をしかりつけたりしないかがお分かりのことと
思います。真剣に世界平和の祈りをしていさえすれば、あなたにも、あなたの周囲にも悪や不幸が次第に
消え去ってゆき、やがては、世界中が大調和してゆくことにもなるのであります。
問61 情と愛と最も見分けやすい方法と、使い方を教えて下さい。
理論的に説明すれば、愛という心は神の心そのものであり、大調和の心で本心そのものであると言えるのであります。
愛の心はそのように人の神性をあらわしますから、人の神性をあらわすためには、真正面にその道を突き進みますが、
この世の人々の心は業生と神性の混合心ですから、そのような強い真の心を受けかねるのです。そこで、愛がこの世で
働く場合には、柔らかく穏やかな情という形で働いてゆくのであります。
さて、ここで問題になるのは、愛の表現の情と、執着の表れである情との区別なのであります。一番根本的なことは、
その人がどれ程自分自身の我の想いが少なく、神にすべての想念をまかせてあるかどうかということになります。
愛情は普通は思いやりという形で表されるのですが、これさえも、相手への執着で表される場合だの、自分の心の
満足のためになされる場合があるのですから、ますます見分けが難しくなるのです。
この見分け方の一番簡単な方法は、自分の想念をいつでも神様の御心にまかせて置くことなのであります。これが
世界平和の祈りなのであります。どうして世界平和の祈りであるかと申しますと、世界平和の祈りを致しますと、その
人々の業想念はあっても、慈愛の柱がその人々の業を貫いて本心の光と交流してゆくので、その人々の本心の光が
素直にそのままその人々の行為になって現れてゆくのです。
ですから、世界平和の祈りをすることによって、愛の心が自然にその人の業をきよめつつ、相手の業想念を穏やかに
溶かしてゆくのであります。したがって、愛と執着との区別が自ずと出来るようにもなってゆくのであります。
問62 気持がいらいらするのは、業の消えてゆく姿なのでしょうか。それとも憑依作用なのでしょうか。
自分の業であろうと、憑依であろうと、それをいちいち区別する必要はありません。心の平安を乱す想念は、
どちらにしても、皆消えてゆく姿であると知ることが大事なのであります。ですから、ただひたすら消えてゆく姿と
思って、世界平和の祈り(神の御心)の中に飛び込んでしまえばよいのであります。
どんな想いにも囚われてしまえば、それがまた業になるのですから、囚われぬということが自己の心を平安にする
いちばん大事なことなのであります。人間すべてを業想念の囚われから救い出すために、神様は私に、消えてゆく
姿と守護霊、守護神による救われを説かせておられるのです。業想念の囚われたら解放されますと、人間は神の
子であるという体験的実感で生きて行けるようになるので、安心立命して人類のために働けるように
なるのであります。
ですから、どんなに気持がいらいらしようとも、心が落ち着かぬ時であろうと、その気持のままでよいから、世界
平和の祈り(神の御心)の中に飛び込んでしまうようにするのであります。世界平和の祈りは、そのまま神の御心で
あり、大光明でありますから、業であれ、憑依であれ、すべての業想念を消し去るに決まっているのです。
何度かは、世界平和を想う気持させも、そうした業想念が邪魔することがあっても、それでもよいのです。世界平和の
祈りの思いが心のごこかにあれば、やがて必ず、どんないらいらした気持の中からでも、世界平和の祈りの大光明に
つながり得るのであります。
問63 人間の実相は完全円満だから、人間悪を見てはいけない、すべての人間を神の子として
崇めなければいけないという考えがありますが、先生はこの教えをどうお考えになりますか。
私(五井先生)も、人間は神の分霊であって、本来は完全円満だと説いているのですが、だからといって
この地上界の人間の悪を見ずに、神の子として拝まなければいけないと誰もが神の子として拝ませるような
導きはしていないのであります。私は肉体界の人間の業想念の波の層の容易ならざる根深さを知っている
からであります。
人間には本心と業想念があって、本心の周りを業想念が取り囲んでいるので、人間神の子の本心がなかなか
現れないでいるのだ。だから、人の本心と業想念とをよく区別して相手の業想念に引きずり込まれないように
しなければいけない。本心と業想念との区別をつける最もよい方法は、守護霊様に常に想いを向けていれば
自然と守護霊様から教えて下さるのだと説いているのであります。なんでもかんでも悪をみてはいけないと
なりますと、自分の悪を責めてしまったり、相手の悪を見ないように、自分の心を偽るようなことになり、偽善者を
つくりかねないのであります。
天の真理を地上に開顕するには、守護霊様、守護神様という光の柱と、消えてゆく姿という真理の言葉が
必要なので、神の子完全円満という観念だけでは、どうしても、こうしてはならないという強制の言葉が出来て
しまうのです。
そこで、「世界平和の祈り」という分かり易く、行じやすく、そして自己の浄化と人類社会の浄化が同時に出来る
方法を神様から広めさせても頂いているのです。無理に悪や病気を見ぬようにするよりも、悪は悪とみて、それも
消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまう方がより自然で実行しやすいのであります。
問64 霊能者には変わった性格の人がいますが、人格の高さと霊能力とは違うのものなのですか。
霊能者といわれる人は、その人の悟りから霊能が生まれてきたわけではなく、人間のもっている幽体が肉体より
はるかに大きく、幽界の波動を感受しやすい人たちなのです。その人の人格の高底によって、他界から憑いている
生物や霊魂のレベルが違ってきますが、低くても肉体生活に近い物質的な波動をもっているので、返って肉体界の
消息や物質的な動きがよく分かるのです。
ところが、霊覚者というものは、人格の高さイコール霊能の高さということになるのです。霊覚者は自己の本体が
神であることを認識体験して、自己の霊性をすっかり開発した人のことでありますから、霊能と人格がアンバランスに
なることはないのです。霊覚者は、いたずらに個人の歓心を買うための予見はしないので、派手な能力を見せることは
あまりありません。霊覚者の使命は、人々の本心開発、社会人類の根本的な進歩にありますので、そのために、
霊覚を発揮してゆくのであります。
問65 五井先生のところに行っていれば絶対に運命が悪くならないはずのに、貴方が事業に失敗したのは
おかしいではないかと、人から疑われます。どう説明したらよいでしょうか。
信仰しながらの事業の失敗や病気や不幸は、その人達の本心開発の障害になる業因縁を、守護霊様
守護神様が、軽い苦しみの内に消し去ってくれている姿であって、その人にマイナスになる失敗や病気では
ないのであります。その原理を悟って、すべての不幸や失敗は、業が消滅して神の光明による真実の幸福を
この世に於いても実現するためのものであります。
ですからあなたは、その失敗のことについて、とやかく言い訳をせず、明るい顔をして、新しい事業の道に
進んでいくことです。あなたの心に私(五井先生)を信じる心があれば、あなたは必ず事業にも恵まれて、
明るい一生が送れるのであります。
あなたが事業に失敗したということは、あなたのやり方が悪いとか、誰かの働きが足りなかったという現在の
出来事ではなく、過去世からの業因縁の消えてゆく姿である、ということをはっきり知ることが大切であり、
今日までのやり方を悔やんだり、責めたりしないで、さらりと消えてゆく姿の中に流し込んでしまうことです。
私の宗教は、根本を本心開発、霊性開発に置いているのであり、その開発に従って、その人の生活の向上や
真の幸福生活が現れてくる、という教えなので、ただいたずらに私の処に来れば、事業をよくして上げます、
貧乏を直して上げます、という教えではないのであります。
問66 肉体人間の誕生や前世については、数々と説がありますが、先生の説はどのようなものか、
お聞きしたいと思います。
神と人間その他の著書にも書いていますが、人類としての発端は、宇宙神が各種の光を放ち、人類の根源を
七つの光としました。それを直霊とよび、人類は誰一人としてこの直霊の分霊でないものはありません。そこで
人間神の子という真理の言葉があるのです。
そしてこの直霊(親神様)から分かれた分霊がまた幾つにも分かれ霊界が出来たのであります。この霊人たちが、
宇宙神の創造した宇宙の星々に分霊魂魄となって、物質体をまとって生活することになり、ここに初めて地球に肉体人間
と同じ要素をもつ人間が現れたのであります。
次に輪廻についてお話致しましょう。輪廻とは三界(肉体界、幽界、霊界の下層)を自己の想念によってつくった境遇を
輪のように回り続けることであります。つまり自己の想念行為のままに、生まれ変わりして、肉体界と他界とを往ったり
来たりして生活していくことであります。
この輪廻は、自己の想念行為の波に乗って回り続けるという法則が出来ておりまして、如何なる境遇が現れてきても
、それは自己の想念行為のわざであるのです。この輪廻の法則を断ち切り、乗り越えるためには、自我欲望の想念を
すべて神にまかせてしまうことが一番の近道であるのです。その道を常に説いているのですが、消えてゆく姿の教えと
守護霊様、守護神様の加護と救世に対するたゆみない感謝であります。そして、それに加えて世界平和の祈りであり
ます。神の世界に想念が入っていない以上は、苦界というべき三界の輪廻転生は止まないのですから、いち早く
神の世界に飛び込んで、輪廻の世界から逃れ、光明世界に住することが肝要であります。
すべての不都合な現象は、消えてゆく姿として、世界平和の祈り、神の御心の中に投入し続けていれば、真理の世界に
いつともなく入っていて、輪廻の世界を超えて行くのであります。また、神仏の愛と慈悲を信じることにより、神仏の救済に
乗せられて、輪廻転生の世界から超えて行くことが可能になるのであります。皆さんは、素直に神の愛を信じ、自己の
神の子であることを信じ続けて、世界平和の祈りの中に生活していって下さるようにお願いします。
問67 私は消えてゆく姿のみ教えを出来る限り行している者ですが、過去に商売のことで借財し
未だ返しえずにします。他人に迷惑をかけたことも消えてゆく姿と思っていいのでしょうか。
人間の想念行為の習慣というものは、過去世から積み重ねられたもので、ちょっとやそっとで変えようと
思っても、やめようと思っても、抑えてみても、なかなか自分の想い通りになるようなものではありません。
今日までの宗教者の説教は、このような業想念の因縁因果を絶対的に受け取り過ぎるか、業想念の波の
重さも計りもしないで、ただ単なる理想を押しつけようとしていたのであります。
そこで私(五井先生)は、不都合なことが起こるのは業想念が消えていっているのであり、そのような現象が
現れることが、もうすでに自分の中にある本心が輝きを増しているのだから、自己の心も運命も開けて行って
いるのであると教えると伴に、人間の業想念を背負い消して下さっているのは、守護の神霊なのだから、守護の
神霊への感謝で生活して、自己や人、世の中をも責め裁くことから解放させているのであります。
本題に戻りますが、問のような場合は、迷惑をかけた相手に心からお詫びして、改めて心を立て直して、そうした
過去は消えてゆく姿にして、自分の業想念を浄めて下さる守護の神霊への感謝と伴に、相手の本心の発展を
相手の守護の神霊に向かって心の中で称えてあげるとよいのです。
相手の本心の発展を願うことは、相手に光を送ることですから、相手の業想念も浄められ、あなたを恨む心も
いつしか消え去っていくのです。もし一生返済できない場合でも、今申し上げたような祈りをしていますと、形を
変えた大きな恩返しになっているのです。
問68 道を歩いても神社やほこらなどを見ると、すぐ拝みたくなるのですが、拝んでも差し支えありませんか。
だいたい神様というものは、人それぞれのうちに神性として存在しているのであり、また身近には、守護霊様、守護
神様として、その人を守り続けているのですから、やたらに現世利益のための神社仏閣詣でや宗教教団入りなど
せぬ方がよいのです。
現世利益ばかり思っている人に、どこの神様が利益を与えるでしょうか。そのような人に利益を与えるのは、動物霊
といわれる幽界の感情霊(不良想念)だけであります。そのような幽界の生物は、現象利益を与える代わりに、その
人に憑依して、その人を弄びます。
神仏を拝みたくなったら、私(五井先生)の提唱している世界平和の祈りを唱えるとよいのです。
世界平和の祈りは大乗的な菩薩的な祈りであって、自己のご利益本意の祈りではありません。ですから、自己の
業想念の波はこの祈りの中にはありません。もしあっても、世界平和の祈り自体のもつ光明に消されてしまいます。
何処かの神社やほこらに、たとえどのような幽界の生物が住まっていようとも、世界平和の祈りをする人を冒すことは
出来ません。出来ぬどころか、世界平和の祈りの大光明に照らし出されて、そのものらは浄まって本来の世界に帰って
行くことになるのです。
常に世界平和の祈りの中で生活して下さい。世界平和の祈りによる生活は、あなた自身を善くするだけではなく、
あなたの周囲にあるすべての人々に、あるいは物に好影響を与えているのですから、ただひたすら世界平和の祈りの
中で生活して下さい。光明はあなたの周囲から次第に全世界に輝きわたり、真実の人間世界の平和が訪れてくる
のであります。
問69 妹が心臓を患って長いこと寝ております。なんとかして治したいと思っていますが、病気を治したいと
思っている間は病気は治らない、とある人から云われました。これは、どおいうことなのでしょうか。
病気を治そうとしているうちは治らないと誰かに言われたそうですが、それは、病気というものに想いが囚われすぎて
いては、消えてゆく姿である業想念をつかんでいて、消え去るのを邪魔しているのではないかという意味であると思い
ます。
健康というのは、生命力が想念行為に邪魔されずに肉体全体に働いているときの状態ですが、一度想念行為が
生命力の素直な働きを阻止し出すと、阻止しただけが、肉体の働きのマイナス、あるいは生活環境のマイナスに
なってゆくのです。ですから、病気でも貧乏でも、神から流れてきている生命の働き霊の働きを、想念行為で邪魔し
阻止したときに、その原因が出来、やがて消えてゆく姿として、肉体や運命にその結果を現してゆくのであります。
たとえ現在どのような家人が病み伏していようと、業想念のマイナス面が病気という症状に現れて消え去ろうとして
いるところなのだから、すべての苦悩を消えてゆく姿と捉え、それだけでは心が明るくならぬでしょうから、守護の心霊
への感謝の中に、病気に囚われる想念をすべて投入してしまう祈りを常にし続けるのであります。
そう致しますと、病気病気という暗い想い、治るか治るかという不安の想いなど、生命の働きを妨げる想念が、守護の
心霊の光の中で消されていき、病気がそれ以上悪化することを防ぐと伴に、守護の心霊の光明が、その病人の幽体や
肉体に流れ入り、生命と想念のアンバランスを調整してくれるのであります。そうした心構えを根底にして医療を受けて
いれば、その治療も大なる効果を収めてゆくと思うのであります。
すべて自分や自己の関係者に不都合のように見える事態は、過去生からの業因縁が消え去ってゆく姿であり、
消え去ってゆくにしたがって、その人や周囲の人々の心も運命も開けてゆくのですから、再びそうした業想念を
積まぬように、神の御心の中に祈り心をもって入り込んでいることが大事なのです。それが、私(五井先生)が
提唱している世界平和の祈りなのですから、世界平和の祈りを、心の中で鳴り響かせてゆくようにしていることが
大事なのです。
問70 世界平和の祈りの中にある、私たちの天命が完うされますように、ということは、どういうことなのでしょうか。
天命とは、天の命、すなわち神の命神意ということで、また神から来た命ということでもあります。人間のすべては
神の命を分け与えられてこの世に生きているのであり、神の御心を一人一人が果たしていくべきものなのです。
神の御心というのはどういうことかと申しますと、一つの生命が多くに分かれて働き、しかも一つにまとまり、なめらかな
調和した交流となり、様々な色彩をもちながら大調和した姿を地上界に現すことで、いわゆる地上天国という世界を
顕現することにあるのです。
人間一人ひとりは、神の御心の分かれであり、み光の分かれであり、それにはずれる者はないのです。
しかしながら、一生でこの世の天命を果たしていく人と、果たしきれずあと何度もこの世に生まれてくる人が
あるわけで、その差は、その人の本心をおおう業想念の層の深浅にあるのです。
そこで、私たちの天命が完うされますように、の祈りの意味がはっきり分かって来ます。私どもは、この世で
今生で、私たちの天命を完全に果たしてゆきたいと思うのです。それは、この世的な業想念による運命が
起こってくるのとは意味が違うのであります。
ところが、ほとんどの人は、自己の天命が何であり、どのようなものであるかが分からないのです。はたして、
今している仕事が天命なのか、自分の生活が天命にかなっているものなのかがはっきり分からないのです。
そこにこそ、世界平和の祈りが生きてくるのであります。世界平和は神意であります。世界平和の祈りは神の
御心であります。個々人が自己の天命の如何なるものかが分からぬとしても、いずれも神の御心神意を現す
ためにこの世に生活していることには相違ないのですから、神意である神の御心である世界平和の祈りをする
ことそのものが、その人の天命を完うしていることになるのであります。そしてその人の仕事あるいは家庭を
通しての働きは、日常そのままで天命に通ずるものとなってくるのであります。
この理が分かっても分からなくても素直に世界平和の祈りをしていれば、いつの間にか、何の理屈なしに、あなた
方は天命を完うしているのであり、神の御心である、地上天国顕現の一つの役割をなしつつあるのだということに
なるのであります。
ですから、気にそまぬ職業に憂憂としておられる人も、病床に呻吟しておられるひとも、世界平和の祈りの中に
自己の想念を投入していることだけで、自分がこの世に生まれていることを意義づけていることになるのであります。
自己の業想念を、神のみ心、み光に常に投入して、平和の祈りでこの世の業想念を少しでも
消滅するために役立っている人は、すべて天命を完うしている人と云えるのです。
問71 縦横二元論を、すっぱり縦一元論に割り切ってしまったとは、どのような意味なのでしょうか。
この世の中は、人間は本来神の子であるという縦の教えと、すべての人間の救われを説く横の教えとが
あるのですから、私の教えは縦横の大調和を説いています。
私(五井先生)の横の教えは、消えてゆく姿として何者にも何事にも想いをとらわれないようにしているので、
横の教えといっても業生をつかんだ横ではなく、縦の教えの光り輝く状態と同様になって来るのです。
ですから、消えてゆく姿を横の教えとして、如何なる業想念(怒り、恨み、妬み等々)が出てこようと、
どのような病気や不幸が出てこようと、みな過去生からの業想念の消えてゆく姿であって、消えてゆくに
従って縦の教えである人間神の子の本心が光輝いて来るのであると説いているのであります。
ですから、横の教えもやはり神の子人間としての人間を観じているのであります。ですから、人間を責めさいなむ
誤った教えと誤解されないように、縦一元と割り切ってと申したのであります。消えてゆく姿を横の教えとして説いた
時には、もはやその横の線は縦の光明の中に吸い込まれてしまっているので、その瞬間に縦横が大調和して
天地を通した円光になっているのであります。
消えてゆく姿という教えには業生の人間をつかむ姿はないので、業因縁を分析して、自己を責めたり人を
裁いたりしてはいけないのです。もし消えてゆく姿と思いながらも、自己を責め、人を裁く想いが出てきた時には
その想いも消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の中に、もっと進んで世界平和の祈り中に投入してしまうのです。
徹底した消えてゆく姿で、祈りの中に、神の御心の中に自己を住まわせてしまうのです。
今日までの宗教があまりにも、人を責めてはいけないと説きながら、その教義が自ずから自他を責め裁かずには
いられぬようになっているのを、常にこれではいけない、教義にも実際の生活面にも、一切責め裁かぬ愛と赦しの
教えが必要だと痛切に思っていたのでありますが、ついに現在の教えのような、消えてゆく姿と守護の神霊の
加護による救われを、体験を通して説き始めたのであります。
問72 道を尋ねる教団や道場でかえって人々の想念を背負って、数日病気のようになっていまいます。
これは、どうしたこでしょうか。
肉体が微妙な波動を感じるように出来ている霊的な人たちは、ともすると他の想念を受けやすく、因縁の深い人に
あったりするとその人の因縁を受けて病気のようになったりすることが多々あります。
宗教教団の幹部が低級な霊魂であったり、浄める力の弱い中心者の教団であったりすると、そうした教団に
近寄ることが、かえってその教団の業因縁を背負うことになって、宗教をしていることがその人のマイナスになることが
あります。
ですから宗教教団に入るのは慎重でなければいけません。義理や無理強いに負けて
教団入りすることは、およそ馬鹿げきっています。下手な教団入りするよりは、日常生活の
中で常に神への感謝をつづけている方が、よほど上等なのであります。
安心立命を求めるなら、自己に与えられた職業や環境の中で真剣に生き抜いていくところから
始めるべきです。
道は近くにあります。安心立命の姿を現すには、自分の本心は神の光であると思い定めること、神は人間の
魂の親であり、愛そのものですから、常に人間を救おうとなさっていること、人間の上には守護の神霊が
護ってくださり、自分の業因縁を常に消し去って下さることを信じるようになさることです。それに加えて、
消えてゆく姿の教えをよくかみしめて、日常の生活に活かして下さることがよいと思います。
自分の安心立命を求めると同時に、どうぞ世界平和の祈りの中に、あなたの日常生活の全部を投げ出して
ゆかれることを望んでいます。世界平和の祈りこそは、自分を救うと同時に地球人類の真実の姿を顕現する
、つまり往相と還相を同時に成就できる祈りであるからです。
問73 一人出家すれば九族救われるという言葉がありますが、どういう意味でしょうか。
この場合の出家とは、単に僧侶になるとではなく、御仏と一つになり神と真実につながればというように
解釈をしております。神仏の御心の中に業想念をすっぽり投入して、神仏の側から生まれ変わった境地に
なった場合は、神仏のみ光が自己の肉体を通して親類縁者にまで浄めの働きをしてくれるという意味であります。
ですから、現代人としては、僧侶になったり牧師にならなければ救われぬというわけではなく、常に神仏の御心の中に
想念を入れきっていて生活さえしていればよいわけで、そうした祈りの生活こそ、自己を救い九族を救う生き方に
なるのであります。その一番易しい方法が、世界平和の祈りなのです。
問74 病気になったり、不幸になったりするのは、その人の魂が低いからだと思う人があるようですが
先生はどう思われますか。
病気になったり不幸になったりするのは、確かに魂の因縁や、業想念が表面に現れてきたことに違いありませんが、
それを魂の高低に結びつけてはいけません。人格者でも病気をしたり不幸にあったり、平凡な人でも何ら病気をせず
不幸な目に会わずに一生を終わる人もあるので、そんなに簡単に価値判断をされたらかないません。
病気や不幸は、生命と想念行為とのアンバランス、不調和にあるので、生命の働きを素直に働かせるか、生命の働きを
抑圧したり、妨げたりする想念行為が多いか少ないかによって、病気や不幸の差が出来るのであります。もっとも
この想念行為というのは、今生だけのものではなく、過去生プラス今生の想念行為ということですから、お間違えないように
お願いします。
人間は魂の高低に関わらず、自己の運命や人類の運命の善なることを信じることが大事で、人生の物事をあまり悲観的に
見たり暗い不快なものとして見たりすることは、自己の魂を汚し生命の働きを阻止することになって、せっかく善良な人柄を
神とのつながりによる生き方にまで昇華できないでしまうのであります。
神の光をそのままこの地上界に現すためには、善良なる人々が神の大愛を信じて、神の御心にお任せしきって生活して
ゆくような生き方になってゆかねばなりません。そういう生き方をするのに一番易しい方法が、私(五井先生)が提唱して
いる世界平和の祈りによる生活なのであります。白光誌の教義と世界平和の祈りによる日常生活を続けてゆけば、この世に
必ず神の国が生まれてくるのであることを、どうぞ信じて下さい。
明るく大らかに、そして清く正しく生きるためにも、人をも自己をも責め裁かぬ白光の教えを行じていて下さい。
問75 高い霊覚をおもちの先生が、一切そういった預言をなさらぬのは何故ですか。
人類にとって不幸なる預言は、人類にその預言の実現を防がせようとする気持ちを起こさせるよりも、人類の気持ちを
萎縮させ、暗くさせる率の方が多いようです。私は(五井先生)人間の心を萎縮させたり、暗くさせたりすることを極度に
嫌う立場に立っています。
人間には常に勇気と希望を沸き立たせなければいけないと私は強く思っているので、人間の力ではどうにも防ぎようも
ない未来の不幸を預言したりすることを、私は好まないのであります。
私の霊覚には、個人個人の運命の波も、地球人類の運命の波も、かなり明らかに映っていますが、それは幽界に
映っているものと神界にてなされているものと大別して二通りあるのです。大半の預言者の不幸なる預言は、幽界に
出来ている波を見ていっているのでありますが、それだけが人間や人類の運命ではありません。そして、そうした運命を
個々人の上にも、人類の上にも出現せしめない方法は、個々人の想念のすべてを神の世界、守護の神霊の御心の
中に託してしまう方法なのであります。
託しますと、人類の想念は神界とつながり、神界においてすでに出来上がっている地上天国、大調和世界の姿が
、この地球界に顕現してくるのであります。いまこそ地球天国のために尽くさなければなりません。私は、その方法の
中で一番易しい方法を地球界の人たちに教えるために、守護神団の器となって生かされているのであります。
この方法には何らの預言もいりません。ただ実際行動が必要なだけなのであります。天の理念を実現せしめる
実際行動、それは人類守護の神霊の光明に輝く、世界平和の祈りを日々常住坐臥に行じ続けてゆくだけなのです。
皆さんが一度でも世界平和の祈りをしようと、世界平和の祈りを唱えたその日から、その人の心の中では、世界平和の
祈りが鳴り響くのであります。親鸞の申した一念の念仏と等しい方法になっているのであります。それは声で唱えずとも
頭脳で思わないでも、そのままその人の心で一生を通して世界平和の祈りは鳴り響くのであります。
問76 梁の武帝が、達磨大師を宮中に招待して、寺を建立し、自らも写経もしたから、御仏も功徳も報いて下さる
だろうと云うと、達磨大師に「無功徳」と云われたそうですが、この無功徳ということについてお教え下さい。
肉体界、霊界のどちらの功徳かは知りませんが、そうした功徳を自己の布施行と引き比べて望んでいたところが
武帝の言葉の中には、はっきり見えています。
ところが真実の功徳というものは、実は何の功徳をも望まず布施行をするところから得られるもので、得ようとして
得られるものではないのです。
なぜならば、何らかの功徳を得ようとしている想念は業想念であって、本心ではないので、そうした業想念の中で
いくら布施行をしても、常にその布施行に我欲の匂いがしみついているわけであって、させて頂くのだという業想念を
超えた謙虚さや、本心から輝き出ている光の行為ではないのであります。すべての行為は愛と真から発していないと
真実の功徳を得る行為にはならないので、いくら布施行をしても献金しても、それは無功徳というわけになるのです。
神仏の大愛や慈悲に対して自ずから生まれてくる、させて頂く、やらせて頂くという謙虚な布施行は、すでにそのまま
光であり、そのまま真実の功徳への道であるのです。何ごとにつけても、思い上がりの気持ちをもつことは、その人を
傷つけ低めるだけであって、決して功徳への道ではありませんので、何か他人に善事をして、その善事にとらわれる
ような想いがある場合には、ああそうした想いも業想念で、消えてゆく姿だと祈りの想いにすりかえるようにすると
よいのです。
生命が人間として自己に生きているということが、すでに大いなる功徳なのでありますから、その功徳を益々生かして
ゆくように、謙虚な気持ちで、常に業想念は消えてゆく姿の教えを信じて、世界平和の祈りの中から、皆さんの生活を
なさってゆくことが、この世に置ける最大の善なる真なる生き方であるのです。
問77 中庸を得た生活とは、一体どのような生活なのでしょうか。
中庸とは孔子が説かれた根本の道です。
中庸の道を進むには、まず自己意識の感情想念を超えていなければなりません。感情想念に左右されて
いるようでは決して中庸の道を進むことは出来ません。自己の利害関係、自己の周囲の利害関係に囚われて
いては中庸の道を進むことは出来ません。
何故かと申しますと、中庸の道というものは、相対を超えた絶対の道、天(神)の心のそのまま素直に現れた道と
思っているからであります。そうした考えをつきつめてゆきますと、肉体人間では真の中庸を得た人にはなりえない
という結論に到達するのであります。
私(五井先生)はそれを悟りまして、肉体人間の自己というものを、神の御心の中に投げ出したのであります。
私には何一つ満足に出来ないのですから、神様どうぞ私の生命を神様の御心のままに働かせて下さい、と生命
ごと投げ出してしまったのです。
神様にすべて投げ出した時から、それまでの肉体人間の私ではなくなってしまい、神の子としての人間を発現する
道に突入していったのであります。そして、この人間世界というものの複雑なる組織、神と人間との関係や、中庸の
道に入りうる方法などを、守護神霊各位から、次第に詳しく教えられていったのであります。そして、常識を外さず
常識を越えた生活が出来るようになったのです。いわゆる肉体人間の形のままで、神霊人と成り切ることが出来る
ようになったのであります。
神人、霊人にならなければ、肉体界の業想念の渦を超えうることは出来ません。肉体界の業想念を超え得ないで
相対世界の渦の中にいて、中庸の生活が出来るわけがありません。
しかし、誰でもこの一生でこの様になれるわけではありません。そこで私の体験を通して、この世やあの世の業想念に
囚われることなく、いつの間にか神霊と等しい境地の世界の住人となり得る方法を、教え始めたのであります。それが、
消えてゆく姿と、守護の神霊への感謝、及び世界平和の祈りなのであります。自己の想念を常に神の御心の中に投入
して置くことこそ、中庸の道が易しく出来る道であり、神霊の調和した愛と真と美の御心が、自ずからその人の生活の中
に巧まずして現れてゆく道なのであります。
力まず、気張らず、そのまま全託になり得る方法、それが世界平和の祈りなのであります。そして中庸の生活が出来うる
唯一の祈りなのであります。
問78 食欲とは性欲とかを本能として肯定していましたが、これと業想念についてお教え下さい。
食欲や性欲という本能は、肉体人間に不可欠な本能ではありますが、その本能が神の御心にかなうためには、
やはり、神の御心の現れでなければいけません。これは、根本的な人間観、世界観によって決まってきます。
食欲や性欲を神の御心にしていゆくには、食事をすることによって、自己の肉体が保たれ自己の天命が完うされて
ゆくことへの感謝の念、関係することにより二つの魂が一つに結ばれお互いの長所が交流し合うという感謝の
念、これこそ食欲や性欲を業想念にしない方法なのであります。そうした感謝の念を根底にして、世界平和の祈り
をなしている人は、神の御心中に生きている、地球の業想念波動の中にいながら、業想念を超えている生活者だと
言えるのであります。
この世の楽しみを味わうことは宗教的な罪悪かということについては、楽しみを味わうことが何故宗教的な罪悪なのか
と反問したくなります。真理をしらない偏った考えの宗教者は氷のように冷たく固まった感情の持ち主であることが
多いのですが、この世の生活を楽しんではいけないというに至っては、神の御心をまるで知らない宗教者であると
いうより他はありません。
この世は日常生活を楽しみながら神の世界を表してゆく処であって、凝り固まった暗い表情で、悪から逃れよう
逃れようとして生活するところではないのです。真の宗教者は人間が神の子であることを知っていますので、
その人が罪を犯すことはないということを知っているのです。人間が罪を犯しているように見えるのは、神を
離れていた想念が、表面に現れて消えてゆこうとしているところであって、真実の人間がしているのでは
ないのです。
そこで消えてゆく業想念から人間の想いを放すために、常に守護の神霊への感謝と世界平和の祈りを人々に
するように勧めているのっであります。
どんな業想念が来ても、その度ごとに神への感謝に振り替えてしまってこそ、人間の真実の姿である、神の子の
心、光の子の心が顕現されてくるのであります。この方法は、法然親鸞の念仏一念と同じ方法なのであります。
それが私の方では世界平和の祈りという現代的な誰にでも分かりやすい言葉になっているし、実際に世界平和の
祈りを祈る処に救世の大光明が輝きわたるという体験からも教えているのであります。
人間が固まった自由のきかぬ暗い気持ちで生活していたらいつまでたっても神の国は出来上がらないし、
その人の魂も向上してはゆきません。明るい清い自由な楽しい雰囲気こそ真に神の御心に叶う生き方なので
あります。
問79 霊界で相当なところにいながら、まだ解脱していない仙人がいるとありましたが、
なぜ解脱できないのでしょうか。
仙人と一口に言いますと、もうすでに多くの行を積んで解脱し得た人と思われることでしょうが、如何に多くの
行を積んでも、それで解脱できるものではありません。表面的には何らの宗教的な行を積まぬようにみえる
農家の老婆などが、すっかり解脱して霊界入りすることもあるのです。
解脱ということは、すべての執着を離れ去る、つまり自由自在な空の境地になることでありますから、自力行の
人々にはなかなか大変なことであります。この仙人などは、まだ一つの型にはまった修行を霊界入りしてからも
やり続けているので、その型から抜け出られずにいるのです。いかに通力を備えていても、自己の心に何らかの
囚われがあれば、それは解脱したことにはならないのです。
この世の宗教者の中にも、難行苦行の末、相当の通力を備えながら、どこか偏った行いの人がいますし、何か
すっきりとしない澄み切らない雰囲気を持っていたりする人もいたりします。
私はいつも申すように、他力の行者でありまして、この肉体人間にまるわるすべての想念行為を、神様にすっかり
返上して宗教者としての生活が始まったものなので、私自身の修行の型とか、習得した呪文などは全くないので
あります。
今日私が説いている世界平和の祈りにしても、消えてゆく姿にしても、自然法爾に守護神各位から説かされている
のでありまして、私自身は赤子のような、否もっと空っぽの心の状態で生きているわけなのであります。しかし、そう
した生き方が、自ずから常識を外さず、常識を越える霊肉一体の調和した姿になって、この世と神の世をつなぐ光の
柱の役目をなしつつあるのであります。
もっとはっきり申せば、私という個人は全くなくなって、世界平和の神の御心が、私の肉体を使って、世界平和の祈りの
行を、地球人類のすべてになさしめようと働いておられるのであります。
問80 悟りと感情についてご説明下さい。
問81 一度世界平和を祈りを祈れば、祈り言はもう鳴り響いているとは、どういうことなのでしょう。
問82 堕胎は宗教に見て悪なのでしょうか。
問83 ある宗教団体が「道徳の原則に反した政治には、流血の犠牲を惜しまないものである」と
声明してますが、先生はどうお考えですか。
問84 個人のために祈ることについて
問85 生活に困っている人と世界平和の祈りについて
問86 悟りについて
あなた方が世界平和の祈りに同感して、私たちの同士として祈りの行をつづけておられることそのものが
もう既にあなた方の救われを決定づけているものであり、あなた方の過去世における精進の
賜であることを証明しているのでありますから、世界平和の祈りを素直になさっている方々は
大安心してよいのです。
問87 説教や個人的な祈りではもうだめだということについて
善行為へのヒントだけでは、現代のように個人および人類のカルマが表面に全面的に
浮き上がっている時には、本人が行いたいと思っていても、そうしたカルマが邪魔して
行い得ないのです。
世界平和の祈りは、自己の本体を現すおこないなのです。神は人間の本体と一つですから
そこに神が現れているので、その人の生活は神の子的生活になるのです。
問88 キリスト教、仏教、神道と先生の教えとはどう違うのですか。
問89 医薬と宗教について
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