生きている念仏

                                                           
序文
肉体身の法然や親鸞は七八百年も前の人であるが、その教えによって開かれた道は、永遠の生命につながっている道であって、その中に宗祖たちの霊身は輝きわたっているのである。私はその真実を霊覚によってはっきり知っているのである。

念仏と世界平和の祈り

・権力欲と共に打ち上げられた人工衛星
・どいしようもない日本の立場
・肉体人間の無力さ
大衆は何にも分からないのであります。分かったような顔をしている知識人や政治家たちの大半も、みんなが何にも分からないままに、自分たちの希求する世界平和の夢から業想念の闘争不調和の波の中に巻き込まれようとしているのであります。
・理論で知ろうとするよりもまず神を思うこと
・大衆の中から生まれる妙好人
浄土門、いわゆる他力門は、如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれば、すべて浄土に救い取られるのである、といわれているので、どんな無学な者でも入りうる道であり、日常生活そのままで、救われの道に入りうるわけであります。

・才一と南無阿弥陀仏
つまり、阿弥陀仏(神仏)に初めから救われているのだから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
称えてさえいれば、いつか阿弥陀仏と一つになってしまうのだ、ということなのであります。

・現代人と南無阿弥陀仏
・人類共通の悲願ー世界平和の祈り

凡夫と仏性

・人類の幸せを導き出す生き方は何か
・妙好人因幡の源左の言行
・西田天香と源左
・源左の無我の心境
阿弥陀如来の在り方は、世界平和の祈りのもつ救世の大光明と同じであって、
ただ一念の祈り言でその人は必ず救われるのです。人類救おうとしての出現が救世の
大光明であり、その救われの方法が世界平和の祈り言であるからです。

・源左の一体感と光明思想
・源左の生き方に学ぶ
どんな業想念も悪行為も阿弥陀如来の大光明を消すほどのものはないので
如何なる業想念も不幸災難も、そのまま光明の生活とふりかわってくることになるのです。
どんな厚い氷でも、太陽に照らし続けていれば熔けてしまうのと同じようなものです。


・「神の生命我において働き給う」に徹しよう
善といい悪といったところで、その場その時の消えていゆく姿にすぎないのです。ただ永劫に消えない
行為は、神と一つである生命の働きだけなのでありまして、神の生命我において働き給う、という
実感が続いているとき、その人は真の幸福者なのであります。

・念仏の奥義
・神は愛なりの堅信で祈ろう
皆さん個人個人も現象的には、嫌なこと、苦しいことがたくさんあるでしょう。日本の姿も
人類世界全般の姿も、嫌なこと、苦しいことだらけの様相を呈しております。しかし、ご安心下さい。
神は大愛であり、慈愛の大光明です。貴方や貴方の周囲やそして世界人類を、このまま
苦しみの中に放り出して置くわけはありません。貴方も人類も必ず救われるのです。とれは
単に時間の問題なのです。

み仏の心のままに

・妙好人宇右衛門さんの話
自分の顕在意識では分からないが、すべては阿弥陀如来のみ心によって現れて来ることなので、
その事柄が如何に自分に都合が悪い事柄であろうと、素直に受けきって生きてゆく、素晴らしい
真理の生き方を、何気なく当然のこととして行じている、この宇右衛門の素直に徹した姿は
光輝く尊いものです。

・神のみ心に波長を合わせる
世には何々の神でなければいけない。何々の仏でなければ救われないといって
宗派争いをしている人もありますが、実に馬鹿げきったことでありまして、宗教の道は
自己の本心開発のために必要なのであり、宇宙神のみ心を自己の心として
生きてゆける道が宗教の道なのであります。


世界人類が平和でありますように、という祈り言にのって、神のみ心に心の波長を合わせるわけです。
すると、巧まずして、神と人との心の波長がぴったり一つに合致しまして、神我一体の響きが
この宇宙に鳴り響くことになるのです。

・妙好人を一人でも多くつくり出すために
・生命の素直な流れを邪魔するもの
・頂き直した生活を

救われの自覚

・人間の生き方を考える
・信仰の無償性ー亀井氏の宗教観より
・誰でも救われようとして信仰に入る
・信仰は知的遊戯ではない
・祈りは必ずこたえられます
・肉体人間はみな五十歩百歩
偉いといい、偉くないといっても、肉体人間観をはなしていないひとは、五十歩百歩の凡夫なのです

・闇を消す明かり
初めから信ではじまり、在りとしあらゆるものへの感謝行で生活してゆくことが
真実の宗教精神でありましょうが、この理想に初めから到達する人はめったに存在しないと思います。
そこで私は、誰にでも出来、何気なくでも行じていれば、いつのまにか心のもちかたも、自然生活も
知らないうちに明るくなっていく、他力的な世界平和の祈りと消えてい行く姿を広めているのであります。

自らを智者と思っている愚者


・虚無感に導く誤った仏教研究
・危険な遊戯
・仏と神とは違うのだろうか?
言葉で仏といおうと神といおうと、それはどちらも絶対者の意味であり、絶対者が
そのまま働いているという意味であるのです。


・守護神の援助で釈尊もキリストも悟った
・自らを智者と思っている愚者
・幸いなるかな心の貧しき者
神を除外して肉体人間に知恵能力が思い上がっている人は、その考えが
改まるまでは、安心立命の生活は出来ないのであります

法然・親鸞と今日の浄土門

・読者からの質問
・法然と親鸞
「ただ南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて
申して申す他は子細そうらはじ」法然

・親鸞のくびかせ
・弟子にも理解できなかった親鸞の本心
・時代と共にすくへの門は広くなければならぬ
・現代の浄土門
宗教はとらわれを放つこと、神仏の心を心として自由自在に生命が活動できるように
するためにある教えなので、宗教があるために人々がとらわれを作るようでは、
その宗教の間違いか、やるひとが間違っているかのどちらかなのです。


善人と悪人

・自己の想念行為を見つめ見極めた親鸞
独りよがりの善人顔をしていたのでは、本心開発の道は遠いので、守護の神霊は
その人の本心開発に、また別の運命をその人のために切り開くようにするでしょう。
それは前世とはうって違った、苦難の道であるかも知れません。


・本心に忠実であれ
・神仏だけを相手にする
・現代に生きる親鸞の心
・世界平和の祈りで本心が現れる
・幸不幸の分かれ目はどこに
人間の生活というのは、はたしてどういう生活が幸福で、どういう生活が不幸なのか
こう考えてくると、なかなか判らなくなってくるものです。良さそうな生活が、永遠の生命
本心開発の道から見ると、案外悪い生活であり、悪そうな気の毒そうな生活をしている人が
案外、本心開発の道の近くにいる、ということになるのですから、悪そうな生活やみじめそうな
生活環境の住者も、そう悲観落胆したものではありません。要は、永遠の生命(神の生命)を
自己の生命と一つに結びつける、いわゆる本心開発の道にはいりさえすれば、すべてが神の光に
包まれた生活になってくるのですから、そうなるための精進努力がまず最大のことであるのです。


・念仏を一歩進めた世界平和の祈り
・「敵をやっつけよう」から平和は生まれてこない

大乗仏教と親鸞

・浄土門的宗教とは
・法華経の教え
・法華経から浄土教へ
・親鸞の悟り
・阿弥陀仏と本心
・庶民大衆への教え
・肉体人間は罪悪深重、本心は仏
一度念仏門に入り、一念の念仏でも唱える想いになれば、迷いの想いが起こるたびに、
救われたいから、唱名念仏をしないではいられぬ、というふうに親鸞は思っていたのでしょう。
親鸞は、人間を罪悪深重といいきりながら、人間の善性、仏性をはっきり知っていたのでした


・自然法爾の親鸞
人間の本体は久遠実成の仏であり、大生命であって、肉体があろうとなかろうと、働き続けている力であって
永遠不滅のエネルギーであり、叡智者であります。そして業想念は迷いの想いであり、
やがては消え去っていく姿であります。


生きるということ

・生命がそこに生きていること
・人間の本質
・真実生きるということは
・守護の神霊とまったきつながりを得るには
神の世界に自己の想念を、世界平和の祈り言にすがって入れる生活を続けていることは、
いつの間にか、自分が守護の神霊との一体化をなしえてしまうことであり、自分が神霊の世界に
住み着いていることになるのであります。

・神に生かされている生命
・人間皆宇宙神の光の一筋である
・業想念を光明に変える祈り

裸のこころ

・そのままの心で生きようとすれば
・良心に恥じる行為をしなくても生きられる
・理想だけの押しつけは心を傷つけ、偽らせる
・信仰心を見せかける必要はない
・導き方として最も重要なこと
・すべての人の救われの道
・神秘自在な者になるために
・世界平和を祈る時あなたは神の器だ

小我の放棄

・個人差に合わせた導き方
宇宙のありとしあらゆるものは、無限の進歩向上を目指して進んでいるのでありまして、人類という者は
その中心的存在なのであります。ですから、人間は嫌でも応でも率先して進歩せざるを得ないようになって
おります。その人類の進歩は、そうした使命を持つ神々が、常時背後にいて、陰ながら援助指導しているのです。
肉体人間としては考えられもしないような、綿密な計算のもとに、神々の活動はなされているのであります。

・人間は肉体を器とし場所として働いている生命
・生きているということをじっくり考えて見よう
・凡人が悟りうる方法
・救世主のみ心によってはじまった世界平和の祈り
・悪想念も不幸も過去世からの業の消えてゆく姿
・高次元の光明波動に同化させる
・悟りはもはや時間の問題
一度光明波動の軌道に乗れば、その人はやがて神我一体になりうることが
確定しているのであります。

・努力、反省そして祈り
易行道には無理があってはいけません。無理なく自然に悟れるのでなければ、易行道とはいえません。
しかし、努力なしに悟ろうなどということはとても出来得ないのです。たとえどんなことがらでも、
努力しないで熟達するということはありません。



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