生きている念仏
人間の意識

人間の意識は、我々が普通に意識と呼んでいる顕在意識(肉体意識)と潜在意識(幽体意識)、さらに人間の本体である神意識があり、決して単一ではありません。

顕在意識と潜在意識とはつながっており、業想念がくるくる回っていて悪循環しています。この悪循環を超えて、人間の本体の神意識に達するには、守護の神霊(神仏)の助けが必要です。人間の力だけでは、完全に業想念の壁を越えることは出来ません。

阿弥陀信仰

阿弥陀信仰では、如何に業が深くとも、念仏を称えさえすれば業を持ったままで救われるのです。ですから、顕在意識に出てくる業想念(煩悩)のすべてを念仏の中に投げ込んでしまい、み仏の方から救いを頂きます。病苦も、生活苦も、人間関係の悩みも、罪の意識も、すべてをありのままに念仏に投げ込めば、救って頂けるのです。

救って頂けると同時に、念仏の光明の中で、様々の業想念は浄められて行きます。肉体人間は、業の深い凡夫です。そのようなどうしようもない凡夫を、み仏は、なおさら憐れんで救って下さいます。阿弥陀如来の本願は、そのような凡夫の一人一人のためにあるのです。こんな出来の悪い自分を救って下さるためにあるのだと思うと、「有難い」という想いがこみ上げてきて、つい念仏を称えてしまいます。それは、み仏により救われた感謝の念仏でもあるわけです。

み仏は、煩悩をもったまま救って下さった救世主です。その救世主の御名である念仏を、感謝の念をこめて、日夜朝暮に称えます。念仏は、仏性(神意識)の現れです。ですから、念仏を称えている人は、仏が顕現してきているのです。意識に現れる煩悩を追わず、常にみ仏を想って念仏を称えていますから、その時は、仏(神の子)になっているのです。

「信じる者は救われる他力門」
何故信じるだけで救われるのでしょうか。ヨハネ伝、パウロ、法然、親鸞、五井先生は、それを繰り返し説いています。それは、守護の神霊(主イエス、宝蔵菩薩、五井先生等)が人間の業をすべて背負って消滅して下さるからです。特に他界するときに、守護の神霊がすべてを浄めて、天に連れて行って下さるからです。ですから守護の神霊は救世主であるわけです。人間も自分の業の一部を背負いますが、それは人間を鍛え経験を深めさせるために、学習の教材としてあるわけです。人間には、自らの業の消えてゆく姿として様々な苦悩がありますが、それは、魂の経験を高めるためにあるのです。ですから、苦難は自分の魂を鍛える絶好のチャンスなのです。艱難汝を玉にす、であるわけです。主イエスも五井先生も、人類の業を背負う受難を受けられ、そして神の右に座されたのです。

パウロの言葉

パウロは、主イエスを信じて救われた感動を、「古き我は死に、主イエスが生き給ふ」と言っています。同じことは、阿弥陀信仰にも言えます。阿弥陀如来に救われて感動した人は、「古き我は死に、阿弥陀如来が生き給ふ」と言うことが出来るでしょう。そうなれば、その人は、阿弥陀如来と一つになっています。悟りの境地にあります。とにかく、阿弥陀如来を救世主として救われた人は、日夜朝暮に、阿弥陀如来を想う人になるということです。それが深まれば、パウロのような言葉が生まれて来るわけです。

煩悩即菩提

人間は、普段は様々な悩みや不満を抱えています。悩みや不満が、念仏を称えることにより、感謝の念に変わるのなら、まさに意識の大きな革命です。感謝の祈りを捧げる人は天国浄土の人です。不満はそれに反する想いです。念仏により救われた人は、「有難い」という気持を持っていますから、天国浄土の人になるのです。

念仏と世界平和の祈り

五井先生は、念仏と世界平和の祈りを同一原理によるものである言われています。阿弥陀如来は救世の大光明であり、念仏は世界平和の祈りであると説明されています。念仏と世界平和の祈りのどちらが向いているかは、個人の感性であると思います。世界平和の祈りは、個人の救われと同時に、人類の救いをもたらす点で一歩進んでいるのかも知れません。その意味では、

南無阿弥陀仏

世界人類が平和でありますように


と祈ってもよいと思います。


雲厚く 煩悩具足の 身なれども 救ひ賜る 弥陀ぞ尊き



関連サイト内HP

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B.G.M.

ヘンデル「メサイア」 「主は羊飼のように」



「我にふれるなかれ」
(復活のキリスト) コレッジオ




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